乾隆帝とは
清王朝の第六代皇帝である乾隆帝は、十八世紀の世界史において最も影響力のある人物の一人としてその名を刻んでいます。彼の治世は1735年から1796年まで続き、中国史上でも有数の長期政権となりました。この時代、清帝国は空前の繁栄を謳歌し、その版図は最大に達しました。乾隆帝は、祖父である康熙帝、父である雍正帝が築いた安定と繁栄の基盤を引き継ぎ、それをさらに発展させました。彼の治世は「康乾の盛世」の頂点と見なされ、経済的な豊かさ、文化的な隆盛、そして軍事的な成功によって特徴づけられます。
乾隆帝は単なる統治者ではありませんでした。彼は熱心な芸術の庇護者であり、自身も詩人、書家、画家として非凡な才能を示しました。彼の宮廷は、中国全土から最高峰の学者、芸術家、職人を引き寄せ、壮大な文化プロジェクトが次々と推し進められました。その中でも特に有名なのが、中国の古典籍を網羅的に編纂した『四庫全書』です。この事業は、文化の保存と体系化という点で画期的な成果を上げた一方で、清朝の思想統制を強化する側面も持っていました。
軍事面においても、乾隆帝は積極的な拡大政策を推進しました。彼の指揮下で行われた「十全武功」と称される一連の遠征は、ジュンガル部、回部(現在の新疆ウイグル自治区)、チベット、台湾、ビルマ、ベトナムなど、広範な地域に及びました。これらの軍事行動により、清帝国の支配領域は現代中国の国境線をほぼ画定するに至り、多民族国家としての帝国の性格を決定づけたのです。しかし、これらの遠征は莫大な国費を消耗し、後の財政難の一因ともなりました。
一方で、乾隆帝の治世後期には、いくつかの深刻な問題が顕在化し始めます。寵臣である和珅の台頭とそれに伴う汚職の蔓延は、行政の効率性を著しく低下させ、民衆の不満を増大させました。また、人口の急激な増加は土地不足と食糧問題を深刻化させ、社会不安を引き起こしました。さらに、治世の終わりにかけて、ヨーロッパ諸国との接触が増加し、貿易関係を巡る緊張が高まりました。特に、1793年のマカートニー使節団の派遣は、伝統的な中華思想に基づく朝貢システムと、近代的な国際関係を求める西洋との間の埋めがたい溝を浮き彫りにしました。
乾隆帝の死後、清帝国は内憂外患の時代へと突入していきます。彼の治世が残した輝かしい遺産と、その影に潜んでいた問題点は、その後の中国史の展開に大きな影響を与え続けました。したがって、乾隆帝の生涯と彼の時代を深く理解することは、近現代中国の成り立ちを考察する上で不可欠です。
皇子としての幼少期と教育
乾隆帝、後の高宗純皇帝は、1711年9月25日、北京の紫禁城内にある雍親王府(後の雍和宮)で誕生しました。彼の幼名は弘暦といい、父は後の雍正帝となる胤禛、母は満洲ニオフル氏の出身である熹妃でした。弘暦の誕生は、祖父である康熙帝にとって大きな喜びとなりました。康熙帝は、中国史上最も偉大な皇帝の一人とされ、その治世は61年にも及びました。彼は数多くの皇子皇孫に恵まれましたが、その中でも特に弘暦の才能と品格に早くから注目していたと伝えられています。
伝説によれば、康熙帝は初めて弘暦に会った際、その非凡な顔立ちと落ち着いた物腰に感銘を受け、自らの手元で養育することを決めたといいます。弘暦は紫禁城に迎え入れられ、祖父である皇帝から直接、帝王学の薫陶を受けました。この経験は、弘暦の人格形成と後の治世に計り知れない影響を与えました。康熙帝は、孫に対して満洲人としてのアイデンティティを強く意識させると同時に、儒教の経典や中国の歴史、文学についても徹底的な教育を施しました。弘暦は、満洲語、モンゴル語、そして中国語(北京官話)を流暢に操る能力を身につけ、乗馬や弓術といった満洲の伝統的な武芸にも優れた才能を示しました。
康熙帝の宮廷は、当代随一の学者たちが集う知の殿堂であり、弘暦はそのような環境の中で知的好奇心を育んでいきました。彼は幼い頃から驚異的な記憶力を持ち、一度読んだ書物の内容を正確に暗唱することができたといいます。また、詩作や書画にも早くから才能の片鱗を見せ、祖父を喜ばせました。康熙帝は、この聡明な孫が将来、清帝国を担うにふさわしい器であると確信し、自らの後継者である胤禛(雍正帝)に対し、その次の皇帝として弘暦を指名することを示唆したとされています。
1722年、康熙帝が崩御し、父である胤禛が雍正帝として即位すると、弘暦の立場はさらに重要なものとなりました。雍正帝は、康熙帝の晩年に深刻化した皇位継承争いの苦い経験から、後継者の指名方法を改めました。彼は、後継者の名を記した勅書を二通作成し、一通は乾清宮の玉座の上に掲げられた「正大光明」の扁額の裏に、もう一通は自らの手元に保管するという「密建皇儲」の制度を創設したのです。これにより、皇子間の無用な競争や派閥争いを未然に防ごうとしました。雍正帝は即位直後から、弘暦を事実上の皇太子として扱い、政治のあらゆる側面に関与させました。
宝親王に封じられた弘暦は、父である雍正帝の下で、実践的な統治の訓練を積みました。雍正帝は勤勉で厳格な皇帝として知られ、中央集権化を推し進め、官僚機構の規律を正し、財政改革を断行しました。弘暦は、父の政務を間近で観察し、時には重要な政策決定の議論にも参加しました。彼は、軍機処の運営、地方行政の監督、さらには少数民族問題の処理など、多岐にわたる任務をこなし、統治者としての能力を着実に高めていきました。
この時期、弘暦は父からだけでなく、当代一流の漢人学者からも教育を受け続けました。彼の師傅には、張廷玉や朱軾といった名臣が名を連ねています。彼らは弘暦に対し、儒教の理想とする君主像を説き、経世済民の道を教えました。弘暦は、満洲の武勇と漢人の文徳を兼ね備えた理想的な君主となることを目指し、日夜学問と政務に励みました。彼の青年期は、将来の偉大な治世を準備するための、長く、しかし実り多い修練の期間であったと言えるでしょう。父・雍正帝の厳格な指導と、祖父・康熙帝から受け継いだ帝王としての自覚が、弘暦という一人の青年を、十八世紀の中国を率いるにふさわしい指導者へと鍛え上げていったのです。
治世の始まりと初期の政策
1735年10月、雍正帝が突然崩御しました。彼の死後、密建皇儲の制度に従い、乾清宮の「正大光明」の扁額の裏に隠されていた勅書が開かれ、そこに記されていた宝親王弘暦が、満場一致で新たな皇帝として擁立されました。24歳という若さで、当時世界で最も広大で人口の多い帝国の頂点に立ったのです。彼は元号を「乾隆」と定め、ここに60年以上にわたる輝かしい治世が幕を開けました。
乾隆帝の即位は、非常に円滑に行われました。これは、父である雍正帝が確立した皇位継承制度の有効性と、弘暦自身が皇太子としての地位を事実上確立していたことの証左です。即位後、乾隆帝が最初に取り組んだのは、父の治世下で厳格化された政策の一部を緩和し、人心を掌握することでした。雍正帝は、汚職の撲滅と中央集権の強化のために、しばしば過酷ともいえる手段を用いました。その結果、官僚や皇族の中には不満を抱く者も少なくありませんでした。乾隆帝は、父の政治手法の有効性を認めつつも、より寛容で仁愛に満ちた統治スタイルを志向しました。
彼はまず、雍正帝の時代に政治闘争に敗れて投獄されていた叔父たち、すなわち康熙帝の皇子たちを赦免し、その名誉を回復しました。この措置は、皇族内部の結束を固め、新皇帝の寛大さを示すための象徴的な行動でした。さらに、雍正帝が導入した密告制度を緩和し、官僚たちに対する過度な圧力を取り除きました。これにより、宮廷内の雰囲気は和らぎ、多くの官僚が安堵したと伝えられています。
しかし、乾隆帝は単なる政策の緩和に終始したわけではありません。彼は父が築いた強力な中央集権体制と、効率的な行政機構を巧みに引き継ぎ、自らの政治基盤を固めていきました。彼は、雍正帝が創設した軍機処を最高意思決定機関として重用し、国家の重要政策を迅速に決定・実行する体制を維持しました。また、財政面では、雍正帝の改革によって健全化された国庫を基盤に、さらなる経済発展を目指しました。治世の初期には、民衆の負担を軽減するために、しばしば税の減免措置(蠲免)を実施しました。これは、儒教の理想とする仁政を具体化したものであり、皇帝の権威を高め、社会の安定に寄与しました。
乾隆帝は、祖父・康熙帝と父・雍正帝という二人の偉大な先代皇帝を常に意識していました。彼は、康熙帝の寛容さと文化的洗練、そして雍正帝の勤勉さと行政手腕を統合し、それを超えることを自らの目標としました。彼は、満洲人の皇帝として、漢人の伝統文化を深く理解し、尊重する姿勢を示すことが、広大な多民族国家を統治する上で不可欠であると考えていました。そのため、彼は即位後すぐに、高名な漢人学者を宮廷に招き、儒教の経典に関する講義(経筵)を定期的に開かせました。
初期の政策において、乾隆帝は二人の重臣、すなわち満洲人のオルタイと漢人の張廷玉に大きく依存しました。この二人は、雍正帝の時代から朝廷の中枢で活躍してきた経験豊富な政治家であり、新皇帝の政権安定に大きく貢献しました。満洲人と漢人の両派閥の領袖を均衡を保ちながら用いることで、乾隆帝は巧みに官僚機構を掌握しました。この「満漢併用」の原則は、清朝の統治における基本的な方針であり、乾隆帝はそれを効果的に実践したのです。
このように、乾隆帝の治世の始まりは、前代からの遺産を慎重に継承しつつ、自らの理想とする統治スタイルを確立していく過程でした。彼は、厳格さと寛容さ、満洲の伝統と漢人の文化、中央集権と民衆への配慮といった、一見相反する要素を巧みに融合させ、帝国の新たな黄金時代の礎を築き上げたのです。その若き皇帝の胸には、祖父や父をも凌ぐ偉大な治世を実現するという、壮大な野心が燃え盛っていました。
十全武功:帝国の拡大
乾隆帝の治世は、文化的な隆盛だけでなく、大規模な軍事遠征による版図の拡大によっても特徴づけられます。乾隆帝自身が後に誇らしげに「十全武功」と名付けた一連の軍事作戦は、清帝国の支配領域を歴史上最大のものへと押し広げ、現代中国の国境線の基礎を形成しました。これらの遠征は、皇帝の武威を内外に示し、多民族帝国としての清の性格を決定づける上で極めて重要な役割を果たしました。
「十全武功」に含まれる戦役は、主に二度のジュンガル部平定、回部(東トルキスタン)の征服、二度の金川(チベット東部)遠征、台湾の林爽文の乱の鎮圧、ビルマ(コンバウン朝)との戦い、ベトナム(西山朝)への介入、そして二度のネパール(グルカ)侵攻への対応です。これらの軍事行動は、帝国の辺境地帯における安全保障上の脅威を取り除き、清の宗主権を確立することを目的としていました。
中でも最も重要かつ大規模だったのが、モンゴル系遊牧民であるジュンガル部との長年にわたる戦いです。ジュンガル部は、17世紀後半から中央アジアの広大な地域を支配し、康熙帝の時代から清にとって最大の脅威であり続けました。雍正帝の時代にも大規模な戦闘がありましたが、決定的な勝利には至っていませんでした。乾隆帝は即位後、この長年の懸案に終止符を打つことを決意します。1755年、ジュンガル内部の内紛を好機と捉えた乾隆帝は、大規模な遠征軍を派遣しました。この第一次遠征は驚くほど迅速に成功し、清軍はイリ地方を占領しました。
しかし、ジュンガル部の抵抗は根強く、すぐに反乱が再燃しました。これに対し、乾隆帝は断固たる態度で臨み、1757年から再び大軍を送り込みました。この第二次遠征は、ジュンガル部に対する徹底的な殲滅戦の様相を呈しました。清軍は反乱の指導者を追い詰め、ジュンガル部族そのものを事実上解体しました。この過酷な作戦の結果、ジュンガル部の人口は激減し、中央アジアにおける一大勢力としての歴史に幕を閉じました。この勝利により、清帝国はモンゴル高原全域と、現在の新疆ウイグル自治区の北部を完全にその支配下に置くことになりました。
ジュンガル部の平定に続いて、乾隆帝は南方のタリム盆地、すなわち「回部」と呼ばれるムスリムの居住地域へと目を向けました。この地域は、ジュンガル部の支配下にあったオアシス都市国家群で構成されていました。ジュンガルの支配が崩壊すると、ホージャ家の兄弟が独立を目指して蜂起しました。1758年から1759年にかけて、乾隆帝は再び軍を派遣し、カシュガルやヤルカンドといった主要都市を次々と攻略しました。ホージャ兄弟は西方のバダフシャーンへと逃亡しましたが、最終的には殺害され、その首は北京に送られました。この征服により、タリム盆地全域が清の版図に組み込まれ、この広大な新領土は「新疆」(新しい辺境)と名付けられました。
チベット東部の金川地方で起きた二度の反乱(1747-1749年、1771-1776年)の鎮圧も、十全武功の重要な一部です。この地域は険しい山岳地帯であり、現地のチベット系部族は非常に頑強に抵抗しました。特に第二次金川戦争は、清にとって多大な犠牲と戦費を強いる困難な戦いとなりました。5年にも及ぶ戦闘の末、清軍はようやく反乱を鎮圧することに成功しました。この勝利は、チベットに対する清の影響力をさらに強化する結果をもたらしました。
南方では、ビルマのコンバウン朝との間で、国境地帯の支配権を巡る長期にわたる戦争(1765-1769年)が勃発しました。乾隆帝は当初、この戦いを容易に考えていましたが、ビルマ軍のゲリラ戦術と熱帯の厳しい自然環境に苦しめられ、派遣した遠征軍は度重なる敗北を喫しました。最終的には、両国ともに疲弊し、事実上の停戦という形で戦闘は終結しましたが、清にとっては明確な勝利とは言えない結果に終わりました。同様に、ベトナムの西山朝の内乱に介入した遠征(1788-1789年)も、当初の成功にもかかわらず、最終的には西山朝の指導者グエン・フエの前に大敗を喫しました。
これらの軍事遠征は、清帝国の威信を大いに高め、その版図を空前の規模にまで拡大させました。乾隆帝は、自らを普遍的な君主、すなわち満洲人、モンゴル人、チベット人、そして漢人を含む全ての民の支配者(「転輪聖王」)として位置づけ、その正当性をこれらの軍事的成功によって証明しようとしました。しかし、その栄光の裏で、十全武功は莫大な人的・経済的コストを伴いました。特に、金川やビルマでの戦いは国庫に大きな負担をかけ、治世後期の財政悪化の遠因となったのです。乾隆帝が誇った「十全」の武功は、帝国の栄光の頂点であると同時に、その後の衰退の兆しを内包するものでもありました。
文化の庇護者としての側面
乾隆帝は、軍事的な征服者であると同時に、中国史上でも類を見ないほどの情熱を持った文化の庇護者でした。彼の治世は、芸術と学問のあらゆる分野において、壮大なスケールのプロジェクトが推進された時代として記憶されています。乾隆帝自身の深い学識と美的センスが、この時代の文化的な方向性を大きく規定しました。彼は、自らを単なる政治的支配者ではなく、中華文明の正統な継承者であり、その保存と発展に責任を負う文化的な権威者であると見なしていました。
彼の文化事業の中で最も象徴的かつ巨大なものが、『四庫全書』の編纂です。このプロジェクトは1772年に開始され、10年以上の歳月をかけて完成しました。その目的は、中国の歴史上存在する全ての重要な書物を収集し、経・史・子・集の四部に分類して網羅的な一大叢書を作り上げることでした。全国から2万点以上の書籍が集められ、その中から約3,500点の文献が選ばれて全書に収録されました。完成した『四庫全書』は、約8億字にも及ぶ膨大なもので、熟練した書家たちによって手書きで7部が作成され、北京の紫禁城、円明園、そして揚州などの主要な文教都市に設けられた文淵閣、文溯閣といった専用の書庫に収められました。
この事業は、散逸しつつあった貴重な古典籍を保存し、学術研究のための基礎的なテキストを確立するという点で、計り知れない文化的価値を持っていました。しかし、その一方で、『四庫全書』の編纂過程は、大規模な思想統制の機会としても利用されました。書籍の収集と同時に、清朝の支配や満洲人に対して批判的、あるいは不敬と見なされた文献を徹底的に調査する「禁書」の政策が推し進められたのです。数千点に及ぶ書物が焚書の対象となり、多くの学者や文人が弾圧されました。この「文字の獄」と呼ばれる思想弾圧は、乾隆帝の治世における負の側面であり、自由な学術的探求を萎縮させる結果をもたらしました。
乾隆帝はまた、熱心な美術品の収集家でもありました。彼の宮廷コレクションは、歴代王朝から受け継がれた名品に加え、彼自身が積極的に収集した書画、陶磁器、玉器、青銅器などで構成され、その質と量は史上空前の規模に達しました。彼は、収集した全ての作品に自ら目を通し、鑑定を行い、しばしば自身の印章を押したり、詩や感想を書き加えたりしました。特に、王羲之の『快雪時晴帖』をはじめとする名跡を集めた『三希堂法帖』は、彼の書道への深い愛情を物語っています。彼のコレクションは、現在の北京故宮博物院と台北故宮博物院の所蔵品の中核をなしており、その文化的遺産は今日まで受け継がれています。
彼の芸術への情熱は、収集だけにとどまりませんでした。宮廷内には、琺瑯、玉彫、漆器、ガラスなど、様々な工芸品の工房が設けられ、ヨーロッパから招かれたイエズス会士の技術指導も取り入れながら、最高級の美術工芸品が生産されました。この時代に作られた陶磁器、特に精緻な絵付けが施された粉彩や琺瑯彩の磁器は、「乾隆粉彩」として知られ、中国陶磁史の頂点と評価されています。これらの作品は、中国の伝統的な美意識と西洋の写実的な技法が融合した、独特の華麗なスタイルを特徴としています。
建築の分野においても、乾隆帝は壮大な遺産を残しました。彼は、北京郊外の離宮である円明園を大幅に拡張し、中国各地の名勝を模した庭園や建物を次々と造営しました。さらに、イエズス会士のジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)らの設計による、バロック様式の噴水や宮殿からなる西洋楼を建設させました。この東西の建築様式が融合した壮麗な離宮は、乾隆帝の国際的な視野と、世界の中心としての帝国を自負する彼の意識を象P徴するものでした。また、彼はチベット仏教の熱心な信者でもあり、北京の雍和宮をチベット仏教寺院に改築したり、承徳の避暑山荘にポタラ宮を模した普陀宗乗之廟を建立したりするなど、宗教建築にも多大な投資を行いました。
自身も多作な詩人であり、生涯に4万首以上の詩を残したとされる乾隆帝は、まさに「文化皇帝」と呼ぶにふさわしい存在でした。彼の庇護の下で、清代の文化は爛熟の極みに達しました。しかし、その壮大な文化事業は、莫大な国費を投じて維持されており、また、その背後には厳格な思想統制が存在していたことも忘れてはなりません。乾隆帝の文化政策は、中華文明の集大成を目指す輝かしい試みであると同時に、絶対君主による文化の独占と管理という、権威主義的な性格を色濃く帯びていたのです。
治世後半の課題と衰退の兆し
乾隆帝の治世は、その前半において輝かしい成功を収めましたが、60年という長い統治の後半期に入ると、帝国の繁栄の陰で深刻な問題が徐々に表面化し始めました。これらの問題は、乾隆帝自身の高齢化と判断力の変化、そして長期間にわたる権力の集中がもたらした弊害と深く関わっています。かつては盤石に見えた清帝国の基盤は、治世の終わり頃には静かに、しかし確実に蝕まれていました。
最も深刻な問題の一つが、寵臣である和珅の台頭と、それに伴う汚職の蔓延でした。和珅は満洲正紅旗出身の若い衛兵でしたが、乾隆帝の目に留まり、異例の速さで昇進を重ねました。彼は皇帝の絶大な信頼を背景に、軍機大臣、戸部尚書、内務府総管大臣など、国家の要職を次々と兼任し、国政の実権を掌握するに至りました。和珅は明晰な頭脳と実務能力に長けていましたが、その権力を利用して私腹を肥やし、巨大な不正蓄財ネットワークを築き上げました。
乾隆帝は、和珅の才能と忠誠心を高く評価し、彼に対する批判に耳を貸そうとしませんでした。高齢になった皇帝にとって、複雑な国務を代行してくれる和珅は不可欠な存在となっていたのです。その結果、和珅とその一派は、官職の売買、公金の横領、商人からの収賄など、あらゆる手段で富を蓄えました。彼の汚職は、地方行政にまで深刻な影響を及ぼし、官僚機構全体の腐敗を招きました。正直な役人が左遷され、賄賂を贈る者が出世するという状況は、行政の効率性を著しく低下させ、民衆の負担を増大させました。乾隆帝の死後、次代の嘉慶帝によって和珅は失脚させられ、その没収された財産は、国家歳入の十数年分にも相当したといわれています。この事実は、乾隆後期の腐敗がいかに深刻であったかを物語っています。
第二の課題は、急激な人口増加がもたらした社会経済的な圧力です。康熙、雍正、乾隆の三代にわたる長期の平和と安定、そしてトウモロコシやサツマイモといった新大陸由来の高収量作物の普及により、中国の人口は爆発的に増加しました。18世紀初頭には約1億5千万人だった人口が、世紀の終わりには3億人を超えたと推定されています。この人口圧は、一人当たりの耕地面積の減少、食糧価格の高騰、そして土地を持たない流民の増加といった問題を引き起こしました。
政府は、開墾を奨励し、灌漑事業を行うなどの対策を講じましたが、人口増加のペースに追いつくことはできませんでした。土地を求める人々は、山間部や辺境地域へと移住しましたが、これらの地域は生態学的に脆弱であり、無計画な開墾は森林伐採や土壌流出を引き起こし、洪水などの自然災害を頻発させる原因となりました。社会の底辺に広がる貧困と不満は、秘密結社の活動を活発化させ、社会不安を増大させました。治世末期の1796年に発生した白蓮教徒の乱は、こうした社会経済的な矛盾が爆発した大規模な農民反乱であり、その鎮圧には10年近い歳月と莫大な戦費を要し、清朝の財政と軍事力を大きく消耗させることになりました。
第三に、対外関係、特にヨーロッパ諸国との関係における緊張の高まりが挙げられます。18世紀後半、イギリスをはじめとするヨーロッパの商人たちは、中国との貿易、特に茶、絹、陶磁器の輸入を拡大していました。しかし、この貿易は、広州一港に限定され、「公行」と呼ばれる特許商人組合を介して行われるなど、清朝側の厳格な管理下に置かれていました。イギリス側は、この「広東システム」を不自由で不平等なものとみなし、貿易の自由化、開港地の拡大、そして北京への外交使節の常駐を求めていました。
この要求を伝えるため、1793年、イギリスはジョージ・マカートニーを全権大使とする大規模な使節団を派遣しました。しかし、この使節団の試みは、根本的な文化と世界観の違いによって失敗に終わりました。乾隆帝と清朝の宮廷は、マカートニーを遠方の「蛮夷」からの朝貢使節として扱い、皇帝に対する三跪九叩頭の礼を要求しました。マカートニーは、主権国家の代表としてこれを拒否し、対等な国交を求めましたが、受け入れられませんでした。乾隆帝は、イギリス側の要求を「天朝の制度にそぐわない」として全て退け、「天朝は万邦に君臨し、全てのものを有しており、外国の産物を必要としない」という有名な勅書をジョージ3世に送りました。この出来事は、伝統的な中華思想に基づく華夷秩序と、近代的な主権国家体制を志向する西洋との間の、埋めがたい認識の差を象徴しています。この時点で武力衝突には至りませんでしたが、貿易不均衡と外交上の対立という問題は未解決のまま残り、約半世紀後のアヘン戦争へとつながる伏線となりました。
これらの内部からの腐敗、社会経済的な矛盾、そして外部からの新たな挑戦は、乾隆帝の輝かしい治世の末期に、帝国の将来に暗い影を落とし始めました。乾隆帝自身は、18世紀の偉大な君主としてその生涯を終えましたが、彼が残した帝国は、その栄光の頂点で、すでに深刻な構造的問題を抱えていたのです。
譲位と晩年
1796年2月、乾隆帝は統治60年の節目を迎え、一つの重大な決断を下しました。それは、皇位を第十五皇子である嘉親王顒琰(後の嘉慶帝)に譲り、自らは太上皇となるというものでした。この譲位の理由は、祖父である康熙帝の治世(61年)を超えることを避けるという、儒教的な敬意の表明にありました。在位期間において祖父を超えることは不遜であると考えたのです。この前例のない自発的な譲位は、乾隆帝の治世の集大成として、また彼の道徳的な権威を示すための最後の演出として、周到に計画されました。
譲位の儀式は盛大に行われ、乾隆帝は太上皇として、引き続き紫禁城内の養心殿の東翼にある居所で暮らすことになりました。彼は、政治の第一線から完全に引退するつもりはなく、「訓政」という形で新皇帝の後見役を務めることを宣言しました。表向きの権力は嘉慶帝に移譲されましたが、国家の最終的な意思決定権は依然として太上皇である乾隆帝が握り続けました。軍機処の大臣たちは、重要な政務についてはまず太上皇に報告し、その裁可を得てから嘉-慶帝に奏上するという形式が取られました。
この異例の権力構造は、いくつかの問題を生み出しました。新皇帝である嘉慶帝は、父である太上皇の権威の前では、事実上、自らの意志で政治を行うことができませんでした。彼は、父の決定を追認するだけの存在となり、その治世の最初の数年間は、政治的な実権をほとんど持たない影の薄い皇帝とならざるを得ませんでした。
さらに深刻だったのは、この訓政期間中に、寵臣である和珅の権力が頂点に達したことです。乾隆帝は高齢のため、ますます日常の政務を和珅に依存するようになりました。和珅は太上皇の意を巧みに操り、嘉慶帝を牽制しながら、自らの権力基盤をさらに強固なものにしました。彼は太上皇と新皇帝の間の連絡役となり、情報を操作し、自らにとって都合の良い政策を推し進めました。この時期、和珅の汚職と専横は極みに達し、多くの官僚は、嘉慶帝ではなく和珅の顔色をうかがうようになりました。嘉慶帝は、この状況に強い不満と危機感を抱いていましたが、父である太上皇が存命である限り、和珅に手を出すことはできませんでした。彼は、父の死を静かに待ちながら、和珅とその一派を粛清するための準備を水面下で進めていたとされています。
太上皇としての乾隆帝は、政治的な実権を握り続ける一方で、詩作や観劇、庭園の散策など、悠々自適の晩年を送りました。彼は、自らの長寿と、五世代にわたる子孫に恵まれたこと(五世同堂)を大いに誇りとしました。彼の治世の成果を讃える祝賀行事が度々催され、帝国は依然として平和と繁栄を享受しているかのように見えました。しかし、その華やかな宮廷生活の裏では、白蓮教徒の乱が勃発するなど、社会の矛盾は深刻化の一途をたどっていました。太上皇の宮殿に届く情報は、しばしば和珅らによって選別され、帝国の危機的な実情が正確に伝わっていなかった可能性も指摘されています。
1799年2月7日、乾隆帝は養心殿で崩御しました。享年87歳(満年齢)。彼の死は、一つの時代の終わりを告げるものでした。彼の死の直後、嘉慶帝は待っていたかのように迅速に行動を起こしました。彼は和珅を逮捕し、その二十カ条にわたる大罪を公布しました。本来であれば凌遅刑(最も過酷な死刑)に処されるところでしたが、かつて皇帝の寵臣であったことへの配慮と、皇女(乾隆帝の末娘で和珅の息子の妻)の嘆願により、白絹を与えられて自害を命じられました。和珅の莫大な財産は没収され、国庫に編入されました。
乾隆帝の死と和珅の失脚は、清帝国における権力構造の転換点となりました。しかし、和珅一人の処罰で、長年にわたって蝕まれてきた官僚機構の腐敗や、深刻化する社会経済問題が解決されるわけではありませんでした。乾隆帝が残した帝国は、外見上は壮麗で強大でしたが、その内部には数多くの構造的な脆弱性を抱えていました。嘉慶帝とその後の皇帝たちは、この「偉大なる父」が残した負の遺産の処理に苦慮し、清帝国は長い衰退の時代へと入っていくことになります。乾隆帝の晩年は、彼の治-世が持つ栄光と、その影に潜む深刻な矛盾を象徴する期間であったと言えるでしょう。
乾隆帝の遺産
乾隆帝の60年以上にわたる治世は、清帝国、そして中国史全体における一つの頂点を画する時代でした。彼の時代、帝国は版図、人口、経済力において空前の規模に達し、その文化は爛熟の極みを迎えました。彼は、祖父・康熙帝と父・雍正帝が築いた基盤の上に、輝かしい「康乾の盛世」の最盛期を現出させ、18世紀の世界において最も強大な権力を持つ君主として君臨しました。
彼の遺産の第一は、現代中国の広大な領域をほぼ確定させたことです。「十全武功」と称される一連の軍事遠征を通じて、彼は長年の脅威であったジュンガル部を滅ぼし、新疆とチベット、モンゴルに対する支配を確立しました。これにより、清は満洲人、漢人、モンゴル人、チベット人、そしてムスリム(ウイグル人など)を包含する巨大な多民族帝国としての性格を決定づけました。この広大な版図と多様な民族を統治した経験は、現代の中国国家の形成に直接的かつ深遠な影響を与えています。