蜻蛉日記
あつければしばし戸おしあけて見わたせば
あつければ、しばし戸おしあけて見わたせば、堂いと高くてたてり。山めぐりて、ふところのやうなるに、こだちいとしげくおもしろけれど、やみのほどなれば、ただ今暗がりてぞある。初夜おこなふとて法師ばらそそけば、戸おしあけて念数するほどに、時は山寺わざの螺(かひ)四つふくほどになりにたり。
大門の方に、
「おはしますおはします」
といひつつののしるおとすれば、あげたる簾(す)どもうちおろして見やれば、木間(こま)より火二ともし三ともし見えたり。をさなき人けいめいして出でたれば、車ながらたちてある。
「御むかへになんまゐり来(き)つるを、今日までこの穢(けが)らひあればえおりぬを、いづくにか車はよすべき」
といふに、いと物ぐるほしき心ちす。返りごとに
「いかやうにおぼしてか、かくあやしき御ありきはありつらん。こよひばかりと思ふことはべりてなんのぼりはべりつれば、不浄のこともおはしますなれば、いとわりなかるべきことになん。夜ふけはべりぬらん、とく帰らせ給へ」
と言ふをはじめて、ゆきかへることたびたびになりぬ。一丁のほどを、石階おりのぼりなどすれば、ありく人こうじていとくるしうするまでなりぬ。これかれなどは
「あな、いとほし」
など、よはきかたざまにのみいふ。このありく人、
「「すべて、きむぢ、いとくちをし。かばかりのことをば言ひなさぬは」
などぞ、御けしきあし」
とて泣きにも泣く。されど
「などてか、さらに物すべき」
と言ひはてつれば、
「「よしよし、かく穢(けが)らひたればとまるべきにもあらず、いかがはせん、車かけよ」とあり」
と聞けば、いと心やすし。
ありきつる人は、
「御おくりせん、御車のしりにてまからん、さらにまたはまうでこじ」
とてなくなくいづれば、これをたのもし人にてあるに、いみじうもいふかなと思へども、ものいはであれば、人などみないでぬとみえて、この人はかへりて、
「御おくりせんとしつれど、「きんぢはよばんときにを来」とておはしましぬ」
とて、ししと泣く。いとほしう思へど
「あな痴れ、そこをさへかくてやむやうもあらじ」
など言ひなぐさむ。ときは八になりぬ。道はいとはるかなり。
「御ともの人はとりあへけるにしたがひて、京のうちの御ありきよりもいとすくなかりつる」
と、人々いとほしがりなどするほどに、夜はあけぬ。