呉三桂とは
呉三桂(1612年6月8日 - 1678年10月2日)は、字を長白または長伯といい、明朝末期から清朝初期にかけて活躍した中国の軍人です。 彼の生涯は、明朝の滅亡と清朝の建国という中国史の激動期において、決定的な役割を果たしたことで知られています。 しかし、その行動は後世に大きな議論を呼び、特に満州人(後の清)を中国本土に招き入れたこと、南明の抵抗勢力を鎮圧したこと、そして永暦帝を処刑したことから、裏切り者としての評価が一般的です。 彼は最終的に、仕えた明と清の両王朝を裏切ることになりました。
初期の経歴と明への奉仕
呉三桂は1612年、遼西の綏中(現在の遼寧省)で、武将の家系に生まれました。 彼の父、呉襄もまた軍人であり、叔父の祖大寿も明の著名な将軍でした。 このような家庭環境の影響を受け、呉三桂は幼い頃から戦争と政治に強い関心を示しました。 彼はまた、著名な芸術家である董其昌の弟子でもありました。
史料によれば、呉三桂は中背で色白、鼻筋が通り、大きな耳を持つハンサムな将軍であったとされています。 彼は特に乗馬と弓術に優れた才能を持っていました。 軍人の家系に生まれた彼は、武科挙(軍人登用試験)でも優秀な成績を収め、その武勇は早くから知られていました。 若き日の逸話として、父の呉襄が数百の敵騎兵に包囲された際、呉三桂はわずか数十の護衛を率いて敵陣に突入し、数で圧倒的に劣る状況にもかかわらず激しい戦闘の末に父を救出したと伝えられています。 このような勇敢さと卓越した軍事的才能により、彼は次々と昇進を重ねていきました。
1632年、20歳の呉三桂は、孔有徳の反乱軍を討伐するため山東に派遣された遼東軍で、父と共に戦いました。 この時、彼は遊撃将軍として従軍し、同年9月には副将に、さらにその年のうちに総兵(軍団長クラス)にまで昇進しました。 1638年には再び副将を務め、1639年、遼東の情勢が緊迫化すると、明朝は洪承疇を薊遼総督に任命し、洪承疇は呉三桂を訓練担当の将軍に任命しました。
1640年、呉三桂は松錦の戦いに参加しました。 この戦いで明軍は清軍に大敗を喫しましたが、呉三桂は捕虜になることを免れました。 この頃、彼が率いる部隊は、彼自身が訓練し指揮する精鋭部隊であり、彼の軍事的成功の基盤となりました。 1642年までに、明は多くの重要都市を満州軍に奪われ、呉三桂が駐屯する寧遠は北京を防衛する最後の砦となっていました。 清の皇帝ホンタイジは、再三にわたり呉三桂に降伏を促しましたが、彼はこれを拒否し続けました。 この時点での呉三桂は、明朝に忠実で、勇敢かつ有能な将軍と見なされていました。 彼は万里の長城の最も重要な軍事拠点である山海関の守備を任されるほどの信頼を得ていました。
明朝の崩壊と山海関での決断
17世紀半ば、明朝は内部からの腐敗、経済問題、そして度重なる災害によって著しく弱体化していました。 政府の機能不全は民衆の不満を増大させ、各地で農民反乱が頻発するようになります。 その中でも、元明朝の下級役人であった李自成が率いる反乱軍は、瞬く間に勢力を拡大し、中国北部に大きな脅威をもたらしていました。
1644年初頭、李自成は西安を拠点に、北京への最終的な攻撃を開始しました。 この危機的状況に対し、崇禎帝は北京の防衛を強化するため、寧遠に駐屯していた呉三桂とその精鋭部隊を首都に呼び戻すことを決定します。 これは、満州の脅威に対して北東の守りを手薄にすることを意味する危険な賭けでした。 呉三桂は皇帝の命令に従い、4万の兵を率いて北京へ向かいましたが、その途上で悲劇的な知らせを受け取ります。 1644年4月25日、李自成の軍が北京を陥落させ、崇禎帝は紫禁城の裏手にある庭園で自ら命を絶ったのです。
主君を失い、王朝が事実上崩壊したことを知った呉三桂は、北京への進軍を中止し、万里の長城の東端に位置する戦略的要衝、山海関に軍を駐屯させました。 この時点で、呉三桂と彼の軍隊は、中国の運命を左右する極めて重要な立場に置かれることになります。 彼の前には万里の長城の外にいる満州の清軍、そして背後には北京を占領した李自成の反乱軍という、二つの強大な勢力が迫っていました。
李自成と清の摂政王ドルゴンの双方が、呉三桂を自陣営に引き入れようと試みました。 李自成は、北京で呉三桂の父である呉襄を含む一家を人質に取り、降伏を迫りました。 一部の記録では、李自成が呉三桂の愛妾であった陳円円を奪ったことが、呉三桂の怒りを買い、彼の最終的な決断に大きな影響を与えたという逸話も広く知られています。 しかし、この話は明の滅亡の責任を一人の女性に帰そうとする後の創作である可能性も指摘されています。
呉三桂は当初、李自成に降伏する意向を示したとも言われています。 しかし、李自成が呉三桂の忠誠を信じず、その家族を人質として扱い続けたことや、北京での略奪行為などから、両者の交渉は決裂しました。 一方で、清のドルゴンは、李自成への復讐と引き換えに、呉三桂に協力と報酬を約束しました。
内外の敵に挟まれ、絶望的な状況に追い込まれた呉三桂は、ついに歴史的な決断を下します。彼は長年の敵であった満州と手を結び、李自成を討つことを選びました。 1644年5月、呉三桂は山海関の門を開き、ドルゴン率いる清軍を中国本土へと招き入れました。
山海関の戦いと清の北京入城
呉三桂が清に降伏する意向を固めると、李自成は自ら大軍を率いて山海関の制圧に向かいました。 1644年5月27日、呉三桂軍と李自成軍の間で激しい戦闘が始まりました。 呉三桂の軍は約4万、対する李自成軍は約10万とされ、兵力では圧倒的に不利な状況でした。 呉三桂の兵士たちは、李自成軍と区別するために鎧に白い布を取り付けて戦いました。
戦闘当初、呉三桂軍は勇猛に戦ったものの、数に勝る李自成軍の猛攻の前に次第に追い詰められていきました。 しかし、この戦いを静観していたドルゴンは、呉三桂軍が疲弊し、勝敗の趨勢が決まる瞬間を見計らって、約8万の精鋭騎兵を投入しました。 突如として現れた満州の騎馬軍団の猛攻に、李自成軍は混乱に陥り、大敗を喫しました。 この山海関の戦いは、明の滅亡と清の建国を決定づける極めて重要な戦いとなりました。
敗走した李自成は北京に撤退しましたが、そこでもはや体勢を立て直すことはできませんでした。北京に火を放ち、略奪を行った後、彼は西へと逃亡しました。 その際、怒りに駆られた李自成は、人質としていた呉三桂の父、呉襄を含む一族38名を処刑し、その首は城壁に晒されたと伝えられています。
李自成が逃亡した後の1644年6月6日、ドルゴンと呉三桂は連合軍を率いて北京に入城しました。 ドルゴンは、反乱軍を打ち破り民衆を救った救世主として振る舞い、明の崇禎帝の正式な葬儀を執り行うなどして、人心の掌握に努めました。 そして同年10月30日、幼い順治帝を皇帝として即位させ、清王朝が明に代わって中国を統治することを宣言しました。 呉三桂が山海関の門を開いた決断は、結果的に満州人による中国支配への道を開き、その後の約300年にわたる清王朝の歴史の幕開けとなったのです。
清への貢献と南西部の平定
清王朝の樹立に決定的な貢献をした呉三桂は、その功績を高く評価され、清朝から厚遇を受けました。 彼は「平西王」の称号を与えられ、これは皇族以外、特に非満州人である漢人に対して与えられる王の称号としては異例のことでした。 清朝は、呉三桂の軍事力を利用して、まだ中国各地に残存していた明の残党勢力やその他の反乱軍の掃討を進めました。
呉三桂は、清に忠誠を誓う将軍として、その後約30年間にわたり清のために戦い続けました。 彼の主な任務は、中国南西部における明の抵抗勢力、いわゆる「南明」の鎮圧でした。 明の皇族たちは南方に逃れ、次々と亡命政権を樹立して清への抵抗を続けていましたが、呉三桂はこれらの勢力を容赦なく追撃しました。
1659年、呉三桂は雲南省の平定を任され、この地域の軍事および民政の全権を委ねられました。 彼は雲南を拠点として、貴州、四川など南西部の広大な地域を実質的に支配下に置きました。 彼の軍隊は6万人にも達し、その地域における清朝の支配を確立する上で中心的な役割を果たしました。 呉三桂の最も非情な功績の一つは、南明最後の皇帝である永暦帝の追討です。永暦帝はビルマ(現在のミャンマー)まで逃亡していましたが、呉三桂は軍を率いて国境を越え、ビルマに圧力をかけて永暦帝の身柄を引き渡させました。 そして1662年、呉三桂は昆明で永暦帝とその息子を処刑しました。 この行為は、明王朝への忠誠を誓っていたかつての将軍が、その最後の後継者を自らの手で葬り去ったという点で、彼の「裏切り者」としての評価を決定的なものにしました。
南西部の平定後、清朝は呉三桂の功績を認め、彼を雲南の藩王としてその地の統治を任せました。 彼は雲南と貴州にまたがる広大な領地を与えられ、そこで独自の権力基盤を築き上げていきます。 彼は税金を徴収し、地域の貿易を独占するなどして莫大な富を蓄え、半独立的な王国、いわゆる「藩」を形成しました。 同様に、広東には尚可喜、福建には耿継茂(後にその息子の耿精忠が継承)という、同じく清に協力した漢人将軍が藩王として封じられ、これらは「三藩」と総称されるようになります。
三藩の乱と新王朝の樹立
呉三桂は雲南を拠点に20年近く統治し、その権力は絶大なものとなりました。 彼は独自の官僚機構を持ち、軍隊を増強し、清朝中央政府の干渉をほとんど受けずに領地を支配していました。 しかし、この南部に存在する巨大な半独立勢力は、中国統一と中央集権化を目指す清朝、特に若き康熙帝にとって、次第に大きな脅威と見なされるようになります。
1673年、康熙帝は三藩の力を削ぐため、藩の撤廃、すなわち藩王たちの領地と軍隊を中央政府に返還させる政策を打ち出しました。 広東の尚可喜が引退を申し出たことをきっかけに、康熙帝は呉三桂と福建の耿精忠にも同様に引退と領地返還を命じました。 これは、彼らの既得権益を完全に奪うものであり、呉三桂はこの決定に激しく反発しました。
自らの権力が脅かされていると感じた呉三桂は、ついに清朝に対して反旗を翻すことを決意します。 1673年12月28日、呉三桂は雲南の巡撫(長官)であった朱国治を殺害し、「清に反し明を復す」というスローガンを掲げて挙兵しました。 彼は満州人を異民族支配者として非難し、漢民族の支持を得るために、満州人が強制した辮髪を切り、明代の服装に戻すよう命じました。
呉三桂の反乱は「三藩の乱」として知られ、中国史における大規模な内戦へと発展しました。 1674年1月、62歳の呉三桂は自ら軍を率いて雲南から北上を開始し、ほとんど抵抗を受けることなく貴州省全域を占領しました。 彼の反乱に呼応して、福建の耿精忠と、父を幽閉して実権を握った広東の尚之信(尚可喜の息子)も相次いで反乱に加わりました。 さらに、陝西の王輔臣や台湾を拠点とする鄭成功の息子、鄭経も反乱勢力に加わり、一時は清朝を揺るがすほどの勢いを見せました。
反乱開始からわずか数年で、呉三桂の勢力は雲南、貴州、四川、湖南、広西など南中国の広大な地域を制圧し、1676年4月までには11の省を支配下に置きました。 戦況は呉三桂に有利に進んでいるかのように見え、清朝は最大の危機に直面しました。
しかし、呉三桂は長江の南岸まで進軍した後、進撃を停止してしまいます。 この3ヶ月間の停滞は、兵力や資金の不足が原因であったとされていますが、結果的に康熙帝に体勢を立て直す時間を与えることになりました。 また、呉三桂は北京に人質として残していた息子、呉応熊の身を案じていた可能性も指摘されています。 康熙帝は呉三桂の反乱を知ると、即座に呉応熊とその息子たちを処刑しました。
反乱軍の内部でも足並みは乱れ始め、統一した戦略を欠いていました。 康熙帝が率いる清軍が反撃に転じると、王輔臣、耿精忠、尚之信らは次々と降伏していきました。
追い詰められた呉三桂は、1678年3月、湖南省の衡州(現在の衡陽)で自ら皇帝に即位し、国号を「大周」、元号を「昭武」と定めました。 これは、もはや明の復興ではなく、自らの王朝を樹立するという野心を示したものでした。 しかし、彼の帝国は長くは続きませんでした。皇帝即位からわずか数ヶ月後の1678年10月2日、呉三桂は赤痢により66歳で病死しました。
反乱の終焉と死後
呉三桂の死後、反乱軍の指導権は彼の孫である呉世璠に引き継がれました。 呉世璠は抵抗を続けましたが、指導者であり卓越した軍事家であった呉三桂を失った反乱軍は、もはやかつての勢いを維持することはできませんでした。 清軍は着実に反乱軍を追い詰め、1681年12月、ついに反乱の最後の拠点であった昆明が陥落しました。 呉世璠は追い詰められ、自ら命を絶ちました。
三藩の乱は、開始から8年を経てようやく鎮圧されました。 乱の終結後、呉世璠の首は北京に送られ、康熙帝は呉三桂の遺体の一部を中国各地の省に送り、見せしめにしたと伝えられています。 これにより、清朝は中国全土における支配を確固たるものとし、康熙帝の治世は安定期を迎えることになります。
呉三桂の生涯は、激動の時代に翻弄され、そして自らも時代を大きく動かした人物の複雑な軌跡を示しています。明の将軍として仕事を始めたにも関わらず、王朝の滅亡という未曾有の事態に直面し、敵であった満州と手を結ぶという決断を下しました。 その功績によって清朝で栄華を極める一方で、かつての同胞である明の残党を滅ぼし、最後には自らが樹立に貢献した清朝に反旗を翻しました。
彼の行動の動機については、父や愛妾を奪われたことへの私的な復讐心、自らの権力と地位を守るための野心、あるいは漢民族の支配を回復しようとする初期の意図など、様々な解釈がなされています。