不可触民とは
不可触民は、インド社会の複雑なカースト制度の最下層に位置づけられ、深刻な社会的、経済的、宗教的差別に直面していました。ムガル帝国は、イスラム教を信奉する王朝でありながら、インド古来の社会構造であるカースト制度を根絶することなく、むしろその枠組みを利用、あるいは部分的に取り込みながら広大な領土を統治しました。この時代、不可触民は「ダリット」とも呼ばれ、ヒンドゥー教の四つのヴァルナ(階級)の枠組みからも外された存在として扱われていました。 彼らの生活は、儀式的な「不浄」の観念に強く束縛され、その社会的地位は世襲され、職業や居住地、さらには日常生活の細部に至るまで厳しい制約が課せられていました。
ムガル帝国以前のカースト制度と不可触民の起源
ムガル帝国時代における不可触民の状況を理解するためには、それ以前のインド社会におけるカースト制度の発展と、不可触民という集団の形成過程を把握することが不可欠です。インドのカースト制度の起源は古代に遡り、ヴェーダ時代に成立したヴァルナと呼ばれる四つの階級区分にその原型を見ることができます。 ヴァルナ制度は、社会をバラモン(祭司)、クシャトリヤ(王侯・武人)、ヴァイシャ(商人・農民)、そしてシュードラ(労働者)の四つの階層に区分するものでした。 しかし、ヴェーダの聖典自体には、不可触民という概念や、不可触民に対する差別の実践についての明確な言及は見当たりません。 ヴェーダの儀式では、高貴な者や王が一般の人々と同じ器で食事を共にすることが求められていたことさえ記されています。
不可触民という概念が明確に現れ始めるのは、ヴェーダ時代以降の文献、特にマヌ法典などの法典類においてです。 これらの文献では、特定の集団を「アウトカースト(追放者)」として扱い、社会から隔離することが示唆されています。 不可触民は、この四つのヴァルナの枠組みからも外れた「第五のヴァルナ」あるいは「パンチャマ」として位置づけられ、社会の最底辺に追いやられました。 彼らが「不浄」と見なされた背景には、彼らが従事していた職業が大きく関係しています。死んだ動物の処理、皮革の加工、清掃、排泄物の処理といった仕事は、儀式的に汚れていると考えられ、これらの職業に従事する人々もまた「汚れた存在」として扱われるようになりました。 このような職業は世襲され、彼らは社会的な汚名の対象となり、その地位は世代を超えて固定化されていきました。
時代が下るにつれて、ヴァルナ制度はさらに複雑化し、ジャーティと呼ばれる数千にも及ぶ内婚的な社会集団が形成されていきました。 ジャーティは、職業や地域、氏族などに基づいて細分化され、カースト制度をより一層堅固なものにしました。不可触民もまた、単一の集団ではなく、多くのジャーティに分かれており、それぞれが特定の職業と結びついていました。彼らは村や町の外れに住むことを強制され、公共の井戸や寺院、学校などの利用を禁じられるなど、厳しい社会的隔離に苦しんでいました。
ムガル帝国の統治とカースト制度
16世紀初頭に中央アジアからインドに侵攻し、帝国を築いたムガル朝は、イスラム教を信奉する支配者層でした。イスラム教の教義は、原則としてすべての信者の平等を説いており、カーストのような世襲的な身分制度とは相容れないものでした。しかし、ムガル帝国の支配者たちは、インド社会に深く根付いていたカースト制度を抜本的に改革、あるいは廃止しようとはしませんでした。むしろ、彼らは既存の社会構造を巧みに利用し、統治の安定を図る道を選びました。
ムガル帝国の宮廷歴史家であるアブル・ファズルは、アクバル帝の宮廷においてカーストについて言及した数少ない人物の一人です。 これは、ムガル帝国の支配者層が、カースト制度をインド社会の現実として認識し、それに対応する必要性を感じていたことを示唆しています。ムガル帝国は、広大な領土を効率的に統治するために、地方の有力者であるザミーンダール(地主)層を介した間接的な支配体制を敷きました。これらのザミーンダール層の多くは、ヒンドゥー教徒であり、それぞれの地域で優位なカーストに属していました。ムガル帝国は、彼らの権威を認め、税収の徴収などを委ねることで、地方社会への影響力を確保しました。
アクバル帝(在位1556-1605年)の時代には、宗教的寛容政策が推し進められ、ヒンドゥー教徒も帝国の高官に登用されました。特に、ラージプート族の王侯たちは、アクバル帝との婚姻関係を通じてムガル帝国の支配エリート層に組み込まれました。 アクバル帝自身やその後継者であるジャハーンギール帝、シャー・ジャハーン帝は、ラージプートの妃を母に持っています。 このように、ムガル帝国はヒンドゥー教徒の上位カーストと協力関係を築くことで、帝国の支配基盤を強化しました。しかし、この政策は、結果として既存のカースト階層を温存、あるいは強化する側面も持っていました。ムガル帝国の支配者たちが上位カーストのヒンドゥー教徒との婚姻に積極的であった一方で、シュードラ階級出身のイスラム教徒との婚姻は忌避されたという事実は、ムガル社会におけるカースト的な偏見の根深さを物語っています。
また、ムガル帝国時代の記録である『アーイーネ・アクバリー』には、各地方の土地所有カースト(カウメ・ザミーンダーラーン)の名前が記録されており、カーストと土地所有の関係を推測する上で貴重な資料となっています。 この記録からは、ラージプートをはじめとする様々なカーストが土地を所有していたことがわかりますが、不可触民が土地を所有していたという記録はほとんど見当たりません。これは、彼らが経済的にも極めて脆弱な立場に置かれていたことを示しています。
不可触民の経済的状況
ムガル帝国時代、不可触民の経済的状況は極めて過酷なものでした。彼らの多くは土地を所有しておらず、村落共同体のなかで最も低い身分とされていました。 彼らは「カミーン」とも呼ばれ、土地を持たない小作人や農業労働者として、ザミーンダールや上位カーストの土地を耕作することで生計を立てていました。 彼らが耕作の対価として得るものはわずかであり、常に貧困と隣り合わせの生活を強いられていました。
村落社会には著しい経済的不平等が存在し、牛や鋤などの農具を持たない農民は、ザミーンダールや上位カーストの農民からそれらを借りて耕作を行っていましたが、その際にはより高い地代を支払わなければなりませんでした。 不可触民は、こうした最も不利な条件で働かざるを得ない立場にありました。彼らは、農業労働以外にも、伝統的に「不浄」とされる職業に従事することを強いられました。例えば、死んだ動物の死骸を村から運び出す仕事は、マハールなどの不可触民カーストに割り当てられていました。 このような仕事は、彼らを社会的に汚れた存在として位置づける根拠となると同時に、彼らを経済的に搾取するための構造的な仕組みとしても機能していました。
村落の職人たちもまた、カーストに基づいてその役割が定められており、彼らはその労働の対価として、慣習によって定められた現物を受け取ることが一般的でした。 不可触民に属する職人たちは、最も低い報酬しか得ることができず、その生活は常に不安定でした。頻繁に発生した飢饉の際には、土地を持たない農民や村の職人といった最下層の人々が最も大きな打撃を受けました。
都市部においても、不可触民の状況は同様に劣悪でした。彼らは、都市の人口の大部分を占める貧困層に含まれ、召使い、兵士、手作業労働者などとして働いていました。 ヨーロッパからの旅行者の記録によれば、最も身分の低い召使いの月収は2ルピーにも満たなかったとされています。 建設現場などで働く単純労働者の賃金も極めて低く、彼らの生活水準は非常に低いものでした。 ムガル帝国の宮廷や貴族階級は豪奢な生活を送っていましたが、その富が社会の末端にまで行き渡ることはありませんでした。
社会的・宗教的差別
ムガル帝国時代の不可触民は、経済的な搾取に加えて、深刻な社会的・宗教的差別に苦しんでいました。彼らは「汚れた存在」と見なされ、日常生活のあらゆる場面で隔離と排除の対象となりました。
彼らは村や町の中心部から離れた場所に住むことを強制され、他のカーストの人々が利用する公共の井戸や貯水池を使うことは許されませんでした。 寺院への立ち入りも固く禁じられており、宗教的な儀式や祭礼に参加することもできませんでした。 彼らの影が上位カーストの人々に触れることさえも「穢れ」と見なされ、道を歩く際には、自らの足跡を箒で掃き清めながら進むことを強いられた地域もあったと報告されています。 また、上位カーストの人々と偶然接触してしまうことを避けるために、手首や首に黒い糸を結ぶことを義務付けられた例もあります。
こうした差別は、ヒンドゥー教の「清浄」と「不浄」という観念に深く根ざしたものでした。不可触民が従事する職業が「不浄」であるとされ、その「不浄」は世襲されると考えられていたため、彼らは生まれながらにして差別的な扱いを受ける運命にありました。 このような差別的な慣行は、マヌ法典などの古代の法典にその根拠が見出されますが、ムガル帝国時代においても、インド社会の隅々にまで浸透していました。
ムガル帝国の支配者であるイスラム教徒の側にも、カースト的な偏見が存在しました。インドにイスラム教が伝わる以前から、イスラム社会内にも階層的な概念や階級意識が存在したことが指摘されています。 ムガル帝国時代、インドのイスラム教徒社会は、アシュラーフ(外国系の高貴な家柄)と、アジュラーフ(インド土着の改宗者)に大きく分かれていました。アシュラーフは、自らを優越的な地位にあると考え、アジュラーフ、特にシュードラ階級出身の改宗者を軽蔑する傾向がありました。
アクバル帝は、サイイド(預言者ムハンマドの子孫とされる家系)を非常に尊重し、死刑を免除するなどの特権を与えました。 これは、イスラム教徒社会の内部にも、出自による階層意識が存在したことを示しています。また、アクバル帝は、抑圧されたカーストの人々が教育を受けることによって、アシュラーフの覇権が脅かされることを懸念していたとも言われています。 彼が発したとされる勅令には、下層カーストの子弟を学校から追放するよう命じる内容が含まれており、これはムガル帝国の支配者層が、既存の社会秩序を維持しようとしていたことの表れと解釈できます。
アウラングゼーブ帝(在位1658-1707年)は、ヒンドゥー教に対して不寛容な政策をとったことで知られていますが、彼の政権下でも、高位の官僚に占めるヒンドゥー教徒(そのほとんどは上位カースト出身)の割合は、アクバル帝の時代よりも高かったという指摘もあります。 彼は、多くのバラモンに土地や寺領を寄進しており、これは、彼がヒンドゥー教の上位カーストとの関係を維持しようとしていたことを示唆しています。 このように、ムガル帝国の支配者たちは、イスラム教徒であれヒンドゥー教徒であれ、抑圧されたカーストの人々を考慮に入れることなく、外国系の貴族や上位カーストのヒンドゥー教徒に広大な土地を与え、彼らの特権を保障しました。 これにより、ムガル帝国時代を通じて、イスラム教徒社会においてもカースト制度は深く根付き、抑圧されたカースト出身のイスラム教徒は、様々な形の従属、屈辱、抑圧に苦しみ続けました。
バクティ運動とシク教の挑戦
ムガル帝国時代には、カースト制度の硬直化とバラモン中心の儀式主義に対する批判として、バクティ運動と呼ばれる宗教改革運動がインド各地で隆盛しました。 バクティ運動は、神への純粋な信愛(バクティ)を通じて誰もが解脱できると説き、カーストや出自による差別を否定しました。 この運動は、南インドで始まり、15世紀から17世紀にかけて北インド全域に広がりました。
カビール、ナーナク、ダードゥーといったバクティ聖人たちは、イスラム教の神秘主義であるスーフィズムの影響を受けながら、ヒンドゥー教とイスラム教の垣根を越えた普遍的な神への愛を説きました。 彼らは、カースト制度や不可触民差別の非人間性を厳しく批判し、社会の平等と友愛を訴えました。 彼らの教えは、民衆の言葉で語られ、歌われたため、文字を読むことのできない多くの人々、特に下層カーストや不可触民の人々の心に深く響きました。
しかし、バクティ運動の社会的影響には限界もありました。一部のバラモン出身のバクティ聖人は、カースト制度そのものを社会制度として否定するには至りませんでした。 また、多くのバクティ運動は、時が経つにつれて、それ自体がカースト的な集団へと変容し、当初の社会改革の鋭さを失っていきました。 バラモン教は、バクティ運動が提起した挑戦を巧みに吸収し、その支配的な地位を確立することに成功しました。
一方、15世紀末にパンジャーブ地方でグル・ナーナクによって創始されたシク教は、カースト制度に対してより明確な拒絶の姿勢を示しました。 ナーナクは、「神の前ではすべての人間は平等である」と説き、カーストによる差別を完全に否定しました。 彼は、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立を乗り越え、唯一神への信仰に基づく新しい共同体の創造を目指しました。
シク教の共同体には、当初から様々なカースト出身の人々が集まりました。その中には、カトリー(商人カースト)やバラモンだけでなく、ジャート(農民カースト)、タルカーン(大工)、ローハール(鍛冶屋)、ナーイー(理髪師)、ドービー(洗濯屋)、さらにはチャンダーラのような不可触民とされた人々も含まれていました。 シク教は、カーストや職業に関わらず、すべての人々に開かれた信仰でした。
しかし、シク教の平等主義的な教えは、既存の社会秩序を重んじる上位カーストからの反発も招きました。特に、カトリーやバラモンの中には、シク教徒が自らのカーストの伝統的な慣習や儀式を捨てることを要求することに反対する者もいました。
ムガル帝国との関係も、シク教の歴史に大きな影響を与えました。ムガル帝国の支配者たちは、シク教の拡大を脅威とみなし、迫害を加えるようになりました。第5代グルのアルジャン・デーブと第9代グルのテーグ・バハードゥルは、イスラム教への改宗を拒否したためにムガル皇帝によって処刑されました。 この迫害は、シク教徒が自衛のために武装化するきっかけとなりました。第10代グルのゴービンド・シングは、1699年にカールサーと呼ばれる武装集団を組織し、信教の自由を守るために立ち上がりました。 このように、シク教は、カースト制度とムガル帝国の圧政という二重の抑圧に対する抵抗の中から、そのアイデンティティを形成していきました。
ムガル帝国時代の不可触民は、インド社会の長年にわたる歴史の中で形成されたカースト制度の最底辺に位置づけられ、深刻な社会的・経済的・宗教的差別に直面していました。イスラム教を奉じるムガル帝国は、カースト制度を根絶するどころか、むしろ既存の社会構造を利用して統治を行いました。その結果、不可触民の状況は、ムガル帝国以前と比べて本質的な改善を見ることはありませんでした。彼らは土地所有から排除され、最も劣悪な労働条件の下で働き、儀式的な「不浄」の観念によって社会のあらゆる場面で隔離されました。 ムガル帝国の支配者層自身も、インド社会に根付いたカースト的な偏見から自由ではなく、イスラム教徒の内部においても、出自による階層化が見られました。
このような抑圧的な状況の中で、バクティ運動やシク教は、カースト制度の非人間性を批判し、社会の平等を訴える重要な役割を果たしました。 これらの運動は、不可触民を含む多くの人々に希望を与え、既存の社会秩序に疑問を投げかけました。しかし、カースト制度の強固な構造を覆すには至らず、不可触民の解放は、その後の長い闘いを待たなければなりませんでした。ムガル帝国時代は、インド社会におけるカースト制度、特に不可触民差別の永続性と、それに対する抵抗の歴史が交錯した複雑な時代であったと言えます。