十訓抄『文字一つの返し』
このテキストでは、
十訓抄の一節『
文字一つの返し』の原文、現代語訳(口語訳)とその解説を記しています。
※十訓抄は鎌倉中期の説話集です。編者は未詳です。
あらすじ
平治の乱で一族が敗れ、下野国に流罪になっていた成範卿は、許されて都に戻ってきました。流される前は女房の詰め所にも入ることが許された成範卿でしたが、いまはそうではありません。あるとき女房が、「宮中は変わっておりませんが、あなた様がかつて入ることが許されていた御簾の中が恋しくありませんか」と歌を詠んできました。失意の成範卿を気遣う歌でした。
返事をしようとしたところで、小松大臣(平重盛)がやってきます(小松大臣は時の権力者)。身分の低い成範卿はその場には似つかわしくないので、早くその場を離れなければなりません。しかし気にかけてくれた女房の歌には返事をしなければならない。一首詠んでいる時間がなかったので、成範卿は機転をきかせて、女房から詠まれた歌の一文字だけをかえて、それを返歌としました。
歌:雲の上はありし昔に変はらねど見し玉垂れのうちや恋しき
訳:雲の上(すなわち宮中)は昔と変わりませんが、(あなたが過去に)見た玉垂れの中が恋しくありませんか
の「や」を「ぞ」に書き換えて
歌:雲の上はありし昔に変はらねど見し玉垂れのうちぞ恋しき
訳:雲の上(すなわち宮中)は昔と変わりませんが、(私が過去に)見た玉垂れの中が恋しいですよ
と返事をしたのです。
「や」は疑問を表す係助詞、「ぞ」は強意を表す係助詞です。
とっさに、歌の一文字だけをかえて返歌とした成範卿の機転のよさが、「ありがたし」(めったにないほどすばらしい)であったとこの文章は結ばれています。
原文(本文)
成範卿、事ありて、召し返されて、
内裏に参ぜられたりけるに、昔は女房の
入り立ちなりし人の、今はさもあらざりければ、女房の中より、昔を思ひ出でて、
雲の上はありし昔に変はらねど見し玉垂れのうちや恋しき
と詠み出だしたりけるを、返事せむとて、灯籠の際に寄りけるほどに、小松大臣の参り給ひければ、急ぎ立ち退くとて灯籠の火のかきあげの木の端にて、「や」文字を消ちて、そばに、「ぞ」文字を書きて、御簾のうちへさし入れて、出でられにけり。
女房取りて見るに、「ぞ」文字一つにて返しをせられたりける、
ありがたかりけり。
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