寛政の改革
田沼意次の失脚後、幕府では田沼派と白河藩主
松平定信(1758~1829)を老中にしようとする御三家・御三卿の権力闘争が続きました。1787年(天明7月)、江戸・大坂を含む全国30余りの都市で
天明の打ちこわしが起こりました。この大騒動の結果、田沼派は失脚し、松平定信が老中に就任し、
寛政の改革を断行しました。松平政権の成立と寛政の改革は、民衆の打ちこわしがきっかけではじまったのです。
松平定信は御三卿の
田安宗武の子であり、8代将軍徳川吉宗の孫として生まれ、その後白河の松平家に養子に入り、白河藩主として天明の飢饉を乗り越え藩政を立て直した名君でした。老中に就任すると、祖父徳川吉宗の享保の改革を理想とし、田沼政治を否定しました。松平定信は、田沼派を一掃し、改革派の譜代大名を老中・若年寄・側用人に据え、町奉行や勘定奉行などに有能な人材を登用しました。凶作が続いたことによる年貢収入の減少と、飢饉対策により幕府蓄え金がなくなり、更に100万両の収入不足が予想される事態に直面していた幕府財政を立て直すため、厳格な倹約令により大名から百姓・町人にいたるまで倹約生活を受け入れさせ、大奥の経費を3分の2に削減し、朝廷にも経費削減を求めたほどでした。同時に、困窮した旗本・御家人を救済するため1789年(寛政元年)に
棄捐令が出されました。
こうした緊縮政策に加え、凶作・飢饉により荒廃した農村の復興策がとられました。商業的農業や商業の発展をとどめるため、主要な穀物の栽培を奨励し、農民が商業に携わることを抑制しました。飢饉により人口が減少した陸奥や北関東に対しては、江戸や他国へ奉公や出稼ぎに行くことを制限し、人口を増やすために間引きの禁止や赤子養育金の制度を設け、越後など他地域から百姓を呼び寄せ、飢饉で江戸に流入した人々に補助金を与えて農村に帰ることを奨励した
旧里帰農奨励令を出しました。また、荒れ地や農業用水の再開発のために多額の公金貸付を行い、代官を地域の代官所に長期に勤務させ復興を図りました。この時代、陸奥の寺西重次郎や常陸の岡田清助など、領民に顕彰されたり、神社で神に祀られるようになった「名代官」が各地に出ました。
飢饉を原因とする打ちこわしが契機となり始まった寛政の改革は、飢饉対策を重視しました。飢饉の際に米価をコントロールできなかった反省から、江戸の両替商を中心に、豪商を幕府の勘定所御用達に任命しました。松平定信は、凶作でも飢饉にならないように諸国に食料の備蓄を求め、諸大名には1万石につき50石を5年間にわたり領内に備蓄させ、各地に社倉・義倉を設置させる
囲米を行わせました。幕領の農村には郷蔵を直轄都市には米を貯蔵する蔵を設け、さらに江戸では町入用を節約した3万7000両の70%を積み立てる
七分積金の制度を作り、江戸町会所に米や金を蓄え、有事のときに貧民の救済に使われ、打ちこわしなどを未然に防ごうとしました。
田沼時代に派手な消費生活をしていた都市では、贅沢の取締りが非常に厳しく行われました。また、農村が荒廃し、都市に集まった下層住民や無宿人の野非人対策が重要視され、身元のわかる若い者は領主に引き渡し帰村させ、それ以外の無宿人のうち、犯罪を犯していない者は、石川島の人足寄場に収容し、技術を身に着けさせ、職業をもたせようとしました。
思想面では、1790年(寛政2年)に
朱子学が正学となり、湯島聖堂の学問所で朱子学以外の学派の講義や研究を禁じた
寛政異学の禁が出されました。幕府の教学を担った林家を強化し、のちに
寛政の三博士と言われた
柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉らの優れた儒者を儒官として登用しました。さらに、朱子学の奨励と人材の登用・発掘のため、
学問吟味という試験制度も設けられました。
出版関係では、社会風俗に悪影響を与えるものや、世の中の噂を写本にして貸すことを禁じた
出版統制令がだされ、幕府政治への諷刺や批判を取締りました。この結果、洒落本作者の
山東京伝や黄表紙作者の
恋川春町、出版元の
蔦屋重三郎などが幕府により弾圧されました。同時期、
林子平が『三国通覧図説』や『海国兵談』などで、外国からの脅威を指摘し、軍備充実や海岸防備の強化を主張しましたが、幕府はこれらの書籍の版本を没収し、林子平に禁固刑を課し、弾圧しました。
この時代、朝廷と幕府の間に「
尊号一件」という事件が起こりました。朝廷は、公事や神事を再興し、京都御所の清涼殿・紫宸殿を平安時代の内裏と同じものに造営するするなど、天皇権力の強化をはかっていました。1789年(寛政元年)、
光格天皇(1780〜1817)の父である
閑院宮典仁親王に
太上天皇の尊号を宣下したい旨を幕府に伝えました。しかし、松平定信は天皇の位につかなかった者に天皇譲位後の太上天皇の尊号を贈ることに反対しました。これに対し朝廷側は1791年(寛政3年)に参議以上の公卿に尊号宣下の可否を問い、多数の賛成を得て、翌年幕府に強く宣下の許可を求めた。しかし、松平定信はこれを再び拒否し、1793年(寛政5年)に武家伝奏と議奏を処罰しました。この「尊号一件」をきっかけに、幕府と朝廷の間で緊張関係が生まれました。
寛政の改革は、一時的に幕政を引き締め、幕府財政を回復し、幕府権威を高めましたが、厳しい統制や倹約の強制により民衆の反発にあい、1793年(寛政5年)、松平定信は将軍家斉との対立もあり、6年余りで老中を退陣することになりました。
中央の幕府政治だけでなく、享保期以降、幕府改革の影響も受けながら、諸藩は藩政の改革を行いました。藩主が先頭に立ち、倹約や統制を強化し、財政危機を克服することを目指しました。また農村の復興や特産品の生産奨励、専売制の強化も行われ、藩政を担う人材を養成する藩校も設立・拡充されました。
熊本藩主
細川重賢や松江藩主
松平治郷、米沢藩主
上杉治憲(鷹山)、秋田藩主
佐竹義和など、藩政の立て直しに成果を上げた藩主は、名君と評されました。