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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / トルコ・イラン世界の展開

「イスファハーンは世界の半分」とは わかりやすい世界史用語2356

著者名: ピアソラ
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「イスファハーンは世界の半分」とは

「イスファハーンは世界の半分」という言葉は、かつてイスファハーンが世界の富や文化の半分が集まるほど繁栄していたことを示す言葉です。

イスファハーンの地理的位置とその戦略的重要性

イラン中央部に位置するイスファハーンは、ザグロス山脈の東麓、ザーヤンデ川のほとりに広がる都市です。この地理的条件は、都市の発展において極めて重要な役割を果たしました。標高約1,574メートルの高原に位置するため、イスファハーンはイランの他の多くの地域と比べて穏やかな気候に恵まれています。夏は乾燥して暑いものの、冬は寒さが厳しく、四季の変化が明確です。この気候は農業に適しており、特にザーヤンデ川がもたらす水資源は、乾燥したイラン高原において生命線ともいえる存在でした。川沿いの肥沃な土地は、古くから豊かな農産物を生み出し、都市の食料基盤を支えてきました。
イスファハーンの戦略的な重要性は、その地理的な位置に由来します。古代より、この都市は東西南北を結ぶ交通の要衝でした。北には現在の首都テヘラン、南にはペルシャ湾岸の港町、東にはアフガニスタンや中央アジア、西にはメソポタミアへと至る交易路が交差する地点にありました。特に、シルクロードの一部を構成する重要な中継都市として、隊商(キャラバン)が行き交い、多様な物資、人々、そして文化が交流する拠点となりました。この地理的優位性により、イスファハーンは商業都市として繁栄し、莫大な富を蓄積することができました。
さらに、イスファハーンの周囲は山脈や砂漠に囲まれており、これが自然の要害として機能しました。都市を防衛する上で有利な地勢であり、歴代の王朝がこの地を首都として選んだ理由の一つでもあります。特にサファヴィー朝時代には、オスマン帝国やウズベクといった外部勢力からの脅威に対処するため、より中央に位置し、防衛しやすいイスファハーンへの遷都が断行されました。この遷都は、イスファハーンが政治、経済、文化の中心として黄金時代を迎える直接的なきっかけとなりました。
ザーヤンデ川は、都市の生命線であると同時に、その景観を特徴づける重要な要素でもあります。川は都市を潤し、農業を支えるだけでなく、市民の憩いの場となり、数々の美しい橋が架けられました。これらの橋は単なる交通路ではなく、社交の場や建築の傑作としても機能し、イスファハーンの都市計画において中心的な役割を担いました。しかし、近年の水不足によりザーヤンデ川が干上がることもあり、都市の環境と人々の生活に大きな影響を与えています。このように、イスファハーンの地理的条件は、その歴史を通じて繁栄と試練の両方をもたらし、都市の性格を深く形作ってきました。



サファヴィー朝以前のイスファハーンの歴史

イスファハーンの歴史は、サファヴィー朝の栄華よりもはるか昔、古代にまで遡ります。アケメネス朝ペルシア(紀元前550年頃 - 紀元前330年)の時代には、すでにこの地域に集落が存在していたと考えられています。当時のイスファハーンは「アスパダナ」または「セパハン」と呼ばれており、王の道の一部をなす重要な拠点でした。その後、パルティア王国、サーサーン朝の時代を通じて、地方の行政中心地として、またゾロアスター教のコミュニティが存在する場所として発展を続けました。サーサーン朝時代には、軍事的な駐屯地としての役割も担っていたことが示唆されています。
7世紀半ば、アラブ・イスラーム勢力によるペルシア征服は、イスファハーンの歴史に大きな転換点をもたらしました。642年のニハーヴァンドの戦いの後、イスファハーンはイスラームの支配下に入りました。初期のイスラーム時代、この都市は他のペルシアの都市と同様に、徐々にイスラーム化が進みました。ウマイヤ朝、アッバース朝の支配下で、イスファハーンは地域の中心都市としての地位を維持し続けました。
11世紀に入ると、セルジューク朝の時代にイスファハーンは最初の黄金期を迎えます。セルジューク朝の初代スルタンであるトゥグリル・ベグは、1051年にイスファハーンを占領し、その後、息子のアルプ・アルスラーン、そして孫のマリク・シャー1世の治世下で、帝国の大首都として定められました。マリク・シャー1世とその宰相ニザーム・アル=ムルクの指導のもと、イスファハーンは大規模な都市開発を経験しました。この時代に、現在もイスファハーンの旧市街の中心にそびえる金曜モスク(マスジェデ・ジャーメ)の大規模な増改築が行われました。特に、南と北に設置された二つのドームは、セルジューク朝建築の最高傑作とされ、その後のペルシア・イスラーム建築に多大な影響を与えました。南のドームはニザーム・アル=ムルクによって、北のドームは彼の政敵であったタージュ・アル=ムルクによって建設されたと伝えられています。この時期、イスファハーンは学問の中心地としても栄え、多くの学者や詩人が集まりました。高名な学者であり哲学者でもあったイブン・スィーナー(アヴィセンナ)も、一時期この地で活動したとされています。
しかし、セルジューク朝の衰退後、イスファハーンは混乱の時代を迎えます。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻を受け、都市は大きな被害を被りました。さらに14世紀末、ティムール朝の創始者であるティムールが中央アジアから西アジアにかけて遠征を行った際、イスファハーンは壊滅的な打撃を受けました。1387年、ティムール軍はイスファハーンを包囲し、降伏させました。当初、ティムールは寛大な処置を約束しましたが、市民の一部がティムールの徴税官や兵士を殺害したことに激怒し、大規模な虐殺を命じました。伝説によれば、この時殺害された市民の頭蓋骨でいくつもの塔が築かれたと伝えられています。この破壊により、セルジューク朝時代に築かれた繁栄は一旦失われ、都市は長い停滞期に入りました。ティムール朝やその後の黒羊朝、白羊朝の時代、イスファハーンは地方都市の一つに過ぎませんでした。しかし、この苦難の歴史があったからこそ、後のサファヴィー朝時代における奇跡的な復興と繁栄が、より一層際立つことになります。

アッバース1世の治世とイスファハーンへの遷都

16世紀末、サファヴィー朝の第5代シャーとして即位したアッバース1世(在位:1588年 - 1629年)は、イラン史上最も偉大な君主の一人とされています。彼が即位した当時、サファヴィー朝は東のウズベク族と西のオスマン帝国という二つの強大な敵に挟まれ、国内は内紛で疲弊していました。若きアッバース1世は、まず軍制改革に着手し、従来の部族軍に代わって、シャーに直属する常備軍を創設しました。グルジア人、アルメニア人、チェルケス人といったカフカース系のキリスト教徒からなるこの新軍団は、火器で武装し、シャーへの絶対的な忠誠を誓っていました。この強力な軍事力を背景に、アッバース1世は失地回復に乗り出し、ウズベク族を撃退し、オスマン帝国から広大な領土を奪い返しました。
国内の安定と国境の安全を確保したアッバース1世は、次に国家の抜本的な改革に取り掛かりました。その一環として行われたのが、1598年の首都移転です。それまでの首都であったガズヴィーンは、オスマン帝国の国境に近く、常に脅威にさらされていました。アッバース1世は、より国土の中央に位置し、ザーヤンデ川の水資源に恵まれ、古くからの交易路の交差点でもあるイスファハーンを新たな首都として選びました。この遷都は、単なる地理的な移動ではなく、アッバース1世が構想する新しいペルシア帝国の中心を創造するという、壮大な都市計画の始まりでした。
アッバース1世は、イスファハーンを世界に冠たる壮麗な都市にすることを目指しました。彼は、古いセルジューク朝時代の市街地の南に、全く新しい都市空間を建設することを命じました。その中心に据えられたのが、後に「イマームの広場」として知られることになる長方形の巨大な広場、「ナクシェ・ジャハーン広場(世界の写し絵の広場)」です。この広場は、長さ約560メートル、幅約160メートルにも及び、当時世界最大級の広場でした。広場は、ポロの競技場として、また軍事パレードや祝祭、公開処刑の場としても使用され、国家の威信を内外に示すための壮大な舞台装置でした。
広場の周囲には、国家の四つの柱を象徴する壮麗な建築物が配置されました。東側には、シャーの私的な礼拝堂である「シェイフ・ロトフォッラー・モスク」。西側には、王宮である「アーリー・カープー宮殿」。南側には、国家の公式なモスクである「シャー・モスク(後のイマーム・モスク)」。そして北側には、帝国の経済の中心である「カイサリーヤ・バザール」の入り口が設けられました。この配置は、政治(宮殿)、宗教(二つのモスク)、そして経済(バザール)という、国家を構成する三大要素を一つの広場に集約し、シャーの絶対的な権威の下に統合することを見事に視覚化したものでした。
アッバース1世の都市計画は、広場だけに留まりませんでした。広場から南に伸びる壮大な並木道「チャハール・バーグ通り」が建設され、その両側には王族や貴族の庭園や邸宅が立ち並びました。また、ザーヤンデ川には「スィー・オ・セ・ポル(33の橋)」や「ハージュー橋」といった壮麗な橋が架けられ、都市の景観を一層美しいものにしました。アッバース1世の治世下で、イスファハーンは文字通り「世界の半分」と称されるにふさわしい、政治、経済、文化の中心地として生まれ変わったのです。

ナクシェ・ジャハーン広場とその建築群

ナクシェ・ジャハーン広場、公式にはイマーム広場として知られるこの場所は、アッバース1世によるイスファハーン改造計画の心臓部であり、サファヴィー朝建築の粋を集めた傑作です。この広場は、単なるオープンな場ではなく、帝国の権力、信仰、商業、そして社会生活が凝縮された多機能的な空間として設計されました。広場の四方を囲む二層のアーケードには無数の店舗が入り、人々で賑わいました。広場そのものは、日中はポロの競技や軍事教練に使われ、夜になると市場や祭り、娯楽の場へと姿を変えました。
広場の南辺を飾るのが、イマーム・モスク(旧シャー・モスク)です。1611年に建設が始まり、アッバース1世の死後、1629年頃に完成しました。このモスクは、サファヴィー朝の公式な国家モスクとして、壮大なスケールと華麗な装飾を誇ります。入り口の門(イーワーン)は広場に正対していますが、礼拝の方向(キブラ)をメッカに合わせるため、内部の建物全体が約45度傾けて配置されています。この巧みな設計により、外部の都市軸と内部の宗教的軸が見事に調和しています。モスク全体は、サファヴィー朝を象徴する青を基調とした色鮮やかなタイルで覆われています。特に、「ハフト・ランギ(七彩タイル)」と呼ばれる技法が多用され、複雑な花の文様や幾何学模様、アラビア文字のカリグラフィーが見事な調和を見せています。中央の中庭を囲むように四つのイーワーンが配置された「四イーワーン形式」は、ペルシア建築の伝統的な様式ですが、このモスクではそれが壮大なスケールで実現されています。主礼拝室の巨大なドームは二重殻構造になっており、音響効果にも優れた設計がなされています。ドームの下で手を叩くと、音が何度も反響する現象は有名です。
広場の東側には、シェイフ・ロトフォッラー・モスクが位置します。1603年から1619年にかけて建設されたこのモスクは、シャーとその家族のための私的な礼拝堂でした。そのため、イマーム・モスクのようなミナレット(尖塔)や中庭を持たず、比較的小規模ですが、その内部装飾の精緻さと美しさは比類がありません。クリーム色を基調としたドームの外壁は、光の角度によって色が変化するように見えます。内部は、ドームの頂点から光が差し込む幻想的な空間となっており、壁面は青や黄色のタイルで描かれた複雑なアラベスク模様で埋め尽くされています。特に、ドームの天井中央に描かれた孔雀の尾のような模様は、差し込む光によってその姿を現し、見る者を魅了します。その繊細で女性的な美しさから、サファヴィー朝建築の宝石と称されています。
西側にそびえるのが、アーリー・カープー宮殿(崇高なる門)です。この宮殿は、シャーが公務を執り行い、外国使節を謁見し、広場で行われるポロの試合や儀式を観覧するための場所でした。6階建ての建物で、広場に面した高いテラス(タラール)が特徴的です。このテラスからは広場全体を一望でき、シャーの権威を象徴する舞台装置としての役割を果たしました。宮殿の内部は、壁画や精巧なスタッコ(漆喰)彫刻で飾られています。特に最上階にある「音楽室」は、音響効果を高め、また装飾的な目的で、壁や天井に楽器や壺の形をかたどった数多くの壁龕(へきがん)が穿たれており、その独特のデザインで知られています。
そして、広場の北側には、カイサリーヤ・バザール(皇帝のバザール)への壮大な入り口があります。この門の上部には、イスファハーンの星座である射手座(人馬宮)を表すフレスコ画が描かれていました。このバザールは、広場から北へ数キロメートルにわたって伸び、セルジューク朝時代からの古い金曜モスクまで続いています。ドーム型の天井が続くバザール内部は、まるで迷宮のようであり、絨毯、細密画、金属工芸品、香辛料など、ありとあらゆる商品が売られています。このバザールは、帝国の経済活動の中心であり、シルクロードを通じて遠く中国やヨーロッパからもたらされた富がここに集まりました。ナクシェ・ジャハーン広場とその建築群は、サファヴィー朝の栄華を今に伝える壮大な記念碑であり、政治、宗教、経済が見事に統合された理想的な都市空間の実現例として、世界遺産にも登録されています。

サファヴィー朝時代の経済と交易

アッバース1世の治世下で、イスファハーンは国際的な商業の中心地として空前の繁栄を遂げました。この経済的成功は、アッバース1世の巧みな経済政策と、イスファハーンの戦略的な地理的位置の賜物でした。「イスファハーンは世界の半分」という言葉が生まれたのも、まさにこの時代のことであり、世界の富の半分がこの都市に集まると言われるほどの賑わいを見せていました。
アッバース1世は、交易路の安全確保を最優先課題としました。彼は、国内の主要な街道に沿って、約30キロメートルごとにキャラバンサライ(隊商宿)を建設または修復させました。これらのキャラバンサライは、隊商に安全な宿泊場所、食料、水を提供し、盗賊からの保護を保証しました。これにより、商人たちは安心して長距離の旅をすることができ、物流が大幅に活性化しました。道路網の整備や橋の建設も積極的に行われ、イラン全土を結ぶ効率的な輸送ネットワークが構築されました。
サファヴィー朝の経済を支えた最大の輸出品は、生糸でした。カスピ海南岸のギーラーン地方やマーザンダラーン地方で生産される高品質なペルシア絹は、ヨーロッパで非常に高い需要がありました。アッバース1世は、この生糸の生産と輸出を国家の専売事業としました。これにより、莫大な利益が国庫にもたらされ、壮大な都市建設や軍事費の財源となりました。彼は、アルメニア人商人の商業的才能に着目し、彼らを強制的にイスファハーン郊外に移住させ、ニュー・ジュルファ地区を建設しました。そして、彼らに生糸貿易の独占権を与え、ヨーロッパやインドとの交易に従事させました。アルメニア人たちは、独自の国際的なネットワークを持ち、サファヴィー朝の生糸をレヴァント地方(地中海東岸)やインド、さらにはヨーロッパの市場へと運びました。
イスファハーンのカイサリーヤ・バザールは、この国際交易の中心地でした。バザールには、国内各地からの産物はもちろんのこと、インドの香辛料や綿織物、中国の陶磁器、ロシアの毛皮、ヨーロッパの毛織物など、世界中の商品が集まりました。バザールは、商品の種類ごとに区画(スーク)が分かれており、活気に満ち溢れていました。
もう一つの重要な輸出品は、ペルシア絨毯でした。アッバース1世は、イスファハーンやカーシャーン、ケルマーンなどの都市に王立の絨毯工房を設立し、最高品質の絨毯を生産させました。これらの絨毯は、精緻なデザインと優れた技術で知られ、ヨーロッパの王侯貴族の間で大変な人気を博しました。サファヴィー朝時代の絨毯は、芸術品としての価値も高く評価されており、現在も世界中の美術館で至宝として所蔵されています。
アッバース1世はまた、外国との直接的な通商関係の確立にも努めました。彼は、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社といったヨーロッパの貿易会社に特権を与え、ペルシャ湾のバンダル・アッバース港を拠点とした交易を奨励しました。これにより、ポルトガルが独占していたインド洋の交易ルートに楔を打ち込み、ペルシアが直接ヨーロッパと貿易を行う道を開きました。
このように、アッバース1世の指導のもと、サファヴィー朝時代のイスファハーンは、生糸と絨毯の輸出を柱とし、整備された国内交通網と国際的な交易ネットワークを駆使して、世界的な商業ハブとしての地位を確立しました。その富の集積が、壮麗なモスクや宮殿、庭園を建設する基盤となり、「世界の半分」と称されるほどの繁栄をもたらしたのです。

イスファハーンの芸術と工芸

サファヴィー朝時代のイスファハーンは、政治や経済の中心であっただけでなく、ペルシア芸術が爛熟期を迎えた輝かしい文化の中心地でもありました。シャー・アッバース1世自身が芸術の偉大なパトロンであり、彼の宮廷には国内外から多くの優れた芸術家や職人が集められました。彼らの才能は、建築、絵画、書道、陶芸、金属工芸、織物など、あらゆる分野で開花し、イスファハーンの名を不滅のものにしました。
イスファハーンの芸術を最も象徴するのは、建築を彩る壮麗なタイル装飾です。イマーム・モスクやシェイフ・ロトフォッラー・モスクに見られるように、建物の内外は色鮮やかなタイルで埋め尽くされています。サファヴィー朝時代には、「ハフト・ランギ(七彩タイル)」と呼ばれる新しい技法が主流となりました。これは、一枚の正方形のタイルに複数の色の釉薬を乗せて一度に焼き上げる技法で、それまでのモザイク・タイル(単色のタイルを細かく砕いて漆喰にはめ込む技法)に比べて、はるかに効率的に大面積を装飾することを可能にしました。これにより、流れるような花の文様や複雑なアラベスク、そしてコーランの章句を記した流麗な書体などを、壮大なスケールで表現できるようになったのです。青、ターコイズ、黄、緑、白といった色彩が織りなすハーモニーは、見る者を圧倒し、天上の楽園を地上に現出させたかのようです。
絵画の分野では、ペルシア細密画(ミニアチュール)が黄金時代を迎えました。イスファハーン派と呼ばれる新しい画風が生まれ、それまでの写本挿絵という枠を超えて、一枚の独立した絵画作品が制作されるようになりました。この時代の最も有名な画家が、レザー・アッバースィーです。彼は、伝統的な画題だけでなく、宮廷の若者や恋人たち、あるいは市井の人々の姿を、しなやかで優美な線描と洗練された色彩で描き出しました。彼の作品は、理想化された美の中にも人間的な温かみや官能性を感じさせ、後のペルシア絵画に大きな影響を与えました。アーリー・カープー宮殿の壁画などには、ヨーロッパ絵画の影響を受けた陰影法や遠近法が試みられている例も見られ、当時の文化交流の活発さを物語っています。
書道(カリグラフィー)もまた、イスラーム芸術において極めて重要な位置を占めていました。コーランの言葉を美しく記すことは、神への奉仕とされ、書家は高い尊敬を集めました。モスクのタイル装飾や金属製品、陶器など、あらゆる工芸品に流麗なアラビア文字やペルシア文字がデザインとして取り入れられています。
工芸分野では、ペルシア絨毯がその頂点を極めました。王立工房では、最高級の羊毛や絹、金糸・銀糸を用いて、驚くほど緻密で複雑なデザインの絨毯が織られました。楽園の庭園を模したデザイン、狩猟の場面、メダリオン文様など、そのモチーフは多様で、絵画的な表現力を持っています。これらの絨毯は、単なる床の敷物ではなく、富と権威の象徴であり、重要な外交上の贈り物としても用いられました。
金属工芸では、鋼鉄に金や銀を象嵌するダマスカス技法(象嵌細工)を用いた武具や調度品が作られました。また、陶芸では、当時高価だった中国の青花磁器を模倣したペルシア独自の青花陶器が大量に生産され、広く普及しました。
これらの芸術や工芸は、それぞれが独立して発展しただけでなく、互いに影響を与え合い、総合芸術としてイスファハーンの都市空間を飾り立てました。バザールでは、これらの工芸品を制作する工房が軒を連ね、職人たちの技を間近に見ることができました。イスファハーンの芸術は、王侯貴族のためだけのものではなく、都市の経済を支え、人々の生活を彩るものでもあったのです。サファヴィー朝の栄華が生み出したこれらの芸術遺産は、イスファハーンが「世界の半分」と称される文化的な豊かさを具体的に示しています。

多文化・多宗教の共存

サファヴィー朝時代のイスファハーンは、シーア派イスラームを国教とするペルシア帝国の首都でしたが、同時に多様な宗教や民族が共存する国際都市でもありました。アッバース1世は、帝国の経済的繁栄と安定のためには、非ムスリムのコミュニティが持つ技術や商業ネットワークが不可欠であると理解していました。彼の現実主義的な政策により、イスファハーンは比較的寛容な多文化社会を築き上げることができました。
その最も顕著な例が、アルメニア人コミュニティです。17世紀初頭、アッバース1世はオスマン帝国との戦争の過程で、焦土作戦の一環として、現在のアルメニアとアゼルバイジャンの国境地帯にあたるジュルファ地方に住んでいた数万人のアルメニア人を、強制的にイスファハーンに移住させました。彼らはザーヤンデ川の南岸に新しい町を建設することを許され、故郷の名前にちなんで「ニュー・ジュルファ」と名付けられました。
アッバース1世は、アルメニア人たちに信仰の自由、独自の行政・司法権、そして経済活動における特権を与えました。特に、国家の専売品であった生糸の輸出貿易を彼らに委ねたことは、サファヴィー朝とアルメニア人コミュニティの双方に莫大な利益をもたらしました。アルメニア商人たちは、ヨーロッパからインド、東南アジアに至る広範な国際交易網を駆使し、ペルシアの富を世界に広めると同時に、世界の富をイスファハーンにもたらしました。
ニュー・ジュルファは、アルメニア人自身の資金によって、壮麗な教会や邸宅が立ち並ぶ美しい地区へと発展しました。その中心となったのが、ヴァンク大聖堂です。1606年に小さな教会として建設が始まり、1655年から1664年にかけて大規模に増改築されました。この大聖堂の建築様式は、非常にユニークです。外観はイスラーム建築のドームを持つモスクのような形をしていますが、内部に入ると、壁や天井は旧約聖書や新約聖書の場面を描いた色鮮やかなフレスコ画で埋め尽くされており、キリスト教会の荘厳な空間が広がっています。これは、ペルシア・イスラーム文化とアルメニア・キリスト教文化が見事に融合した象徴的な建築物です。大聖堂の敷地内には、アルメニア人の歴史や文化に関する貴重な資料を収蔵する博物館や図書館も併設されています。
アルメニア人以外にも、イスファハーンにはグルジア人(ジョージア人)やチェルケス人、ユダヤ人のコミュニティが存在しました。グルジア人やチェルケス人は、主に軍人や官僚としてシャーに仕えました。彼らはイスラームに改宗することが多かったですが、その文化的背景はサファヴィー朝の宮廷文化に多様性をもたらしました。
ユダヤ人コミュニティは、イスファハーンに古くから存在していました。彼らは主に商業や金融、特定の工芸(染物や酒造など)に従事していました。彼らの地位は、時の支配者の政策によって変動し、サファヴィー朝後期には厳しい迫害を受けた時期もありましたが、総じてイスファハーンの経済と社会の一部として存続し続けました。
このように、アッバース1世の統治下にあったイスファハーンでは、シーア派イスラームが支配的な宗教である一方、キリスト教アルメニア教会、ユダヤ教などが共存し、それぞれのコミュニティが独自の文化を維持しながら都市の繁栄に貢献していました。ナクシェ・ジャハーン広場に響くイスラームのアザーン(礼拝の呼びかけ)と、ニュー・ジュルファの教会から聞こえる鐘の音は、当時のイスファハーンが持っていたコスモポリタンな性格を象徴しています。この多文化共存の現実は、「世界の半分」という言葉に、単なる富の集積だけでなく、多様な文化が交差する場所という意味合いを与えていました。

サファヴィー朝の衰退とイスファハーンの悲劇

「世界の半分」とまで謳われたイスファハーンの栄華は、永遠には続きませんでした。アッバース1世という偉大な指導者を失った後、サファヴィー朝は徐々に衰退の道を歩み始めます。彼の後継者たちは、しばしば無能であったり、宮廷内の陰謀に明け暮れたりして、国家を統治する能力に欠けていました。軍事力は弱体化し、かつてアッバース1世が築き上げた中央集権的な行政システムも機能不全に陥っていきました。
18世紀初頭、サファヴィー朝の弱体化は誰の目にも明らかとなり、帝国の辺境では反乱が頻発するようになります。そして1722年、イスファハーンの歴史における最大の悲劇が訪れます。東方の属領であったアフガニスタンで、ギルザイ部族のパシュトゥーン人がミール・マフムード・ホータキーの指導のもとに反乱を起こし、サファヴィー朝の軍隊を破りながらイラン高原を西進。ついに首都イスファハーンに迫りました。
当時のシャーであったスルターン・フサインは、決断力に欠ける人物であり、有効な防衛策を講じることができませんでした。サファヴィー軍はグルナーバードの戦いでアフガン軍に惨敗し、イスファハーンは完全に包囲されてしまいます。包囲は約6ヶ月間に及び、都市は外部から完全に遮断されました。食料は尽き、飢餓が蔓延しました。市民は犬や猫、ネズミを食べ、やがて人肉を食らうほどの悲惨な状況に陥ったと記録されています。街路には餓死者の死体が溢れ、疫病が発生しました。
1722年10月、スルターン・フサインはついに降伏を決意しました。自らシャーの王冠をミール・マフムードの頭に載せ、サファヴィー朝の支配は事実上終焉を迎えました。アフガン人による占領は、イスファハーンにとって破壊と虐殺の時代の始まりでした。ミール・マフムードは精神に異常をきたし、サファヴィー朝の王族や貴族、そして多くの市民を虐殺しました。壮麗な宮殿や庭園は略奪され、破壊されました。かつて世界の半分と称された華麗な都市は、わずかな期間で廃墟と化してしまったのです。
その後、ナーディル・シャーが登場し、アフガン勢力をイランから駆逐しますが、彼は首都をマシュハドに移したため、イスファハーンがかつての首都としての輝きを取り戻すことはありませんでした。続くザンド朝ではシーラーズが、ガージャール朝ではテヘランが首都となり、イスファハーンは一地方都市へとその地位を落としていきました。人口は激減し、壮大な建築物の多くは修復されることなく放置され、荒廃が進みました。チャハール・バーグ通り沿いにあった豪華な庭園や邸宅も、その多くが失われました。
この1722年のアフガン人による侵攻と占領は、イスファハーンの歴史における大きな断絶点です。サファヴィー朝時代に築かれた繁栄は完全に破壊され、都市が再び活気を取り戻すまでには、長い年月を要することになります。しかし、イマーム広場や主要なモスク、橋といった不朽の建築物は、この悲劇を乗り越えて奇跡的に生き残り、サファヴィー朝の栄光と、その後の悲劇的な運命を静かに後世に伝えています。イスファハーンの歴史は、栄華の頂点と破壊の奈落という、二つの極端な経験を内包しているのです。

近代以降のイスファハーンの変遷と保存

サファヴィー朝の崩壊後、イスファハーンは長い停滞の時代を経験しました。首都がテヘランに移ったガージャール朝(1789年 - 1925年)の時代、イスファハーンは地方の行政中心地の一つに過ぎず、かつての壮麗な建築物の多くは顧みられず、荒廃が進みました。人口もサファヴィー朝時代の最盛期に比べて大幅に減少し、都市の経済活動もかつての国際的な輝きを失いました。しかし、その一方で、ガージャール朝の王族や富裕な商人によって、いくつかのモスクや邸宅が修復されたり、新たに建設されたりもしました。この時代の建築は、サファヴィー朝の様式を模倣しつつも、ヨーロッパからの新しい影響を取り入れた独特のスタイルを持っています。
20世紀に入り、パフラヴィー朝(1925年 - 1979年)が成立すると、イランは近代化と西欧化の道を歩み始めます。この時代、イスファハーンの歴史的遺産に対する再評価が行われるようになりました。初代皇帝レザー・シャーは、国家の威信を高めるために、イランの偉大な歴史的建造物の修復を命じました。イスファハーンでも、イマーム広場や主要なモスク、宮殿などの大規模な修復プロジェクトが開始されました。これらの修復作業は、必ずしも歴史的な正確さに基づいていたわけではなく、近代的な材料や技術が用いられることもありましたが、荒廃が進んでいた建造物を崩壊から救い、その壮麗な姿を蘇らせる上で重要な役割を果たしました。
また、パフラヴィー朝時代には、イスファハーンは近代的な産業都市としても発展を始めました。繊維産業や製鉄業の工場が建設され、都市の経済構造は大きく変化しました。近代的な道路網が整備され、都市は旧市街の周囲に拡大していきました。この近代化の波は、歴史的な都市景観との間に緊張関係を生むこともありました。新しい建物の建設や道路の拡幅によって、古い街並みや歴史的建造物が破壊される危険性も生じました。
1979年のイラン・イスラーム革命後、イスファハーンの歴史的遺産の保存は新たな局面を迎えます。イスラーム共和国政府は、これらの建造物を、シーア派イスラーム国家としてのサファヴィー朝が残した偉大な遺産として重視しました。シャー・モスクは「イマーム・モスク」に、ナクシェ・ジャハーン広場は「イマーム広場」に改称され、イスラーム革命の理念と結びつけられました。
国際社会もまた、イスファハーンの文化遺産の価値を高く評価しました。1979年、イマーム広場とその周辺の建築群は、ユネスコの世界遺産に登録されました。これは、イランで最初に登録された世界遺産の一つであり、その普遍的な価値が国際的に認められたことを意味します。世界遺産への登録は、保存活動への国際的な関心を高め、より体系的な保存修復計画の策定を促すきっかけとなりました。

イスファハーンの都市構造と水利システム

イスファハーンの都市としての発展と持続可能性は、ザーヤンデ川とその水を巧みに利用した精緻な水利システムに深く依存していました。乾燥したイラン高原において、水は最も貴重な資源であり、都市計画の根幹をなす要素でした。特にサファヴィー朝時代に完成された都市構造は、水をいかに効率的に分配し、都市生活と景観の両方を豊かにするかという点において、卓越した知恵を示しています。
都市の生命線であるザーヤンデ川は、イスファハーンを東西に貫流しています。アッバース1世は、この川を単なる水源としてだけでなく、都市の景観を構成する中心的な軸として位置づけました。川の北側には伝統的な旧市街とイマーム広場を中心とする新しい王都が広がり、南側にはニュー・ジュルファ地区や王族・貴族の広大な庭園が配置されました。そして、この南北の市街地を結ぶために、壮麗な橋が架けられました。
スィー・オ・セ・ポル(33のアーチを持つ橋)やハージュー橋は、その代表例です。これらの橋は、単に川を渡るためのインフラではありませんでした。スィー・オ・セ・ポルは、チャハール・バーグ通りという壮大な並木道を川の南側へと延長する役割を担い、都市の主要な動線を形成しました。橋自体が二層構造になっており、上層は馬や荷車が通行し、下層のアーケードは歩行者のための涼しい通路や社交の場として機能しました。
一方、ハージュー橋はさらに多機能的な設計がなされています。この橋は交通路であると同時に、ダムとしての機能も備えていました。橋の東側には水門が設けられており、これを閉じることで上流の川の水位を上げ、一時的な湖を作り出すことができました。この湖は、周囲の庭園に水を供給するため、また王が舟遊びや観覧を楽しむためのものでした。橋の中央には、シャーが宴を催したり景色を眺めたりするための東屋(パビリオン)も設けられています。橋の階段状の堰(せき)を水が流れ落ちる様は、人工の滝のような景観を生み出し、市民の憩いの場となりました。
ザーヤンデ川から取水された水は、「マディ」と呼ばれる精巧な運河網を通じて、都市の隅々まで分配されました。この運河システムは、サファヴィー朝以前から存在していましたが、アッバース1世の時代に大幅に拡張・整備されました。マディは、まず王宮や政府の建物、そして広大な庭園群を潤しました。チャハール・バーグ通り沿いにあった数々の庭園は、この水によって緑を保ち、噴水や水路が涼やかな景観を作り出していました。これらの庭園は、ペルシア式庭園(パラダイス・ガーデン)の伝統に則っており、水、木陰、花々が組み合わされ、砂漠気候の中のオアシスとして機能しました。
庭園や公共施設を潤した後の水は、さらに細い水路に分かれ、市内の各地区や個人の邸宅、そしてモスクや公衆浴場(ハンマーム)へと供給されました。水利権は厳格に管理されており、その分配を巡る争いを避けるための詳細な規則が存在しました。このシステムは、限られた水資源を最大限に活用し、大都市の需要を賄うための、持続可能な都市インフラの優れた例でした。
このように、イスファハーンの都市構造は、ザーヤンデ川という自然の恵みを巧みに取り込み、それを土木技術と建築美学によって昇華させたものでした。橋は交通と治水を結びつけ、運河は生命と景観を支えました。水は都市の動脈として隅々まで流れ、イスファハーンを単なる建物の集合体ではなく、有機的で生き生きとした空間たらしめていたのです。しかし、この水への深い依存は、現代における水不足問題が都市の歴史的・環境的側面に深刻な打撃を与えるという脆弱性も同時に示しています。

「世界の半分」という言葉の文化的・象徴的意味

「イスファハーンは世界の半分」という言葉は、単にサファヴィー朝時代の経済的な繁栄や物理的な壮大さだけを指すものではありません。この言葉には、より深く、重層的な文化的・象徴的な意味が込められています。それは、イスファハーンが当時の世界において、どのような存在であったか、また人々がこの都市にどのような理想を託していたかを示すものです。
第一に、この言葉は「世界の縮図」としてのイスファハーンを意味します。アッバース1世が建設した壮大な広場は、「ナクシェ・ジャハーン(世界の写し絵)」と名付けられました。この名前自体が、この広場が世界を凝縮した空間であるという思想を明確に示しています。広場の四方に配置されたモスク(宗教)、宮殿(政治)、バザール(経済)は、人間社会を構成する根源的な要素の象徴です。そして、広場に集まる多様な人々—ペルシア人、トルコ人、アルメニア人、インド人、ヨーロッパ人—は、まさに世界の多様な民族の縮図でした。世界中から集められた商品が取引され、様々な言語が飛び交うバザールは、イスファハーンが世界の文化と富の交差点であることを具体的に示していました。この都市を訪れることは、世界そのものを体験することに等しい、という自負がこの言葉には込められています。
第二に、この言葉は「理想郷」としてのイスファハーンを象徴しています。ペルシア文化において、庭園(パラダイス)は天上の楽園を地上に模したものであり、究極の理想郷のイメージと結びついています。サファヴィー朝時代のイスファハーンは、都市全体がさながら一つの巨大な庭園のように設計されていました。ザーヤンデ川の豊かな水、チャハール・バーグ通りのプラタナスの並木、そして点在する数々の壮麗な庭園は、乾燥したイランの風土の中にあって、まさに地上の楽園と呼ぶにふさわしい景観を創り出していました。青いタイルで飾られたモスクのドームは、天の蒼穹を象徴し、人々を精神的な世界へと誘います。このように、イスファハーンは物質的な豊かさだけでなく、精神的な充足感や美的な喜びをもたらす理想的な都市として構想され、その完成された姿が「世界の半分」という賛辞で表現されたのです。
第三に、この言葉は、サファヴィー朝ペルシア帝国の文化的・政治的な中心性(セントラリティ)を宣言するものでした。当時、世界には他にも強大な帝国が存在しました。西にはオスマン帝国、東にはムガル帝国、そして遠くヨーロッパの国々です。そのような世界情勢の中で、「イスファハーンは世界の半分」と主張することは、自らの帝国が他のいかなる国にも劣らない、世界の中心の一つであるという強力な自意識の表明でした。特に、長年のライバルであったオスマン帝国の首都イスタンブール(コンスタンティノープル)への対抗意識も含まれていたと考えられます。イスタンブールが「世界の都」を自認するならば、イスファハーンは少なくともその半分に値する、あるいはそれ以上の価値を持つというプライドが、この言葉の背景にはありました。
このように、「イスファハーンは世界の半分」という言葉は、経済的な繁栄、物理的な壮麗さ、世界の縮図としてのコスモポリタニズム、地上の楽園としての理想郷のイメージ、そして帝国の中心としての文化的プライドといった、複数の意味合いが織り込まれた、非常に豊かな表現です。それは、歴史的な事実を伝えるだけでなく、サファヴィー朝時代の人々が自らの首都に対して抱いていた誇りと愛情、そして理想を凝縮した、詩的な賛辞なのです。この言葉があるからこそ、私たちは単なる遺跡としてではなく、かつてそこに生きた人々の息吹や夢とともに、イスファハーンの歴史を想像することができるのです。
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・「イスファハーンは世界の半分」とは わかりやすい世界史用語2356

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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