権利の請願とは
1628年の「権利の請願」は、イングランド憲法史、ひいては立憲主義の発展において、画期的な重要性を持つ文書です。それは、国王チャールズ1世の専制的な統治に対して、議会がイングランド臣民の古来からの権利と自由を擁護するために突きつけた、力強い宣言でした。マグナ=カルタ(1215年)と権利の章典(1689年)という二つの偉大な憲法文書の間に位置し、国王の大権と臣民の権利を巡る闘争における、決定的な一場面を刻んでいます。 この文書は、全く新しい権利を創設しようとしたものではありません。むしろ、その起草者たちが主張したのは、国王の最近の行動によって侵害されている、イングランドの法と慣習によって長らく保障されてきたはずの、既存の権利を再確認し、明確にすることでした。議会の承認なき課税、理由を示されない恣意的な投獄、民間家屋への兵士の強制宿泊、そして民間人への軍法適用。これらは、チャールズ1世がフランスやスペインとの戦争を遂行する中で、財源を確保し、国内の秩序を維持するために多用した手段でした。しかし、エドワード=コーク卿のような卓越した法律家に率いられた下院議員たちにとって、これらは国家の基本的な法と自由に対する、看過できない攻撃でした。 「権利の請願」は、その名称が示す通り、新しい法律を制定する「法案」ではなく、国王に対して臣民の苦情を申し立て、その救済を求める伝統的な「請願」という形式をとっています。これは、国王との全面的な対決を避けつつ、実質的に国王の権力を法的に拘束しようとする、巧妙な戦略的選択でした。国王に、自らがイングランドの法を守ることを再確認させる形をとることで、議会は自らの要求の正当性を強調し、国王がそれを拒否しにくい状況を作り出したのです。 チャールズ1世は、この請願が自らの王権神授説に基づく統治理念と相容れないものであることを深く理解していました。彼は承認をためらい、曖昧な回答で逃れようとしましたが、戦争遂行のための資金を議会から引き出すためには、最終的に譲歩せざるを得ませんでした。彼が「法に従い、正義が行われんことを」と同意を与えた時、議会とロンドンの街は歓喜に沸きました。それは、法が王に勝利した瞬間のように見えました。 しかし、「権利の請願」の物語は、その承認で終わりません。チャールズは、その精神を尊重するつもりはなく、その後も自らの大権を行使し続け、最終的には議会そのものを解散し、11年間にわたる「個人統治」を開始します。この国王の不誠実な態度は、王と議会の間の不信感を決定的なものとし、後のイングランド内戦へとつながる伏線となりました。 それにもかかわらず、「権利の請願」が打ち立てた原則は、消えることはありませんでした。それは、王権もまた法の下にあるという理念を明確に成文化し、後の世代の自由を求める闘いのための、強力な武器となりました。名誉革命後の「権利の章典」は、その多くの条項を直接受け継しており、さらにアメリカ独立革命の指導者たちも、イギリス本国による不当な課税や権利侵害に抵抗する際に、コークと「権利の請願」の精神に深く依拠しました。
チャールズ1世の初期の治世
1628年の「権利の請願」は、真空状態から生まれたものではありません。それは、国王チャールズ1世の治世の最初の3年間における、一連の政治的、軍事的、そして財政的な危機が頂点に達した必然的な帰結でした。国王の王権神授説に基づく強硬な姿勢、彼の寵臣であるバッキンガム公への国民的な反感、そして破滅的な外交政策の失敗が絡み合い、国王と議会の間の対立を、かつてないほど深刻なレベルへと押し上げていました。
チャールズ1世とバッキンガム公
1625年に24歳で即位したチャールズ1世は、父ジェームズ1世とは大きく異なる性格の持ち主でした。父が、学者肌で気さくな一面を持ち、政治的な妥協の必要性を理解していたのに対し、チャールズは、内向的で生真面目、そして自らの尊厳と王権に対して極めて高い意識を持っていました。彼は、王の権力は神から直接与えられたものであり、臣民、とりわけ議会に対して説明責任を負うものではないと固く信じていました。この揺るぎない信念が、彼の治世を通じて、議会とのあらゆる交渉を困難なものにしました。 この若い国王の傍らには、彼の人生で最も影響力のある人物、ジョージ=ヴィリアーズ、初代バッキンガム公がいました。ハンサムで野心的なバッキンガムは、まずジェームズ1世の寵臣として権力の頂点に上り詰め、その後、王太子であったチャールズの親友かつ指導者としての地位を確立しました。チャールズは、自分に欠けている社交性や自信を持つバッキンガムを深く信頼し、彼の判断に全面的に依存していました。即位後、チャールズはバッキンガムを最高司令官をはじめとする要職に留任させ、事実上、国政のすべてを彼に委ねました。 しかし、バッキンガムは、議会や国民の間では極めて不人気な存在でした。彼は、その急速な出世と富、そして国王の寵愛を独占していることから、多くの貴族の嫉妬を買っていました。また、彼の政策決定は、しばしば無能で無謀であると見なされ、国の富を浪費し、国益を損なっていると非難されていました。チャールズがバッキンガムを頑なに擁護し続けたことは、バッキンガム個人への攻撃が、そのまま国王自身への批判へと直結することを意味しました。議会にとって、バッキンガムは国王の悪政の象徴であり、彼を排除することが、国家を救うための第一歩であると考えられていました。
破滅的な外交政策
チャールズ1世の治世は、戦争と共に始まりました。王太子時代、マドリードへの屈辱的な旅行を経験したチャールズとバッキンガムは、熱烈な反スペイン主義者となり、父ジェームズ1世に圧力をかけて対スペイン戦争を開始させていました。チャールズは、この戦争を、プロテスタントの大義を守り、姉エリザベスとその夫プファルツ選帝侯フリードリヒが三十年戦争で失った領地を回復するための、正義の戦いと位置づけていました。 しかし、この戦争は、初めから悲惨な失敗の連続でした。1625年、バッキンガムの全体指揮の下、スペインの港カディスへの大規模な海軍遠征が実行されました。しかし、この遠征は、不十分な準備、質の低い兵士、そして現地の指揮官たちの無能さが重なり、何の戦果も挙げられないまま、病気と飢えで多くの兵士を失い、惨めな敗北に終わりました。 さらに事態を悪化させたのは、チャールズとバッキンガムが、スペインとの戦争に加えて、フランスとの間にも新たな戦端を開いたことでした。チャールズは、フランス王ルイ13世の妹アンリエット=マリーと結婚していましたが、この同盟は期待通りには機能しませんでした。フランスが国内のプロテスタント(ユグノー)の拠点であるラ=ロシェルを包囲すると、チャールズは、プロテスタントの擁護者としての名誉を守るため、ユグノーを支援することを決定します。 1627年、バッキンガムは自ら大艦隊を率いて、ラ=ロシェル救援に向かいます。彼は、沖合のレ島を占領し、そこを拠点にしようと試みましたが、この作戦もまた、兵站の欠如とフランス軍の頑強な抵抗の前に、数ヶ月の包囲戦の末に失敗に終わりました。バッキンガムは、生き残った兵士のわずか3分の1と共に、イングランドに帰還しました。 これらの相次ぐ軍事的な大失態は、イングランドの国家財政に壊滅的な打撃を与えただけでなく、国際的な威信を地に落としました。そして、そのすべての責任は、作戦を立案し、指揮したバッキンガム公に向けられました。国民の怒りと不満は、沸点に達しつつありました。
議会との財政闘争
戦争を遂行するためには、莫大な資金が必要であり、そのためには議会が承認する補助金と関税が不可欠でした。しかし、チャールズが即位直後に召集した1625年の議会は、カディス遠征の失敗とバッキンガムへの不信から、国王に対して極めて非協力的でした。 議会は、国王の生涯にわたって関税の徴収権を認めるという、テューダー朝以来の慣例を破り、わずか1年間の限定的な徴収権しか認めませんでした。これは、国王の財政を不安定にさせることで、議会を頻繁に召集させ、政府の政策に対して発言権を確保しようとする、議会側の戦術でした。さらに、議会はバッキンガムの弾劾手続きを開始しようとしました。これに対し、チャールズは、自らの寵臣を守るため、補助金を確保できないまま、議会を解散してしまいました。 1626年に召集された第二議会も、同様の対立の構図を繰り返しました。ジョン=エリオット卿らに率いられた下院は、国王の政策を厳しく批判し、再びバッキンガムの弾劾を推進しました。チャールズは、これを王権に対する許しがたい侵害と見なし、エリオットらを一時的にロンドン塔に投獄し、またもや議会を解散しました。
強制借用金と恣意的投獄
二度にわたって議会からの財政支援を確保できなかったチャールズは、議会を迂回して資金を調達する、非伝統的で強制的な手段に訴え始めます。その最も重要なものが、1626年に導入された「強制借用金」でした。 これは、名目上は「借金」でしたが、実質的には議会の承認を経ない強制的な税金でした。全国の納税者に対して、通常の議会補助金5回分に相当する額の支払いが割り当てられ、支払いを拒否した者は、枢密院に召喚され、処罰される可能性がありました。 この強制借用金は、イングランドの法と伝統に対する重大な挑戦と見なされ、広範な抵抗運動を引き起こしました。多くのジェントリや貴族が、これが違法な課税であるとして支払いを拒否しました。その数は、少なくとも76人に上り、彼らは枢密院の命令によって裁判なしに投獄されました。 この恣意的な投獄の合法性を問うたのが、1627年の「五人の騎士事件」です。投獄された騎士のうちの5人が、人身保護令状を申請し、自分たちが投獄された具体的な理由を示すよう、裁判所に求めました。彼らの弁護士は、マグナ=カルタの第39条(「何人も、法によらなければ逮捕、監禁されない」)を引用し、具体的な罪状なしに臣民を投獄することは違法であると主張しました。 しかし、王座裁判所の判決は、国王側を支持するものでした。裁判所は、国王が「国家の特別な命令」によって臣民を投獄する権限を持つことを認めました。つまり、国家の安全に関わるような特別な場合には、国王は具体的な理由を示さずに人物を拘禁できる、という判断でした。この判決は、国王が法の手続きを無視して、臣民の身体の自由を奪うことができるという危険な前例となり、財産を持つ階級の間に深刻な不安と恐怖を広めました。
軍隊の強制宿泊と軍法
国王の政策が引き起こしたもう一つの大きな不満は、兵士の強制宿泊と軍法の適用でした。フランスやスペインとの戦争のために徴兵された兵士たちは、しばしば質の低い、規律のないならず者たちでした。彼らを収容する兵舎が不足していたため、政府は、兵士たちを一般の民家に強制的に宿泊させる政策をとりました。 兵士たちは、家主の財産を盗んだり、乱暴を働いたりすることが日常茶飯事で、住民の生活に大きな負担と恐怖をもたらしました。兵士たちの非行を取り締まるため、そして徴兵を逃れようとする者を罰するために、政府は、特定の地域に軍法を布告しました。これにより、民間人までもが、通常のコモン=ローの裁判ではなく、即決の軍法会議で裁かれ、処刑されるという事態が発生しました。 これは、平時において、軍隊が通常の法体系の外に置かれ、臣民の生命と財産に対する脅威となっていることを意味しました。イングランドの人々にとって、常備軍の存在と軍法の適用は、大陸の絶対君主制(特にフランスやスペイン)の圧政と結びつけて考えられており、自らの自由に対する最も深刻な脅威の一つと見なされていました。 このように、1628年の議会が召集される前夜、イングランドは深刻な危機に瀕していました。国王は、議会の承認なしに税を取り立て、臣民を不法に投獄し、その家に兵士を押し付け、軍法によって生命を脅かしていました。これらの行為はすべて、国王の大権の名の下に行われました。議会の議員たちが、これらの「苦情」を解決しない限り、国王に一銭たりとも与えるべきではないと固く決意してウェストミンスターに集まったのは、当然の成り行きでした。彼らの手には、400年前に制定された、ある偉大な憲章が握られていました。
エドワード=コーク卿とコモン=ローの精神
「権利の請願」の起草と可決において、一人の人物の存在が際立っています。その人物とは、エドワード=コーク卿、17世紀イングランドにおける最も偉大で、最も恐れられた法律家です。彼の長年にわたる法曹としての経験、コモン=ローへの深い学識、そして国王の大権に対して法の支配を擁護する不屈の精神がなければ、「権利の請願」は生まれなかったかもしれません。この文書を理解するためには、その知的・法的支柱となったコークの思想と、彼が体現したコモン=ローの精神を理解することが不可欠です。
コモン=ローの守護者
エドワード=コーク(1552-1634)は、その長い生涯を通じて、イングランド法曹界のあらゆる要職を歴任しました。彼は、エリザベス1世の下で法務長官として頭角を現し、その鋭い知性と攻撃的な法廷戦術で名を馳せました。その後、ジェームズ1世の治世になると、民事高等裁判所長官、そして王座裁判所長官という、コモン=ロー裁判所の最高の地位に就きました。 コークの法思想の核心にあったのは、コモン=ローに対する深い崇敬の念でした。彼にとって、コモン=ローは、単なる法律の寄せ集めではありませんでした。それは、「時の試練を経た理性の完璧さ」であり、何世紀にもわたるイングランドの歴史の中で、裁判官たちの知恵と経験を通じて洗練されてきた、国家の基本的な法でした。この「古来の憲法」は、イングランドのすべての臣民の生命、自由、そして財産を保障するものであり、国王自身もまた、この法の下にあるべきだと、コークは固く信じていました。 この信念は、必然的に、王権神授説を信奉するジェームズ1世との衝突を引き起こしました。コークは、王座裁判所長官として、国王の大権を法によって制限しようとする、数々の画期的な判決を下しました。 その最も有名な例が、1607年の「布告に関する判例」です。ジェームズ1世が、議会の承認なしに、国王布告によって新しい犯罪を創設したり、既存の法を変更したりできると主張したのに対し、コークは、「国王は、コモン=ローによって認められていない犯罪を創設することはできない。…国王は、法によって与えられた権威と権力しか持たない」と断じ、国王の権力を法の範囲内に押しとどめました。 また、1610年の「ボナム医師事件」では、コークはさらに踏み込み、「コモン=ローは議会制定法を統制し、コモン=ライトと理性に反する制定法を、無効と判断することがある」と述べました。これは、司法審査の概念の萌芽ともいえる、極めて大胆な主張でした。 これらの判決は、コークを「コモン=ローの守護者」としての名声を高める一方で、国王ジェームズ1世の怒りを買いました。国王は、自らの大権に挑戦するコークを疎ましく思い、1616年、ついに彼を王座裁判所長官の職から罷免しました。
議会での第二のキャリア
裁判官の職を追われたコークでしたが、彼のキャリアは終わりませんでした。彼は、下院議員として、その活動の場を議会に移します。そして、かつて国王の役人として議会と対峙した彼が、今度は議会の側で、国王の大権に対する最も手ごわい論客の一人となったのです。 彼の武器は、その比類なき法的知識と、議会の前例に関する百科事典的な記憶力でした。彼は、討論において、マグナ=カルタをはじめとする古今の制定法や判例を自在に引用し、国王の行動が、いかにイングランドの「古来の自由」を侵害しているかを、圧倒的な説得力をもって論じました。 1621年の議会では、彼は、議会が国王の外交政策を含むあらゆる事項について議論する権利を持つと主張し、「議会の自由」を擁護する中心人物となりました。1628年の議会が召集された時、コークはすでに76歳の高齢でしたが、その知性と闘志は全く衰えていませんでした。彼は、チャールズ1世の強制借用金や恣意的投獄といった政策に対し、議会が断固たる態度で臨むべきだと主張し、若い議員たちを鼓舞する精神的指導者となりました。
マグナ=カルタの再発見
コークが「権利の請願」の起草において用いた最も強力な武器が、1215年にジョン王に対して貴族たちが認めさせた「マグナ=カルタ」でした。17世紀初頭において、マグナ=カルタは、中世の封建的な文書として、ほとんど忘れ去られた存在でした。しかし、コークは、この古い憲章の中に、彼が擁護しようとしていたイングランド臣民の基本的な自由の根源を見出しました。 彼は、マグナ=カルタを、単なる貴族の特権を保障した文書としてではなく、すべての「自由民」の権利を保障する、普遍的な自由の憲章として再解釈しました。特に、彼は二つの条文に注目しました。 第39条(後の第29条):「いかなる自由民も、同輩の法的な判決、または国法によらなければ、逮捕、監禁、財産の剥奪、法の保護の剥奪、追放、その他いかなる方法によっても損なわれない。また、我々は、彼に対して兵を差し向けたり、派遣したりすることはない。」 第12条:「いかなる軍役代納金または援助金も、我が王国の共同の助言によらなければ、我が王国において課されてはならない。」 コークは、第39条を、適正な法の手続きと人身の自由の偉大な保障であると解釈しました。彼は、「国法」という言葉が、コモン=ローによる裁判手続きを意味すると主張し、国王の「特別な命令」による恣意的な投獄は、この条項に真っ向から違反すると論じました。 また、第12条を、彼は「代表なくして課税なし」という原則の基礎であると見なしました。国王が課税を行うためには、「王国の共同の助言」、すなわち議会の同意が必要であるというこの原則は、強制借用金のような議会の承認なき課税が違法であることを示す、強力な論拠となりました。 コークによるこのマグナ=カルタの「再発見」と再解釈は、議会派の主張に、歴史的な権威と正当性を与えました。彼らは、自分たちが何か新しい、革命的な権利を要求しているのではなく、単に、400年以上にわたって存在してきた、イングランド臣民の「生まれながらの権利」の回復を求めているのだと、主張することができたのです。
「請願」という形式の選択
コークの法的・政治的知恵は、「権利の請願」の内容だけでなく、その形式の選択においても発揮されました。当初、議会内では、国王の権利侵害を非難し、それを違法とする新しい法律、すなわち「法案」を可決すべきだという意見が有力でした。 しかし、コークは、法案という形式には二つの大きなリスクがあることを見抜いていました。第一に、法案は、国王の同意を得て初めて法律となります。もし国王が同意を拒否すれば、議会の努力は水泡に帰してしまいます。第二に、もし新しい法律を制定すれば、それは、それらの権利がこれまで存在しなかったことを、暗に認めることになりかねません。それは、コークたちが主張していた「古来の権利」という議論の根幹を揺るがすものでした。 そこでコークが提案したのが、中世以来の伝統的な手続きである「権利の請願」という形式を用いることでした。請願は、臣民が国王に対して、自らの権利が侵害されていることを訴え、その救済を求めるものです。この形式をとることにより、議会は、国王と正面から対立して新しい法を押し付けるのではなく、敬意をもって、国王自身に、既存の法と臣民の権利を守るという、彼の義務を思い出させる、という体裁をとることができました。 これは、極めて巧妙な戦術でした。請願という形式は、国王의尊厳を傷つけにくいため、国王が受け入れやすいものとなっていました。しかし、その内容は、実質的に国王の大権を法的に拘束するものであり、一度国王がこれに同意すれば、それは判例として、将来の裁判において引用されうる、法的な重みを持つことになります。コークは、請願という伝統の衣をまとわせることで、革命的な内容を国王に認めさせようとしたのです。 このように、エドワード=コーク卿の存在は、「権利の請願」の魂でした。彼のコモン=ローへの揺るぎない信念、マグナ=カルタの創造的な再解釈、そして老練な政治的判断力が結集し、国王の絶対主義的な主張に対し、法の支配という永続的な原則を打ち立てるための、強力な理論的・戦術的基盤を築き上げたのです。
議会の闘争と請願の起草
1628年3月、チャールズ1世の治世で3度目となる議会が召集されました。議員たちがウェストミンスターに集まった時、その雰囲気は、これまでの議会とは明らかに異なっていました。相次ぐ軍事的大失敗、強制借用金、恣意的投獄、そして兵士の強制宿泊といった一連の出来事を経て、彼らの間には、国王の専制に対する積年の不満を解決しない限り、国王にいかなる財政支援も与えるべきではないという、固い決意が共有されていました。この議会は、イングランドの自由の将来を決する、歴史的な闘争の舞台となりました。
下院での議論の開始
議会の冒頭から、下院は国王が要求する補助金の審議を後回しにし、まず「臣民の自由」に関する苦情の審議を優先させることを明確にしました。経験豊富な議員であるフランシス=シーモア卿は、「我々が最後に戦ったのは、敵国スペインとであった。今や、我々は我々自身と戦わねばならない」と述べ、国内の権利侵害が、国外の敵よりも深刻な脅威であることを訴えました。 下院は、委員会を設置し、臣民の権利を侵害する最近の事例を徹底的に調査し始めました。特に焦点となったのは、以下の四つの主要な問題点でした。 議会の承認なき課税(強制借用金)。 理由を示されない恣意的な投獄(五人の騎士事件)。 兵士の強制宿泊。 民間人への軍法の適用。 これらの問題について、議員たちは次々と国王の政策を非難する演説を行いました。その中でも、最も影響力があったのが、エドワード=コーク卿と、若き日のジョン=ピム、そして雄弁家として知られたトーマス=ウェントワースらでした。 コークは、その圧倒的な法的知識を駆使して、国王の行動がマグナ=カルタをはじめとするイングランドの「古来の法」にいかに違反しているかを論証しました。彼は、「国王は神の下、そして法の下にある」というヘンリー=ブラクトンの言葉を引用し、法の支配の原則を力強く主張しました。 トーマス=ウェントワースは、「我々は、王の大権を侵すことなく、臣民の自由を擁護しなければならない」と述べ、国王の正当な権威と臣民の権利のバランスをとる必要性を訴えつつも、「これらの自由を我々に与えた法を失えば、我々は奴隷の状態に陥る以上のことはない」と警告し、臣民の自由が国家の基盤であることを強調しました。 これらの議論を通じて、下院は、国王の最近の行動が違法であることを確認する、一連の決議を採択しました。そして、次の問題は、これらの決議を、どのような形で国王に認めさせ、将来の権利侵害を防ぐための実効性のある保障とするか、という点に移りました。
法案か、請願か
当初、下院の多くの議員は、臣民の権利を明確に規定し、国王の権力乱用を禁止する、新しい法律、すなわち「法案」を可決すべきだ。と考えていました。法案は、議会の両院を通過し、国王の裁可を得れば、制定法として最高の法的権威を持つことになります。ジョン=ピムやジョン=エリオット卿らは、このアプローチを強く支持しました。 しかし、エドワード=コークは、この戦略の危険性を指摘しました。彼は、法案という形式は、国王との直接的な対決を招き、国王が裁可を拒否する可能性が高いと警告しました。そうなれば、議会の努力はすべて無駄になってしまいます。さらに彼は、より根本的な問題として、新しい法律を制定することは、それらの権利がこれまで存在しなかったことを議会が認めることになり、国王の大権が及ばない「古来の権利」という議会側の主張そのものを弱体化させかねないと論じました。 そこでコークが提案したのが、前述の通り、「権利の請願」という形式でした。彼は、この形式が、国王の尊厳を保ちつつ、実質的に議会の要求を法的に認めさせるための、最も賢明な道であると主張しました。請願は、国王に対して、既存の法を遵守するように「謙虚に」求めるものであり、国王が自らの戴冠式の誓いに基づいて、法と正義を守る義務があることを思い出させるものです。コークのこの老練な提案は、次第に下院の支持を得ていきました。
貴族院との交渉
下院が「権利の請願」の草案を可決した後、それは承認を得るために貴族院に送られました。貴族院は、伝統的に国王の支持基盤であり、下院よりも穏健な議員が多くを占めていました。彼らは、臣民の自由を擁護する必要性は認めつつも、国王の大権を過度に制約することには慎重でした。 貴族院は、請願の文言を和らげるための修正案をいくつか提案しました。その中で最も重要だったのが、請願の最後に、「我々は、国王陛下に、この正しい請願を承認するよう謙虚に請い願う。我々は、国王陛下が、法のコモンな利益に従って、正義と恩寵をもって統治するために、神から委ねられた主権を、そのまま完全に保持することを、忠実に意図するものである」という一文を追加することでした。 この「主権」という言葉を含む追加条項は、下院で激しい反発を呼びました。ジョン=ピムは、「私は『主権』という言葉を知らない。それは、我々の法には見られない言葉だ。もし我々がこれを認めれば、我々は、国王に、これまで知られていなかった、法を超越した権力を与えることになる」と警告しました。コークもまた、「マグナ=カルタは、このような『主権』を知らない」と述べ、この言葉が、請願全体の目的を骨抜きにしてしまう危険性を指摘しました。 下院は、この追加条項を断固として拒否し、貴族院との間で数週間にわたる協議が行われました。最終的に、下院の固い決意と、コークらの説得力のある議論の前に、貴族院は修正案を撤回し、下院が起草したオリジナルの請願案を承認することに同意しました。こうして、議会の両院は、国王に対して統一した要求を突きつける準備が整いました。
請願の最終的な起草
議会の両院で承認された「権利の請願」は、エドワード=コークの法的精神が色濃く反映された、力強く、かつ緻密に構成された文書でした。その構成は、大きく四つの部分に分かれています。 序文: まず、エドワード3世の時代の制定法やマグナ=カルタといった、既存の法律や憲章を引用し、議会の承認なしに課税を行うことや、適正な法の手続きなしに臣民を投獄することが、古来の法によって禁じられていることを確認します。 苦情の列挙: 次に、これらの法に反して、近年、強制借用金、恣意的投獄、兵士の強制宿泊、軍法の適用といった、具体的な権利侵害が行われていることを列挙します。 請願: そして、これらの権利侵害が将来二度と行われないように、国王に対して「謙虚に請い願い」ます。具体的には、議会の同意なく金銭を課さないこと、理由を示さずに臣民を投獄しないこと、兵士の強制宿泊をやめさせること、そして軍法委員会の権限を取り消すことを求めます。 結論: 最後に、これらの権利と自由が、イングランドの法に従ったものであり、国王の役人たちが、これらの法に従って行動するように、国王が宣言することを求めます。 この文書の巧みさは、国王を直接的に非難するのではなく、国王の役人たちの行動が法に違反していると指摘し、国王自身に、法の守護者としての役割を果たすよう求める、という体裁をとっている点にあります。それは、国王に、自らの行動を正し、法の支配を再確認する機会を与えるという形をとりながら、実質的には、彼の行動に明確な法的制約を課すものでした。 1628年5月28日、議会の両院は、この歴史的な請願を、国王チャールズ1世に正式に提出しました。ボールは、今や国王の側に投げ返されたのです。
国王の承認とその後
議会の両院が一致して「権利の請願」を提出したことで、チャールズ1世は極めて困難な立場に追い込まれました。彼が喉から手が出るほど欲している戦費、すなわち5回分の補助金は、この請願への満足のいく回答にかかっていました。しかし、請願を受け入れることは、彼が神から授かったと信じる王の大権を、臣民の法の下に置くことを意味しました。このジレンマに対する彼の対応と、その後の行動は、王と議会の間の不信を決定的なものとし、イングランドを内戦へと向かわせる重要な一歩となりました。
国王の最初の回答
1628年6月2日、チャールズは、請願に対する最初の公式回答を議会に与えました。しかし、それは、議会が期待していたような、明確な同意の言葉ではありませんでした。国王は、伝統的な法案裁可の文言である「国王、これを欲す」を用いる代わりに、次のように述べました。 「国王は、請願に述べられている権利が、法と制定法に従って決定されることを欲する。そして、臣民は、その生命や自由が、この王国の法と慣習によって保障されている以上に、将来、損なわれるいかなる理由も持たないであろう。」 この回答は、意図的に曖昧にされており、法的な拘束力を持ちませんでした。「法と制定法に従って決定される」という表現は、国王が依然として、自らの大権に基づいて、法の解釈権を留保していることを示唆していました。それは、議会が求めていた、国王の行動に対する明確な法的制約を与えるものでは全くありませんでした。 下院は、この回答に激怒しました。彼らは、国王が言葉遊びによって、請願の核心部分を巧みに回避しようとしていることを見抜いていました。エドワード=コークは、「これは請願に対する回答ではない!」と叫び、議場は騒然となりました。議員たちは、国王が誠意をもって交渉するつもりがないと確信し、再び、すべての悪政の根源と見なされていたバッキンガム公への攻撃を再開しました。ジョン=エリオット卿は、バッキンガムを名指しで弾劾する、激しい演説を行いました。
国王の承認
議会がバッキンガム弾劾へと再び傾き、補助金の承認が遠のくのを見て、チャールズは、自らが追い詰められていることを悟りました。貴族院からも、伝統的な形式で請願に同意するよう、圧力がかかりました。財政的な必要性と政治的な圧力の前に、彼はついに屈服せざるを得ませんでした。 1628年6月7日、チャールズは再び議会に臨み、今度は、議会が要求した通りの、伝統的で法的な重みを持つ言葉で、請願への同意を与えました。書記官が、高らかにフランス語で読み上げました。 「Soit droit fait comme il est désiré.」(法に従い、正義が行われんことを) この言葉が発せられた瞬間、議場は歓喜に包まれました。議員たちは帽子を空中に投げ、ロンドンの街では、教会の鐘が鳴り響き、人々はかがり火を焚いて、法の勝利を祝いました。それは、国王が、自らの権力が法の下にあることを公式に認めた、歴史的な瞬間でした。議会は、この勝利の見返りとして、速やかに国王が要求していた5回分の補助金を承認しました。表面的には、王と議会の対立は解決され、協力関係が回復されたかのように見えました。
請願の違反と議会の解散
しかし、この祝賀ムードは長くは続きませんでした。チャールズにとって、「権利の請願」への同意は、財政支援を得るための、やむを得ない戦術的な後退に過ぎませんでした。彼は、請願の精神を尊重するつもりは毛頭なく、その解釈を自らに都合の良いように捻じ曲げようとしました。 その最初の兆候は、議会が閉会した後、国王が請願を印刷させた際に現れました。彼は、法的な効力を持つ二度目の回答(「Soit droit fait...」)だけでなく、意図的に曖昧にした最初の回答をも併記して印刷させました。これは、請願の法的な拘束力を弱めようとする、不誠実な試みでした。 さらに重大な問題は、関税の徴収を巡って再燃しました。議会は、補助金は承認したものの、関税については、まだ正式な法案を可決していませんでした。しかし、チャールズは、「権利の請願」が禁じているのは「贈与、借用金、またはそれに類する課金」であり、関税はそれに含まれないと主張し、議会の承認なしに関税の徴収を続けました。 これに対し、議会側は、関税もまた議会の承認なく課すことのできない税金であると主張しました。この対立は、1629年に議会が再開されると、さらに激化しました。国王の役人は、関税の支払いを拒否した商人の商品を差し押さえ、議会は、その商人(ジョン=ロールズ、彼は下院議員でもありました)の商品を差し押さえた役人を、議会の特権侵害で告発しようとしました。 国王が、これ以上の審議を打ち切るために議会の解散を命じると、議会は前代未聞の抵抗を示しました。1629年3月2日、下院議長が解散を宣言するために席を立とうとすると、デンジル=ホリスやベンジャミン=ヴァレンタインといった議員たちが、議長を椅子に力づくで押さえつけ、議場の扉に鍵をかけました。そして、ジョン=エリオット卿が起草した三つの決議案が、議長不在のまま、議員たちの怒号の中で読み上げられ、採択されました。 イングランド国教会にアルミニウス主義のような「革新」を導入しようとする者は、国家の資本的な敵と見なされる。 議会の承認なしに関税を徴収するよう助言または実行する者は、国家の資本的な敵と見なされる。 そのような関税を自発的に支払う商人は、イングランドの自由の裏切り者であり、国家の敵と見なされる。 この出来事は、「議長の椅子での抗議」として知られ、王と議会の間の協力関係が完全に崩壊したことを象徴していました。チャールズは、これを反逆行為と見なし、議会を解散しました。そして、彼は、ジョン=エリオットを含む9人の主要な議員を逮捕し、ロンドン塔に投獄しました。エリオットは、釈放を拒み続け、3年後に塔の中で亡くなりました。 チャールズは、議会の頑なな抵抗にうんざりし、議会なしで統治することを決意します。これ以降、1640年に短期議会が召集されるまでの11年間、彼は議会を一切開かず、後に「個人統治」または「11年の専制」と呼ばれる時代が始まりました。この期間、彼は、「権利の請願」で禁じられたはずの、議会の承認なき課税(船税など)を、さらに大規模に展開していくことになります。
歴史的意義と遺産
「権利の請願」は、短期的には、チャールズ1世の専制を止めることができず、むしろ、より強硬な個人統治への道を開いてしまったかのように見えました。しかし、その長期的な歴史的意義は、計り知れないものがあります。それは、イングランド、そして世界の立憲主義の発展における、不滅の金字塔として、後世に永続的な影響を与え続けました。
イングランド内戦への道
「権利の請願」を巡る一連の出来事は、国王と議会の間の信頼関係を完全に破壊しました。議会側は、国王が法的な約束を守る誠意を持たないことを学びました。一方、国王は、議会が自らの神聖な大権を侵害し、国家の統治を妨害する、破壊的な勢力であると確信しました。この相互不信は、1630年代の個人統治期間を通じてさらに深まり、1640年代の内戦勃発の直接的な原因となりました。 1640年に長期議会が召集されたとき、ジョン=ピムをはじめとする議会の指導者たちは、「権利の請願」の経験から、もはや国王の言葉による約束だけでは不十分であると認識していました。彼らは、国王の権力を恒久的に制限するための、より抜本的な立法(ストラフォード伯の処刑、三年間議会法、国王の議会解散権の剥奪など)を要求しました。これらの要求の根底には、「権利の請願」で明確にされた、法の支配という原則がありました。内戦において議会派が掲げた大義は、国王の専制から「古来の法と自由」を守るという、「権利の請願」の精神そのものでした。
権利の章典への影響
「権利の請願」が打ち立てた原則は、1688年の名誉革命の後に制定された「権利の章典」(1689年)に、直接的な形で受け継がれ、恒久的なものとされました。 「権利の章典」は、ジェームズ2世の専制的な行為を非難し、将来の国王が遵守すべき臣民の権利と自由を列挙した、イングランド憲法の中核をなす文書です。その多くの条項は、「権利の請願」の内容を、より強力かつ明確な形で再確認したものでした。 「権利の請願」が禁じた「議会の承認なき課税」は、「権利の章典」において、「議会の承認なく、国王大権の名の下に金銭を徴収することは違法である」と、より断定的に規定されました。 「権利の請願」が問題とした軍法の適用や常備軍の問題は、「権利の章典」において、「平時において、議会の同意なく、王国内で常備軍を徴募または維持することは違法である」と明確に禁止されました。 このように、「権利の請願」は、「権利の章典」の直接の先駆者であり、ステュアート朝の絶対主義との闘いを通じて勝ち取られた立憲主義の原則を、次の世代へとつなぐ、重要な橋渡しの役割を果たしたのです。
アメリカ憲法への遺産
「権利の請願」の遺産は、大西洋を越えて、アメリカの植民地にも受け継がれました。18世紀、イギリス本国政府が、植民地に対して「印紙法」などの課税を強化したとき、植民地の人々は、「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて抵抗しました。このスローガンの根源にあったのが、エドワード=コークがマグナ=カルタから導き出し、「権利の請願」で明確に主張した、課税に対する同意の権利でした。 アメリカ独立革命の指導者たちは、コークを自由の偉大な擁護者として尊敬し、「権利の請願」を、政府の権力に対する基本的な保障を定めた文書として、高く評価しました。 独立後に制定されたアメリカ合衆国憲法、特にその修正条項である「権利章典」(1791年)には、「権利の請願」の精神が色濃く反映されています。 修正第3条の「いかなる兵士も、平時においては、所有者の同意なく、いかなる家屋にも宿泊してはならない」という規定は、「権利の請願」が禁じた兵士の強制宿泊の問題に直接対応するものです。 修正第5条の「何人も、法の適正な手続きによらなければ、生命、自由、または財産を奪われない」という適正手続き条項は、コークがマグナ=カルタの「国法」という言葉から解釈し、「権利の請願」の中心的な要求であった、恣意的な権力からの保護という理念を、明確に成文化したものです。 このように、「権利の請願」は、単なる17世紀イングランドの歴史的文書にとどまらず、法の支配、権力分立、そして個人の自由といった、近代立憲主義の普遍的な原則を形成する上で、極めて重要な役割を果たしました。