立憲政治
江戸幕府の文久年間に、蕃書調所所属の洋学者加藤弘之は、『隣草』を著し、欧米諸国の立憲政治を日本に紹介しました。また、彼は明治新政府に仕えたのちも、『立憲政体略』『真政大意』『国体新論』などを著し、その立憲思想は当時の政治家に多大な影響を与えました。また、西周・津田真道・福沢諭吉らも幕末から明治にかけて立憲政体や議会政治に関するさまざまな具体案を紹介しました。五箇条の誓文に「万機公論ニ決スベシ」とあったように、明治政府は公議輿論を国民統合の象徴として掲げました。公議所などの開設など、立法の諮問や建白受理の機関を設置したものの、公議輿論はなかなか実現しませんでした。
1872年(明治5年)ころから、左院を中心に憲法制定と公選の議会開設の構想が生まれ、その後欧米を視察した岩倉使節団の木戸孝允・大久保利通らは、1873年(明治6年)に征韓論で政府が分裂する中、「君民共治」政治(立憲君主制)を日本にも採用すべきであるという意見書を書きました。
自由民権運動
征韓論が受け入れられなかった結果、明治六年の政変により明治政府を辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、1874年(明治7年)1月、愛国公党を創設し、民撰議院設立建白書を左院に提出しました。この中で、明治政府がごく一部の上級役人による有司専制であるとし批判し、同時に納税者に国体に参与する権利があるとし、民撰議院を設立をすべきと主張しました。この建白を巡って、民撰議院論争がおこり、
自由民権運動がはじまりました。
板垣退助は建白書を提出後、故郷の土佐(高知)に戻り、片岡健吉・林有造らとともに1874年(明治7年)4月に立志社を結成し、自由民権思想の普及をはじめました。また、翌年には立志社を中心に民権派結社の代表が大阪に集い、愛国社を創立しました。
こうした動きに対し、明治政府の大久保利通は、板垣退助と木戸孝允(台湾出兵に反対し下野していた)と大阪会議で協議をすすめ、板垣退助と木戸孝允を政権に復帰させ、立憲政体樹立の詔を発布し、立法諮問機関の元老院と、司法機関の大審院を設置しました。また、府知事・県令を集め地方官会議を開き地方議会を設置する方針を固め、1878年(明治11年)大久保利通により郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則など三新法を制定しました。1879年(明治21年)に全国で公選による府県会が開かれ、地主や豪農など地方の有力者が地方政治に関われるようになりました。他方で政府は、新聞紙条例などを制定し、民権派などの反政府的言論活動を厳しく取り締まりました。
国会開設運動
西南戦争のさなかの1877年(明治10年)、立志社は専制政治・地租の取りすぎ・外交政策の失敗など8カ条にわたって政府を批判し、国会開設を説いた立志社建白を天皇に提出しました。西南戦争の終結により、士族反乱が終わると反政府運動は言論活動が中心となっていき、1878年(明治11年)には大阪で愛国社再興大会が開催されました。次第に士族中心の士族民権は、豪農・地主・商工業者らも参加する豪農民権へと発展していきました。
1880年(明治13年)、愛国社は全国の民権派政党の代表を集め第4回大会を開催し、国会期成同盟を結成し、河野広中・片岡健吉が2府22県8万7000名あまりの署名を集め国会開設を請願しようとしました。国会開設運動が活発になった背景には、1870年代末から80年代初頭にかけてインフレーションが進み、米などの農産物価格が上がったため、農家に金銭的余裕ができたため活動資金が集めやすくなったからだといわれています。
明治政府内でも、さまざまな政治家が立憲政治の実現のために意見書を提出しましたが、伊藤博文などは時間をかけて国会開設を目指す漸進的国会開設を目指しました。しかし、1881年(明治14年)3月、参議大隈重信がイギリス流の政党政治(議員内閣制)を取り入れるべきという意見書を上奏し、伊藤博文らと対立するようになりました。
同時期、薩摩出身の開拓長官黒田清隆が、1872年(明治5年)からの開拓10年計画終了にあたり1400万円という巨額の国費を使った北海道開発の官営事業を同じ薩摩出身の政商五代友厚(1835~85)ら関西貿易社に39万円無利息30年賦という好条件で払い下げようとしました。この
開拓使官有物払下げ事件は、藩閥政治と政商による癒着であるとして民間から激しい批判を浴び、政府内部でも大隈重信が反対しました。政府は漸進的国会開設とプロイセン流(ドイツ)の君主権力が強力な憲法を制定することを決定し、1890年(明治23年)に国会を開設する国会開設の勅諭を出しました。開拓使官有物払下げ事件を一旦承認した政府首脳も、大隈重信と民権派が結託し政府打倒を目指していると判断し、払い下げを中止するとともに大隈重信を辞職させました。これを
明治十四年の政変といいます。