平家物語
祇園精舎
しかるを忠盛備前守(ただもりびぜんのかみ)たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据え奉る。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞(けんじょう)には關国(けんこく)を給ふべき由(よし)仰下されける。境節(をりふれ)但馬国(たじまのくに)のあきたりけるを給ひにけり。上皇御感の余りに、内の昇殿をゆるさる。忠盛三十六にて、始めて昇殿す。
雲の上人これをそねみ、同じ年の12月廿三日、五節豐明(ごせつとよのあかり)の節会(せちえ)の夜、忠盛を闇討ちせんとぞ擬せられける。忠盛、是を伝え聞いて、
「われ右筆の身にあらず。武勇の家に生まれて、今不慮の恥にあわん事、家の為身の為、心憂かるべし。せむずるところ、身を全うして君に仕ふという本文あり」
とて、かねて用意をいたす。参内のはじめより、大きなる鞘卷(さやまき)を用意して、束帯(そくたい)の下にしどけなげにさし、火のほの暗き方に向かつて、やはら此の刀を抜き出し、鬢(びん)にひきあてられけるが、氷なんどの様にぞ見えける。諸人目をすましけり。
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