フランス第二帝政・第三共和政で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
第二帝政のはじまり
・ナポレオン1世の弟、ルイ=ボナパルトの息子
ルイ=ナポレオンは、皇位継承権をもつボナパルト一族の一員として1808年に誕生した。ナポレオン失脚後、ブルボン家による
復古王政、ルイ=フィリップによる
七月王政の時代には、亡命生活を強いられた。
・1848年の革命により、第二共和政がはじまると、急遽帰国し、ナポレオン1世の甥として
大統領選に出馬し、当選した。
・ルイ=ナポレオンは、1851年クーデターを起こし、武力で議会を解散し、王党派を退け、大統領の任期を10年に延長し、独裁体制を築いた。
1852年には国民投票を行い、圧倒的多数を獲得し、自ら皇帝につき
ナポレオン3世となり、
第二帝政がはじまった。
・第二帝政は、当初強権的な
権威帝政であったが、労働者・資本家・農民の勢力均衡を考慮する必要があった。
自由主義運動の高揚により、1860年以降議会の質問権、労働者の団結権、出版や集会の自由の一部を認め、後半の時期は
自由帝政となった。
・また、国内では1855年の
パリ万博開催や、行政官
オスマンに
パリ大改造を命じるなど、フランスの国威を高めることに成功した。
・他方国外では対外戦争を積極的に行った。
1853年に
クリミア戦争、
1856年に
アロー戦争、
1858年に
仏越戦争、
1859年に
イタリア統一戦争、
1861年に
メキシコ遠征などが第二帝政期の代表的な戦争である。
・
1870年からは、プロイセンの
ビスマルクが起こした
エムス電報事件をきっかけに、
普仏戦争に突入した。軍事大国となっていたプロイセン軍は強力で、
セダンの戦いで敗れたナポレオン3世は捕虜となり、廃位させられ、第二帝政は崩壊した。
第三共和政のはじまり
・第二帝政崩壊後も普仏戦争は継続し、
トロシュを指導者とした
国民防衛政府が発足し、
第三共和政が成立した。第三共和政成立後もプロイセンの進撃は続き、ついにパリが包囲された。内相ガンベッタはパリを脱出し、地方からプロイセンに抵抗したが、その後ブルジョワ共和派の
ティエールが穏健派の意見をまとめ1871年1月にヴェルサイユにおいて仮の講和条約を結んだ。
・この講和にパリ市民は反発し、史上初の労働者・市民主体の自治政府であるコミューンを結成した。
パリ=コミューンは自治を宣言後、ティエールら臨時政府の徹底的な弾圧により5月に崩壊した。
・こうしてティエールが9月に大統領に就任し、1875年に
第三共和国憲法が制定され、第三共和政が確立した。