『木の花は』
このテキストでは、
清少納言が書いた
枕草子の中から「木の花は」(木の花は、濃きも薄きも紅梅〜)の現代語訳・口語訳とその解説を記しています。
原文
木の花は、濃きも薄きも紅梅。桜は、花びら
大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、
しなひ長く、
色濃く咲きたる、いと
(※1)めでたし。
四月の
(※2)つごもり、五月の
ついたちの
ころほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと
(※1)白う咲きたるが、雨
うち降りたる
(※4)つとめてなどは、
(※5)世になう心あるさまに
をかし。花の中より黄金の玉かと
見えて、
いみじうあざやかに見えたるなど、朝露にぬれたる
あさぼらけの桜に
劣らず。ほととぎすの
よすがとさへ思へばにや、なほ
さらに言ふべうもあらず。
梨の花、
よに(※6)すさまじきものにして、近う
もてなさず、
はかなき文つけなどだにせず。
(※7)愛敬おくれたる人の顔などを
見ては、たとひに言ふも、
げに、葉の色よりはじめて、
(※8)あいなく見ゆるを、
(※9)唐土には
限りなきものにて、文にも作る、なほ
さりともやうあらむと、せめて見れば、花びらの端に、をかしき
(※10)にほひ(※11)こそ、心もとなうつきためれ。 楊貴妃の、帝の御使ひに会ひて泣きける顔に
似せて、
「梨花一枝、春、雨を帯びたり。」
など言ひたるは、
(※12)おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは、たぐひあらじと
おぼえたり。
桐の木の花、紫に咲きたるはなほをかしきに、葉の
広ごりざまぞ、
(※13)うたてこちたけれど、異木どもと
ひとしう言ふべきにもあらず。唐土に
(※14)ことことしき名つきたる鳥の、選りてこれにのみ
ゐるらむ、いみじう
心ことなり。
まいて琴に作りて、さまざまなる音の
いでくるなどは、をかしなど
世の常に言ふべくやはある。いみじうこそめでたけれ。
木のさま
にくげなれど、楝の花いとをかし。
かれがれにさまことに咲きて、必ず五月五日にあふもをかし。
現代語訳
木の花は、色が濃くても薄くても紅梅(がよい)。桜は、花びらが大きくて葉っぱの色が濃く、枝が細い様子で咲いているのがよい。しなやかな曲線を描いて豊かに垂れている(花房が)長く、色が濃く咲いているのが、とてもすばらしい。
四月の下旬や、五月の上旬の時分、橘の葉が濃く青いときに、花がとても白く咲いているのが、雨が降った日の翌朝などは、またとなく趣ある様子で心ひかれる。花の中から(顔を出す実が)黄金の玉かのように思われて、とてもあざやかに見えている様子などは、朝露に濡れている明け方の桜にもひけをとらない。ほととぎすが身を寄せる所とまで思うからだろうか、やはりまったく言いようがない(ほど素晴らしい)。
梨の花は、非常に興ざめなものとして、身近で珍重せずに、大したことのない手紙を結びつけたりさえしない。魅力が乏しい人の顔などを見ては、(魅力の乏しい顔=梨の花と)例えに出すのも、いかにも、葉の色を始めとして、面白くなく見えるのに、中国ではこの上ないものとして、漢詩にも詠むのは、やはりそうはいってもわけがあるのだろうと思い、よくよく見ると、花びらの端に、趣深い色つやが、ほのかに付いているようだ。(中国では)楊貴妃が(宗玄)帝の遣いに会って泣いた(という)顔に似せて、
「梨の花の一枝が、春に、雨を帯びている。」
などというのは、格別(の美しさ)なのだろうと思うと、やはり(梨の花が)たいそう素晴らしいということは、比類するものがないのであろうと思われる。
桐の木の花が、紫色に咲いているのはやはり風情があるが、葉の広がる様子が、異様におおげさなのだが、他の木々と同じには言い表すべきではない。中国で大げさな名前のついている鳥(鳳凰)が、選んでこれ(桐の木)ばかりにとまっているというのは、大変格別な感じがする。言うまでもなく琴に作って、さまざまな音が出てくるということなどを、趣があるとありきたりに言うことができようか。とても素晴らしいことである。
木の様子は不格好であるが、楝の花はとても趣がある。枯れそうに風変わりな様子で咲いて、必ず五月五日に(開花のタイミングが)あうのも興味深い。
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