平家物語
清水寺炎上
衆徒帰りのぼりにければ、一院六波羅より還御(かんぎょ)なる。重盛卿ばかりぞ御ともには参られける。父の卿は参られず。なほ用心の為かとぞ聞こえし。重盛の卿御送りより帰られたりければ、父の大納言のたまひけるは、
「さても一院の御幸(ごこう)こそ、大きに恐れおぼゆれ。 かねても思し召しより仰せらるる旨のあればこそ、かうは聞こゆらめ。それにもうちとけ給ふまじ」
とのたまへば、重盛卿申されける、
「この事ゆめゆめ御気色にも、御詞(ことば)にも出ださせ給ふべからず。人に心つけ顔に、なかなか悪しき御事なり。それにつけても、叡慮(えいりょ)に背き給はで、人の為に御情(なさけ)をほどこさせましまさば、神明三宝加護あるべし。さらむにとつては、御身の恐れ候ふまじ」
とて、立たれければ、
「重盛卿は、ゆゆしう大様なる者かな」
とぞ、父の卿ものたまひける。
一院還御の後、御前(ごぜん)にうとからぬ近習者達(きんじゅしゃたち)、あまた候はれけるに、
「さても不思議の事を申し出だしたるものかな。露も思しめしよらぬものを」
と仰せければ、院中のきり者に西光法師といふ者あり。境節御前近う候ひけるが、
「「天に口なし、人を以て言はせよ」
と申す。平家、以ての外(ほか)に過分に候ふ間、天の御計らいにや」
とぞ申しける。人々、
「この事由(よし)なし、壁に耳あり。恐ろし恐ろし」
とぞ申しあはれける。