国家体制の整備
自由民権運動を厳しく取り締まる一方、明治政府は主導権を握りながら立憲政治の成立を目指しました。1882年から83年(明治15~16年)にかけて憲法研究のためにヨーロッパに渡った
伊藤博文は、ドイツの
グナイストやオーストリアの
シュタインなど一流の法学・政治学者たちから君権主義に基づくプロイセン(プロシア)憲法やドイツ諸邦の憲法、ヨーロッパ各国の政治・法律諸制度を学びました。帰国した伊藤博文は、宮中に
制度取調局(のちの内閣法制局)を設置し、自ら参議のまま局長となり、宮内卿(のち宮内大臣)を兼任して立憲政治の根本となる政治機構の改革を行いました。
華族制度
1884年(明治17年)、華族令が公布され、華族は
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5爵にわけられ、旧大名や公家に加え、維新後国家に功労のあった者を華族に列しました。政府首脳はほぼ爵位を授けられ、1887年(明治20年)には民権派指導者や旧幕臣の有力者にも爵位が授けられました。これは、国会開設に備えて、上院(貴族院)の貴族議員選出母体にするため、また国内の対立を和らげる意図があったとされています。また、宮中改革を行い、伝統的な日本の宮廷制度・慣行を西洋式に改め、ヨーロッパ風の立憲君主制の導入に備えました。
内閣制度
1885年(明治18年)12月、太政官制が廃止され、近代的な
内閣制度が創設されました。これにより、皇族・公家・大名出身者をあてていた太政大臣・左大臣・右大臣や、参議を廃止し、各省の行政長官を国務大臣として、新たに内閣総理大をおき、政治運営を行うようになりました。これにより、主に薩長出身の藩閥政治家らは名実ともに政治の中枢を占めるようになりました。同時に、天皇の側近として内大臣(初代三条実美)をおき、御璽・国璽や宮中の所務を管轄させ、宮内庁を内閣の外におきました。また、内閣制度の制定とともに、伊藤博文を初代内閣総理大臣とする
第1次伊藤内閣が発足しました。
・第1次伊藤内閣の閣僚
伊藤博文(総理) | 長州・伯爵 |
井上馨(外務) | 長州・伯爵 |
山県有朋(内務) | 長州・伯爵 |
松方正義(大蔵) | 薩摩・伯爵 |
大山巌(陸軍) | 薩摩・伯爵 |
西郷従道(海軍) | 薩摩・伯爵 |
山田顕義(司法) | 長州・伯爵 |
森有礼(文部) | 薩摩 |
谷干城(農商務) | 土佐・子爵 |
榎本武揚(逓信) | 旧幕臣 |
この内閣は、反対派から藩閥内閣であると攻撃され、薩長の閣僚は次第に減少していきますが、大正時代に入るまで、公家出身の西園寺公望・肥前出身の大隈重信を除き、総理大臣は旧薩長出身者で占められました。
皇室財産
政府は、皇室が議会の制約を受けないように、1885年~1890年(明治18年~明治23年)までに、約365万ヘクタールの広大な山林・原野と莫大な有価証券を皇室財産としました。
地方自治
地方自治改革としては、内務大臣山県有朋を中心に、ドイツ人の顧問モッセの助言を受け1888年(明治21年)市制・町村制を、1890年(明治23年)に府県制・郡制を公布しました。
法典編纂
不平等条約改正にあたって、日本政府は明治初期から近代的諸法典の編纂に取り組みました。フランスの法学者
ボアソナードを招き、1880年(明治13年)に刑法・治罪法を制定し、1890年(明治23年)には民法の一部を公布し、1893年(明治26年)から実施されることになりました。こうした法体系はフランス風の自由主義的な内容だったため、法曹界・政界の保守的な人々が民法典論争をおこし、様々な反対がおこりました。こうした反対運動により民法実施は延期され、断行派の梅謙次郎や反対派の穂積陳重などが新たに民法起草にかかり、1896年(明治29年)〜1898年(明治31年)に明治民法(修正民法)が公布されました。商法も民法典論争の余波で実施延期となっていましたが、1899年(明治32年)修正後に公布され、その他にも民事訴訟法・刑事訴訟法がつくられ、憲法とともに六法が整備されました。