土佐日記『亡児』
このテキストでは、
土佐日記の「
二十七日。大津より浦戸をさして〜」から始まる部分の原文、現代語訳・口語訳とその解説を記しています。
書籍によっては、「
大津より浦戸へ」や「
十二月二十七日」などと題するものもあるようです。また、この章と「
十一日。暁に舟を出だして、室津を追ふ〜」から始まる箇所をあわせて『
亡児』とするものもあるようです。
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土佐日記は平安時代に成立した日記文学です。日本の歴史上おそらく最初の日記文学とされています。作者である
紀貫之が、赴任先の土佐から京へと戻る最中の出来事をつづった作品です。
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紀貫之は、柿本人麻呂や小野小町らとともに
三十六歌仙に数えられた平安前期の歌人です。『
古今和歌集』の撰者、『新撰和歌』(新撰和歌集とも)の編者としても知られています。
原文
二十七日。大津より浦戸をさして
漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし女児、国にて
にはかに失せ(※1)にしかば、このごろの出で立ち
急ぎを
見れど、何事も言はず。京へ帰るに、女児の
なきのみぞ
悲しび恋ふる。
(※2)ある人々もえ
堪へず。この間に、
(※3)ある人の書きて
出だせる歌、
都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあれば(※4)なりけり
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歌の解説
またある時には、
あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふ(※5)ぞ悲しかりける
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歌の解説
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土佐日記『亡児2』(十一日。暁に舟を出だして、室津を追ふ〜)の現代語訳
現代語訳
二十七日。大津から浦戸を目指して船を漕ぎ出す。このようにいるうちに、京都で生まれていた女の子が、(赴任先の土佐の)国で急に亡くなってしまったので、最近の出発の準備を見ても、何も言わない。京都に帰るのに、女の子がいないことばかりが悲しく恋しく思われる。そこにいる人たちも(悲しみを)堪えることができない。この間に、とある人が書いて出した歌。
都へ(帰れる)と思うにつけてもなんとなく悲しいのは、(死んでしまって)帰らない人(娘)がいるからなのだなあ
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歌の解説
またあるときには(次のような歌を詠んだ。)
まだ生きているものだと(死んでしまったことを)忘れてはまた、依然として、亡くなった人(娘)を「どこにいるのか」と尋ねるのは悲しいことであるよ
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歌の解説
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土佐日記『亡児2』(十一日。暁に舟を出だして、室津を追ふ〜)の現代語訳
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