平家物語
清水寺炎上
山門の大衆、狼藉(ろうぜき)をいたさば、手向かへすべきところに、心深うねらふ方もやありけん、一言葉も出ださず。御門(みかど)隠れさせ給ひては、心なき草木までも、愁(うれ)へたる色にてこそあるべきに、この騒動のあさましさに、高きも賤(いや)しきも、肝魂(きもたましい)を失って、四方へ皆退散す。同じき廿九日の午(うま)の刻ばかり、山門の大衆おびただしう下洛すと聞えしかば、武士、検非違使(けびいし)、西坂本に馳せむかって防ぎけれども、事ともせず、押し破つて乱入す。何者の申し出だしたりけるやらむ、
「一院、山門の大衆(だいしゅ)に仰せて、平家を追討せらるべし」
と聞えしほどに、軍兵内裏に参じて、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳せ集まる。一院も急ぎ六波羅へ御幸(ごこう)なる。清盛公その頃いまだ大納言にておはしけるが、大きに恐れさはがれけり。小松殿、
「何によつてか、只今さる事あるべき」
としづめられけれども、上下ののしりさはぐことおびただし。山門の大衆六波羅へはよせずして、すぞろなる清水寺(せいすいじ)におしよせて、仏閣僧坊一宇も残さず焼きはらふ。これはさんぬる御葬送の夜の、会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし。清水寺は興福寺の末寺なるによってなり。清水寺焼けたりける朝、
「や、観音火坑変成池はいかに」
と札に書いて大門の前に立てたりければ、次の日また、
「歴劫不思議力及ばず」
とかへしの札をぞ打ったりける。
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