方丈記『安元の大火』
このテキストでは、
方丈記の一節、「
安元の大火」(
予、ものの心を知れりしより〜)の現代語訳・口語訳とその解説を記しています。書籍によっては「
大火とつじ風」と題するものもあるようです。
方丈記とは
方丈記は鎌倉時代に
鴨長明によって書かれた随筆です。
兼好法師の『
徒然草』、
清少納言の『
枕草子』と並んで「
古典日本三大随筆」と言われています。
原文
予(われ)、ものの心を
知れりしより、四十(よそぢ)あまりの春秋を送れる間に、
(※1)世の不思議を
見ること、
ややたびたびになりぬ。
去んじ(※2)安元三年四月二十八日かとよ。風激しく吹きて、
静かならざりし夜、
(※3)戌の時ばかり、都の東南(たつみ)より火
出で来て、西北(いぬゐ)に
至る。
果てには朱雀門(すざくもん)、大極殿(だいごくでん)、大学寮、民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰(ぢんくわい)と
(※4)なりにき。
火(ほ)もとは、樋口富小路(ひぐちとみのこうぢ)
とかや。舞人(まひびと)を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、
とかく移りゆくほどに、扇を広げたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりは
ひたすら炎を地に吹きつけたり。空には灰を
吹きたてたれば、火の光に映じて、
あまねく紅なる中に、風に
堪へず、吹き切られたる炎、飛ぶがごとくして、
(※5)一、二町を
越えつつ移りゆく。その中の人、
うつし心(※6)あらんや。
あるいは煙に
むせびて倒れ
臥し、あるいは炎に
まぐれて
たちまちに死ぬ。あるいは身一つ
辛うじてのがるるも、資財を
取り出づるに
及ばず。七珍万宝
さながら灰燼となりにき。その
費(つひ)え、
いくそばくぞ。
そのたび、公卿(くぎやう)の家十六焼けたり。
まして、そのほか数へ知るに及ばず。すべて都のうち、三分が一に
及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人。馬牛のたぐひ
辺際を
知らず。
人の営み、みな
愚かなる中に、
さしも危ふき京中の家を作るとて、財(たから)を費やし、心を
悩ますことは、
すぐれてあぢきなくぞはべる。
現代語訳(口語訳)
私が物事の道理を理解するようになった頃から、四十年あまりの年月を過ごしてきた間に、世の中の思いもよらないことを見ることが、次第に度重なった。
去る安元三年四月二十八日のことだったか。風が激しく吹いて、静かではなかった夜、午後八時ごろ、都の東南から火が出て、西北に(火が)達する。しまいには朱雀門、大極殿、大学寮、民部省などにまで(火が燃え)移って、一晩のうちに灰となってしまった。
火元は、樋口富小路あたりとかいうことだ。舞人を宿泊させていた仮小屋から出火したのだそうだ。吹き乱れる風に(あおられて)、あちこちに火が燃え移っていくうちに、まるで扇を広げたかのように火が末広がりになった。遠くの家は(家の人が)煙でむせび、近くあたりは炎が地面に吹き付けた。空には(風が)灰を吹き上げたので、(それが)炎の光に照り映えて、(あたり一面が)残す所なく真っ赤になっている中に、風(の勢い)にこらえきれず、吹きちぎられた炎が、まるで飛ぶように、一町、二町を越えては(燃え)移っていく。その中にいる人は、正気があるだろうか、いやあるはずがない。ある者は煙にむせて倒れふし、ある者は炎で気を失ってすぐに死んでしまう。ある者は体ひとつでやっとのことで逃げたものの、資材を取り出すことはできない。様々な貴重な財宝はすべて灰になってしまった。その損害はどれほどであろうか。
そのとき、公暁の家が十六棟焼けた。まして、その他(の身分の低い人の家)については数え知ることはできない。(被害にあったのは)都全体のうち、三分の一に達したとか。男女の死者は数十人。馬や牛などのたぐいにいたっては(どれほど被害にあったのか)、その限りはわからない。
人間のすることはみな愚かであるが、(その中でも大火に見舞われた)あんなにも危険な都の中の家を建てるといって、財産を浪費し、心を苦しめることは、際立って甲斐のないことである。
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