発心集『蓮花城、入水のこと』
ここでは、発心集の中の『蓮花城、入水のこと』の「近きころ、蓮花城といひて、人に知られたる聖ありき〜」から始まる部分の現代語訳・口語訳とその解説をしています。
原文(本文)
近きころ、蓮花城といひて、人に知られたる聖ありき。登蓮法師、
相知りて、ことにふれ、情けをかけつつ過ぎけるほどに、
年ごろありて、この聖の言ひけるやうは、
「今は年に添へつつ弱くなりまかれば、死期の近づくこと、疑ふべからず。終はり正念にてまかり隠れむこと、極まれる望みにて侍るを、心のすむとき、入水をして終はり取らむと侍る。」
と言ふ。登蓮聞きおどろきて、
「あるべきことにもあらず。
いま一日なりとも、念仏の功を積まむとこそ願はるべけれ。さやうの行は、
愚痴なる人のする業なり。」
と言ひて
いさめけれど、
さらにゆるぎなく思ひかためたることと見えければ、
「かく、これほど思ひ取られたらむに至りては、とどむるに及ばず。さるべきにこそあらめ。」
とて、そのほどの用意なんど、力を分けて、
もろともに沙汰しけり。
つひに、桂川の深き所に至りて、念仏高く申し、時経て水の底に沈みぬ。その時、聞き及ぶ人、市のごとく集まりて、
しばらくは貴み悲しぶこと限りなし。登蓮は、年ごろ
見慣れたりつる
ものを、と
あはれにおぼえて、涙を押さへつつ帰りにけり。
かくて、日ごろ経るままに、登蓮、物の怪めかしき病をす。あたりの人
あやしく思ひて、
事としけるほどに、霊あらはれて、
「ありし蓮花城。」
と名のりければ、
「このこと、
げにとおぼえず。年ごろ相知りて、終はりまで
さらに恨みらるべきことなし。いはむや、
発心のさま、
なほざりならず、貴くて終はり給ひしにあらずや。
かたがた、何のゆゑにや、思はぬさまにて来たるらむ。」
と言ふ。物の怪の言ふやう、
「そのことなり。よく制し給ひしものを、我が心のほどを知らで、
いひがひなき死にをして侍り。さばかり、人のためのことにもあらねば、その際にて思ひ返すべしともおぼえざりしかど、いかなる天魔の仕業にてありけむ、まさしく水に入らむとせし時、たちまちに悔しくなむなりて侍りし。されども、さばかりの人中に、いかにして我が心と思ひ返さむ。
あはれ、ただ今、制し給へかし、と思ひて目を見合はせたりしかど、知らぬ顔にて、『今はとく、とく。』と
もよほして沈みてむ恨めしさに、
何の往生のこともおぼえず。
すずろなる道に入りて侍るなり。このこと、我がおろかなる咎なれば、人を恨み申すべきならねど、最期に
口惜しと思ひし一念によりて、かくまうで来たるなり。」
と言ひける。
現代語訳(口語訳)
最近のことですが、蓮花城といって、有名な聖人がいました。登蓮法師は(蓮花城と)親交があって、何かにつけて(蓮花城に対して)面倒をみて時が過ぎるうちに、数年経って、この聖(蓮花城)が言うことには、
「昨今、年をとるにつれて弱くなってまいりましたので、死期が近づいていることを疑うことがありません。最期には邪念を払った心のままで死ぬことが、最上の望みなのですが、心が澄んでいるときに、入水をして死のうと思っております。」
といいました。登蓮法師は聞き驚いて、
「そうすべきことではありません。もう一日であっても、念仏の修行を積もうと祈願すべきです。そのような行い(入水)は、愚かな人のすることです。」
と言って諌めたのですが、(蓮花城の様子が)いっそう揺るぎなく(心に)思い固めたことであると思われたので、
「このように、これほど(強く)決心されたのであれば、(私も)引き止めることはできません。そうなる運命なのでしょう。」
といって、(その蓮花城が入水をするための)用意などを、力を貸して、一緒に準備したのでした。
ついに(入水の日を迎え)、桂川の深い所にまできて、念仏を声高く唱え、時間がたってから(蓮花城は)水の底に沈みました。その時は(蓮花城が入水すると)聞いた人が、市場のように集まっていて、一時の間(蓮花城の死を)尊み悲しむことこのうえありません。登蓮は、長年慣れ親しんだ(間柄だった)のになあと、悲しく思って、涙をおさえながら帰っていきました。
こうして、日が過ぎるうちに、登蓮は、物の怪がついたような病気になりました。近所の人があやしく思って、一大事だといっているうちに、霊が(登蓮の前に)現れて
「ありし日の蓮花城です。」
と名のったので、(登蓮は)
「これは、本当だとは思えません。長年親交があって、最期まで少しも恨まれることはありません。ましてや、(あなたの)発心の様は、いいかげんなものではなく、尊くお亡くなりになられたではありませんか。いずれにしても、何の理由があって、思いもしない容姿で来たのですか。」
と言います。物の怪が言うことには、
「そのことでございます。よく(入水を)止めてくださったものを、(私は自分の)心のほどを知らないで、どうしようもない死に方をしました。それほど、人のためにしたことでもないので、入水の間際で思い返すこともないと思っていたのですが、どのような天魔の所業であったのでしょうか、まさに水に入ろうとした時に、たちまちに後悔の気持ちが出てきたのです。しかしながら、あのような(大勢の)人の中に、どうやって自分の考で引き返すことができましょうか、いやできません。あぁ、今、入水を止めてください、と思って(あなたの)目を見合わせたりしたのですが、(あなたは)知らぬ顔で、『今は早く、早く』とせきたてるので(それを見ながら)沈んでいった恨めしさに、少しも往生のことを考えもしませんでした。(そのせいで)予期せぬ道に入ったのでございます。このことは、私が愚かだったことの罰なので、人を恨み申し上げるべきではないのですが、死に際に残念だと思った一念によって、このように参ったのです。」
と言いました。
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