征韓論から民撰議院設立建白書の提出へ
1871年~1873年の間、岩倉使節団として、岩倉具視を団長とする政府の要人たちが最先端の政府の仕組みや憲法を勉強するために海外へと留学に行っています。この間に政府の留守を預かったのが
西郷隆盛と
板垣退助でした。
征韓論
この留守政府で大きな問題となっていたのが、李氏朝鮮(現在の韓国)への外交政策でした。当時の李氏朝鮮は、
以前の日本と同じように鎖国政策をとっており、日本はこの鎖国政策をやめさせて国交を結ぼうと躍起になっていました。
「
列強が日本に行ったように、武力で解決すべし」 としたのが板垣退助。
一方で 「
対話で開国させるべき、ダメだったら武力に打って出るのもやむを得ない」 と唱えたのが西郷隆盛です。
この、
武力によって韓国を開国させるべきだという考えを
征韓論と言います。
とりあえず、使節団が帰ってくるまでは静観をしていようという見解でこのときは落ち着きました。
岩倉使節団帰国
使節団が帰国し、韓国への外交政策が再び取り上げられます。
しかしながら、帰国した伊藤博文・大久保利通らはこれに猛反対をします。
いま日本が武力で事を起こせば、その隙を見計らって列強が攻めてくると主張したのです。
板垣退助、西郷隆盛はこの政府の決定に失望し、政府を離れそれぞれ国へと帰っていきます。
政府との確執
この確執が板垣退助を奮起させます。考えてみたら政府は薩摩、長州、土佐派閥の人間ばかり。
結局のところ藩閥政治となっており、開国前とさほどかわらないじゃないか!と主張し、
真の政治家は、選挙を行なって国民の信頼を得た人間がやるべきだという意見書を政府に提出します。
この意見書こそが、
民撰議院設立建白書なのです。
このタイミングこそが、
自由民権運動が始まった瞬間でした。