『大江山の歌・小式部内侍が大江山の歌のこと』原文・わかりやすい現代語訳と解説
このテキストでは、
十訓抄の一節『
大江山の歌』(
和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに〜)の原文、現代語訳・口語訳とその解説を記しています。十訓抄は鎌倉中期の説話集です。編者は未詳です。
書籍によっては『
小式部内侍が大江山の歌の事』、『
大江山のいくのの道』と題されているものもあるようです。この説話は
古今著聞集にも収録されていますが、若干原文が異なります。
※古今著聞集Ver.:
『小式部内侍が大江山の歌のこと』の現代語訳と解説
※
古今著聞集は、鎌倉時代に橘成季によって編纂された世俗説話集です。
このお話のあらすじ
和泉式部は才能にあふれた歌人として知られていました。この話が起こった当時、和泉式部は夫の転勤で丹後に引っ越しており、京都には娘の小式部内侍だけが残されていました。
ある日、小式部内侍は、歌詠みの大会(歌合)によばれました。歌合とは詠んだ和歌の優劣を競い合う文学的な遊びのことです。有名な歌人を母にもつ小式部内侍には、周囲からの期待がかかります。そのような状況下で小式部内侍は、定頼の中納言に「歌の名人であるお母さんに、代わりに歌を詠んでもらうために遣わした者は帰ってきましたか。」とからかわれてしまいます。
からかわれた小式部内侍は、すばらしい歌でこれに答えます。その時に詠まれた歌がこの「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」です。あまりのすばらしさに返す言葉もなくなった定の頼中納言は逃げてしまいました。そんな、すかっとするようなお話です。
原文
(※1)和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下り
(※2)けるほどに、京に歌合
ありけるを、
(※3)小式部内侍、歌詠みに
とられて、歌を
詠みけるに、定頼の中納言
たはぶれて、小式部内侍ありけるに、
と言ひて、局の前を
過ぎられけるを、御簾より半ら
ばかり出でて、
わづかに直衣の袖を
控へて
と
詠みかけけり。
思はずに、
あさましくて、
とばかり言ひて、返歌にも
及ばず、袖を
引き放ちて
逃げられけり。小式部、これより、歌詠みの世におぼえ
出で来にけり。
これは
うちまかせて理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、
ただいま詠み出だすべしとは、
知られざりけるにや。
現代語訳(口語訳)
和泉式部が、藤原保昌の妻として、丹後の国に赴いた頃のことですが、京都で歌合わせがあったときに、(そこに和泉式部の娘の)小式部内侍が、歌の詠み手に選ばれて歌を詠んだのを、定頼の中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、
「(お母さんに歌を詠んでもらうために)丹後におやりになった人は(帰ってきて)参上しましたか。(使いが帰ってくるのを)さぞかし待ち遠しくお思いのことでしょう。」
と言って、局の前を通り過ぎられたところ、(小式部内侍は)御簾から半分ほど(体を)乗り出して、少し(定頼の中納言の着ている)直衣の袖を引き止めて、
大江山を越えて、生野へとたどっていく道が遠いので、私はまだ天の橋立を踏んでみたこともありませんし、母からの手紙も見ておりません。
※
小式部内侍が詠んだ歌の解説
と詠んで返歌を求めました。(定頼の中納言は)思いがけないことで、驚きあきれて
「これはどういうことか。このようなことがあるものか、いやない。」
とだけ言って、返歌もできずに、袖を引っ張って離してお逃げになりました。
小式部内侍は、この件以来歌詠みの世界で評判が出てきました。
これは(和泉式部の血をひいた小式部内侍にとっては)ふつうの道理にかなっていることなのですが、あの卿(定頼の中納言)の心には、これほどの歌を、すぐに詠んで披露することができるとは、おわかりではなかったのでしょうか。
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