蜻蛉日記
読経修法などして
読経修法などして、いささかおこたりたるやうなれば、夕のこと、みづから返りごとす。
「いとあやしう、おこたるともなくて日をふるに、いとまどはれしことはなければにやあらん、おぼつかなきこと」
など、人間にこまごまと書きてあり。
「物おぼえにたれば、あらはになどもあるべうもあらぬを、夜の間にわたれ。かくてのみ日をふれば」
などあるを、人はいかが思ふべきなど思へど、われもまたいとおぼつかなきに、たちかへりおなじことのみあるを、いかがはせんとて、
「くるまを給へ」
といひたれば、さしはなれたる廊のかたに、いとようとりなし、しつらひて、端にまちふしたりけり。火ともしたるに、火けさせておりたれば、いと暗うていらんかたもしらねば、
「あやし、ここにぞある」
とて、手をとりてみちびく。
「などかう久しうはありつる」
とて、日ごろありつるやうくづしかたらひて、とばかりあるに、
「火ともしつけよ。いと暗し。さらにうしろめたくはなおぼしそ」
とて、屏風のうしろにほのかにともしたり。
「まだ魚(いを)なども食はず。今宵なんおはせばもろともに、とてある。いづら」
などいひて、物まゐらせたり。すこし食ひなどして、禅師(ぜし)たちありければ、夜うちふけて、
「護身に」
とてものしたれば、
「今はうちやすみ給へ。日ごろよりは少しやすまりたり」
といへば、大徳、
「しかおはしますなり」
とて、たちぬ。