政党の成立
国会開設の勅諭が出されたのち、自由民権派の政党が次々に誕生しました。1881年(明治14年)10月、国会期成同盟を母体に、板垣退助を総理(党首)とする
自由党が結成され、1882年(明治15年)
には、下野していた大隈重信を総理として
立憲改進党が結成されました。政府を支持する政党としても、福地源一郎を党首とする立憲帝政党が結成されました。この流れは地方へとひろがり、民権派の政党が各地に成立しました。これら政党は、立憲君主制のもとで政党政治の実現を目指すという意味では概ね一致した意見を持ち、憲法の私案である私擬憲法を作ったり、地方遊説を行ったりしましたが、自由党と立憲改進党の対立が激化し、国会開設という統一目標の消失、農村の不況による活動資金の獲得が難しくなったことなど、運動は次第に停滞していきました。
松方財政
明治初年以来、近代化を進めるためには巨額の資金が必要でした。しかし、十分な財源を持たなかった明治政府は、不換紙幣の太政官札などを発行し、特に西南戦争時の戦費のために不換紙幣を増発しました。この結果、インフレーションが進み物価が高騰し、政府の歳入は実質的に低減し、財政は困難となりました。海外との貿易でも、輸入超過が続き、正貨保有は大幅に減少しました。
こうした状況に対し、1881年(明治14年)に参議兼大蔵卿の
松方正義(1835~1924)が中心となり、財政立て直しのための紙幣整理に着手しました。ます、緊縮財政を始め歳出を抑え、増税により歳入を増加させました。歳入の余剰金をで正貨買い入れと紙幣償却を行い、インフレーションは収拾しました。しかし、インフレーションは収拾したものの、今度は物価が下落し、日本社会は不況になっていきました。
明治政府は、金融政策を行うための中枢機関として、1882年(明治15年)に国立の中央銀行として
日本銀行を設立しました。1883年(明治16年)には、国立銀行条例を改正し、いままでの国立銀行を徐々に普通銀行に変えていき、紙幣発行権を日本銀行に集中させ、1885年(明治18年)から兌換券を発行するようになりました。
更に明治政府は、民間産業育成のため1880年(明治13年)、工場払い下げ概則を制定し、軍需産業以外の様々な官営事業を民間に払い下げました。また、緊縮財政の結果、米などの農産物価格が急激に下落し、土地を手放し働きに出る農民が増えました。1880年代の不況を通じて、資本家やに工場や様々な官営事業が集中するとともに、農民層が解体し労働者となっていきました。これを
資本の原始的蓄積といい、日本の資本主義発展のきっかけとなっていきます。