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枕草子 原文全集「殿などのおはしまさでのち」

著者名: 古典愛好家
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殿などのおはしまさでのち

殿などのおはしまさでのち、世の中に事出でき、さわがしうなりて、宮も参らせ給はず、小二条殿といふ所におはしますに、なにともなく、うたてありしかば、ひさしう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほえたえてあるまじかりける。


右中将おはして、物語し給ふ。

「今日宮に参りたりつれば、いみじうものこそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣をりにあひ、たゆまでさぶらふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうてゐなみたりつるかな。御前の草のいとしげきを、『などか、かきはらはせでこそ』といひつれば、『ことさら露をかせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にていらへつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居いと心憂し。かかる所にすませ給はむほどは、いみじきことありとも、かならずさぶらふべきものにおぼしめされたるに、かひなく』と、あまたいひつる、語り聞かせたてまつれとなめりかし。参りて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。対の前にうへられたりける牡丹などの、をかしきこと。」


などのたまふ。

「いさ、人のにくしと思ひたりしが、また、にくくおぼえ侍りしかば」


といらへきこゆ。

「おいらかにも」


とて笑ひ給ふ。
 

げにいかならむと思ひ参らする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちなどの、

「左の大殿方(おほとのがた)の人、知るすぢにてあり」


とて、さしつどひものなどいふも、下より参る見ては、ふといひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはずにくければ、

「参れ」


など、たびたびある仰せごとをも過ぐして、げにひさしくなりにけるを、また、宮の辺には、ただあなたがにいひなして、そらごとなども出でくべし。

例ならず仰せごとなどもなくて日比(ひごろ)になれば、心ぼそくてうちながむるほどに、長女(おさめ)、文を持てきたり。

「御前より、宰相の君して、しのびて給はせたりつる」


といひて、ここにてさへひきしのぶるもあまりなり。人づての仰せ書きにはあらぬなめりと、胸つぶれてとくあけたれば、紙にはものもかかせ給はず。山吹の花びら、ただ一重をつつませ給へり。それに、

いはで思ふぞ

と書かせ給へる、いみじう、日比の絶え間なげかれつる、みななぐさめてうれしきに、長女もうちまもりて、

「御前には、いかが、もののをりごとに、おぼしいできこえさせ給ふなるものを。誰もあやしき御長居、とこそ侍るめれ。などかは参らせ給はぬ」


といひて、

「ここなる所に、あからさまにまかりて、参らむ」


といひていぬる後、御返事(かへりごと)かきて参らせむとするに、この歌の本、さらにわすれたり。

「いとあやし。おなじふることといひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、いひ出でられぬは、いかにぞや」


などいふを聞きて、前にゐたるが、

「『下ゆく水』とこそ申せ」


といひたる、などかくわすれつるならむ。これに教へらるるもをかし。

御返し参らせて、すこしほど経て参りたる、いかがと例よりはつつましくて、御木帳に、はたかくれてさぶらふを、

「あれは今参りか」


など笑はせ給ひて、

「にくき歌なれど、このをりはいひつべかりけり、となむ思ふを、おほかた見つけでは、しばしもえこそなぐさむまじけれ」


などのたまはせて、かはりたる御けしきもなし。

童に教へられしことなどを啓すれば、いみじうわらはせ給ひて、

「さることぞある。あまりあなづるふるごとなどは、さもありぬべし」


など仰せらるるついでに、


「なぞなぞあはせしける、方人にはあらで、さやうのことに、りやうりやうじかりけるが、『左の一はおのれいはむ。さ思ひ給へ』など頼むるに、さりともわろきことはいひいでじかしと、たのもしくうれしうて、みな人々作りいだし、選(え)りさだむるに、『その詞を、ただまかせて残し給へ。さ申しては、よもくちをしくはあらじ』といふ。げにとおしはかるに、日いと近くなりぬ。『なほこのことのたまへ。非常に、おなじこともこそあれ』といふを、『さは、いさ知らず。な頼まれそ』などむつかりければ、おぼつかなながら、その日になりて、みな、方の人、男女ゐわかれて、見証の人など、いとおほくゐなみてあはするに、左の一、いみじく用意してもてなしたるさま、いかなることをいひ出でむと見えたれば、こなたの人、あなたの人、みな心もとなくうちまもりて、『なぞ、なぞ』といふほど、心にくし。『天に張り弓』といひたり。右方の人は、いと興ありてと思ふに、こなたの人はものもおぼえず、みな、にくく愛敬なくて、あなたによりて、ことさらに負けさせむとしけるを、など、片時のほどに思ふに、右の人、『いとくちをしく、をこなり』とうちわらひて、『やや、さらにえ知らず』とて、口をひき垂れて、『知らぬことよ』とて、さるがうしかくるに、かずささせつ。『いとあやしきこと。これ知らぬ人は誰かあらむ。さらにかずささるまじ』と論ずれど、『知らずといひてむには、などてか負くるにならざらむ』とて、次々のも、この人なむみな論じ勝たせける。いみじく人の知りたることなれども、おぼえぬ時はしかこそはあれ、なにしにかは、『知らず』とはいひし。後にうらみられけること」


など、語り出でさせ給へば、御前なるかぎり、

「さ思ひつべし」「くちをしういらへけむ」「こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」


なんど笑ふ。これはわすれたることかは、ただみな知りたることとかや。



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・枕草子 原文全集「殿などのおはしまさでのち」

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渡辺実 1991年「新日本古典文学大系 枕草子・方丈記」岩波書店
松尾聰,永井和子 1989年「完訳 日本の古典 枕草子」小学館
萩谷朴 1977年「新潮日本古典集成 枕草子 上」 新潮社

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