平家物語
祇王
「かやうに様をかへりて参りたれば、日頃の科(とが)をばゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共(もろとも)に念仏して、ひとつ蓮(はちす)の身とならん。それになを心ゆかずは、これよりいづちへも迷ひゆき、いかならん苔のむしろ、松がねにも倒れふし、命のあらん限り念仏して、往生の素懐をとげんと思ふなり」
と、さめざめとかきくどきければ、祇王なみだをおさへて、
「誠(まこと)にわごぜのこれほどに思ひ給ひけるとは、夢にだに知らず。憂き世の中のさがなれば、身の憂きとこそ思ふべきに、ともすればわごぜの事のみうらめしくて、往生の素懐をとげん事かなふべしともおぼえず。今生も後生もなまじゐにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様をかへておはしたれば、日頃の科(とが)は露塵(つゆちり)ほども残らず。今は往生疑ひなし。この度、素懐をとげんこそ、何よりもまたうれしけれ。我らが尼になりしをこそ、世にためしなき事のやうに人も言ひ、我が身にもまた思ひしか、様をかふることはりなり。今わごぜの出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。わごぜはうらみもなし、なげきもなし。今年はわづかに十七にこそなる人の、かやうに穢土(ゑど)をいとひ、浄土を願はんと、深く思ひいれ給ふこそ、まことの大道心とはおぼえたれ。うれしかりける善知識かな。いざもろともに願はん」
とて、四人一所にこもりゐて、朝冬仏前に花香を供へ、余念なく願ひければ、遅速こそありけれ、四人の尼ども、皆往生の素懐をとげけるとぞ聞こえし。されば、後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、
「祇王、祇女、仏、とぢらが尊霊」
と、四人一所にいれられけり。あはれなりし事どもなり。