蜻蛉日記
三月ばかりここにわたりたるほどにしもくるしがりそめて
三月ばかり、ここに渡りたるほどにしもくるしがりそめて、いとわりなうくるしと思ひまどふを、いといみじと見る。いふことは、
「ここにぞ、いとあらまほしきを、何ごともせんにいと便(びん)なかるべければ、かしこへものしなん。つらしとなおぼしそ。にはかにも、いくばくもあらぬ心ちなんするなん、いとわりなき。あはれ、死ぬともおぼしいづべきことのなきなん、いとかなしかりける」
とて泣くをみるに、ものおぼえずなりて、又、いみじう泣かるれば、
「な泣き給ひそ。くるしさまさる。よにいみじかるべきわざは、心はからぬほどに、かかる別れせんなんありける。いかにし給はんずらむ。ひとりはよにおはせじな。さりとも、おのが忌みのうちにし給ふな。もし死なずはありとも、かぎりと思ふなり。ありともこちはえまゐるまじ。おのがさかしからんときこそいかでもいかでもものし給はめとおもへば、かくて死なばこれこそは見たてまつるべき限りなめれ」
など、ふしながらいみじうかたらひて泣く。これかれある人々よびよせつつ、
「ここにはいかに思ひきこえたりとか見る。かくて死なば、又対面せでややみなんと思ふこそいみじけれ」
といへば、みな泣きぬ。みづからは、ましてものだにいはれず、ただ泣きにのみ泣く。かかるほどに心ちいとおもくなりまさりて、車さしよせてのらんとて、かきおこされて人々にかかりてものす。うち見おこせて、つくづくうちまもりて、いといみじと思ひたり。とまるはさらにもいはず。この兄(せうと)なる人なん、
「何か、かくまがまがしう。さらになでふことかおはしまさん。はやたてまつりなん」
とてやがてのりて、かかへてものしぬ。思ひやる心ち、いふかたなし。日に二度(ふたたび)三度(みたび)ふみをやる。人にくしと思ふ人もあらんとおもへども、いかがはせん。かへりごとはかしこなるおとなしき人してかかせてあり。
「「みづからきこえぬがはりなきこと」とのみなんきこえ給ふ」
などぞある。ありしよりもいたうわづらひまさると聞けば、いひしごとみづから見るべうもあらず、
「いかにせん」
など思ひなげきて、十余日にもなりぬ。