キャフタ条約の歴史的背景
17世紀、ロシア・ツァーリ国と清王朝は、シベリアの広大な土地を挟んで互いに勢力を拡大し、直接的な接触を持つようになりました。1582年から1639年にかけて、ロシアの探検家やコサックたちはシベリアの森林地帯を横断し、アムール川流域にまで到達して入植地を築きました。一方、1644年に明を滅ぼして北京に首都を置いた清王朝は、満州を故地とし、その北方地域の安定を重視していました。
ロシアの東方への進出は、清との間で避けられない緊張を生み出しました。1652年から1689年にかけて、両国はアムール川流域の支配を巡って断続的な武力衝突を繰り返しました。特に、ロシアが築いたアルバジン要塞は、両国の対立の象徴的な場所となりました。清の康熙帝は、この地域のロシア勢力を排除するため、数度にわたり軍を派遣しました。1685年には、清軍がアルバジン要塞を攻略し、捕虜となったコサックの一部が北京に移送される出来事も起きました。
このような状況の中、両国は外交交渉による問題解決の道を模索し始めます。1689年、両国はネルチンスク条約を締結しました。この条約は、ロシアと清の間で結ばれた最初の国境条約であり、主に満州方面の国境線を画定するものでした。具体的には、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)を境界とすることが定められ、ロシアはアムール川流域から撤退することになりました。しかし、ネルチンスク条約では、モンゴル方面の国境線については明確に定められませんでした。当時、この地域はまだ清の完全な支配下にはなく、ジュンガル部などのモンゴル系遊牧民の勢力が強かったためです。
ネルチンスク条約は、両国間の武力衝突を一旦収束させ、通商関係の基礎を築きました。条約の第5条は、正規の許可証を持つ者の通商を認める内容でしたが、具体的な規定は曖昧でした。これに基づき、ロシアの商人たちはネルチンスクから北京へ向かうキャラバンを組織し始めました。当初、これらの交易は国家が管理する形で行われ、1689年から1722年の間に14回の公式キャラバンが北京を訪れました。しかし、ウルガ(現在のウランバートル)などでの私的な交易も盛んに行われ、その規模は公式キャラバンを上回っていたと推定されています。
しかし、ネルチンスク条約で未画定だったモンゴル方面の国境問題は、依然として両国間の懸案事項として残りました。国境が明確でないため、国境を越えて移動する遊牧民や、逃亡者の扱いを巡って紛争が頻発しました。清側は、ジュンガル部がロシアと結びつくことを警戒しており、また、清の支配を嫌う人々がロシア領へ逃亡することを防ぎたいと考えていました。一方、ロシア側は、シベリアのコサックたちが引き起こすトラブルを抑え、安定した交易路を確保することに関心がありました。
18世紀に入ると、康熙帝は交易を制限することでロシアに圧力をかけ、国境問題の解決を迫るようになります。1712年には、満州人の官僚であるトゥリシェンがロシアへ派遣され、ロシア側の事情を探りました。彼の報告書は、当時の中国におけるロシア理解の主要な情報源となりました。1719年から1722年にかけて、ロシアはレフ・イズマイロフを大使として北京に派遣し、通商条約の締結を目指しましたが、国境問題が解決されない限り進展は見られませんでした。1722年、清はついに国境問題が解決されるまで通商を全面的に停止するという強硬措置に出ます。
このような通商の停止は、毛皮などを中国の茶や絹、綿製品と交換していたロシアにとって大きな打撃でした。ロシアのピョートル大帝は、この状況を打開するため、死の直前に国境問題の包括的な解決を決意します。彼の後を継いだ皇后エカチェリーナ1世は、セルビア出身でロシアに仕えていたサヴァ・ルキッチ・ウラジスラヴィチ=ラグジンスキー伯爵を全権大使に任命し、清との交渉に当たらせました。1725年10月23日、ウラジスラヴィチは1500人の兵士と、地図製作者や聖職者を含む120人の随員を率いてサンクトペテルブルクを出発しました。彼の使命は、長年にわたる懸案であったモンゴル方面の国境を画定し、安定した通商関係を再構築することであり、これがキャフタ条約交渉の直接的な始まりとなりました。
交渉の過程
キャフタ条約に至る交渉は、ロシア皇帝ピョートル1世の死後、皇后エカチェリーナ1世の治世に本格化しました。1725年、セルビア出身の外交官サヴァ・ウラジスラヴィチ=ラグジンスキー伯爵が、ロシア側の全権大使として任命されました。彼は大規模な使節団を率いてサンクトペテルブルクを出発し、1726年11月に北京に到着しました。使節団には、地図製作者や聖職者も含まれており、国境地帯の測量と地図作成という重要な任務も帯びていました。
北京での交渉は、清の雍正帝の治世下で行われました。清側の交渉担当者は、チャビナ、テグト、そしてかつてロシアへ使節として赴いた経験を持つトゥリシェンといった高官たちでした。交渉は3年に及ぶ長期的なものとなり、北京と国境地帯の両方で進められました。
交渉における主要な議題は、ネルチンスク条約で未画定であったモンゴル方面の国境線の画定、両国間の通商関係の規定、そして国境を越える逃亡者の取り扱いでした。
国境線の画定は、交渉の中で最も困難な課題の一つでした。ウラジスラヴィチは北京に到着する前から、国境地帯の地理情報を収集するために測量隊を派遣していました。交渉は、まず1727年8月20日に国境地帯のブラ川付近で締結されたブラ条約(またはブリンスキー条約)によって大きな進展を見せます。この予備条約は、キャフタ条約の基礎となるもので、主に国境画定の問題を扱いました。ブラ条約では、国境線を西はシャビン・ダバガ峠から、東はアルグン川までとすることが大筋で合意されました。具体的な境界標の設置作業が直ちに開始され、「アバガイトゥ書簡」にはキャフタから東のアルグン川までの63の境界標が、「セレンギンスク書簡」にはキャフタから西のシャビン・ダバガ峠までの24の境界標がリストアップされました。
通商関係については、ロシア側は安定的かつ有利な交易条件を強く求めました。清側は、交易を許可する見返りとして、国境の安定とロシアからの政治的譲歩を引き出すことを狙っていました。交渉の結果、キャフタとネルチンスク近郊のツルハイトゥの2ヶ所を公式な国境交易所とすることが合意されました。また、3年に1度、ロシアの公式キャラバンが北京を訪れて交易を行う権利も認められました。これは、広東でのみ海上貿易を許されていた他のヨーロッパ諸国と比べて、ロシアに与えられた非常に有利な条件でした。
もう一つの重要な議題は、北京におけるロシア正教会の伝道所の設置でした。これは、17世紀末のアルバジン要塞陥落時に捕虜となり北京に移住したロシア人(アルバジン人)の信仰を維持するという名目でロシア側が要求したものです。清側はこれを認め、伝道所の設置と聖職者や学生の滞在を許可しました。この伝道所は、宗教的な役割だけでなく、事実上の外交使節団として機能し、ロシアの中国研究の拠点ともなっていきます。
これらの主要な議題に関する合意は、まず北京でまとめられ、その後、国境地帯で最終的な条約として署名されることになりました。ブラ条約で合意された国境画定作業の結果が北京に送られ、他の合意事項と統合された文書が作成されました。そして、その最終文書が再び国境地帯に送られ、1727年10月21日(いくつかの資料では日付に異同あり)に国境の町キャフタで、ウラジスラヴィチと清の代表団によって署名されました。ただし、批准を含むすべての手続きが完了し、条約が正式に発効したのは1728年6月25日とされています。
条約の正文は、ロシア語、ラテン語、満州語の3言語で作成されましたが、公式な中国語版は存在しませんでした。これは、当時の清王朝が満州語を公用語として重視していたこと、また、ネルチンスク条約と同様に、国際的な交渉言語としてラテン語が用いられたことを反映しています。このように、キャフタ条約は、数年にわたる粘り強い交渉と、国境地帯での実地調査を経て、両国の複雑な利害関係を調整する形で成立したのです。
条約の主要な条項
1727年に署名され、1728年に発効したキャフタ条約は、全11条から構成されていました。これらの条項は、ロシア帝国と清王朝の間の関係を多岐にわたって規定するものであり、その核心は国境線の画定、通商関係の制度化、そして外交的・司法的問題の処理方法にありました。
第1条、第2条:平和の維持と逃亡者の取り扱い
第1条は、両国間の永続的な平和と協力関係を謳うものでした。これは、条約全体の基本精神を示すものであり、以降の条項の前提となるものでした。
第2条は、国境を越える逃亡者の相互送還について規定していました。これは、ネルチンスク条約以来の懸案事項であり、国境地帯の安定を確保するために両国が重視した問題でした。この条項により、一方の国の臣民が他方の国へ逃亡した場合、速やかに捕らえて送還することが義務付けられました。
第3条、第7条:国境線の画定
第3条と第7条は、条約の最も重要な部分であり、ネルチンスク条約で未画定だったモンゴル方面の国境線を具体的に画定するものでした。この国境線は、東はアルグン川の上流から始まり、西はアルタイ山脈のシャビン・ダバガ峠に至る広大な範囲に及びました。
具体的には、国境地帯に境界標(オボー)を設置することが定められました。東方については、キャフタからアルグン川まで63個の境界標が、西方については、キャフタからシャビン・ダバガ峠まで24個の境界標が設置されることになりました。これにより、現在のモンゴルとロシアの国境の大部分、および中露国境の一部が形成されました。この国境画定により、バイカル湖周辺のモンゴル系住民はロシアの臣民となり、セレンガ川以南のモンゴル系住民は清の臣民となることが明確にされました。
ただし、イルティシュ川上流域の領有権については合意に至らず、将来の外交交渉によって決定されることとして棚上げされました。
第4条、第6条:通商関係の規定
第4条と第6条は、両国間の通商関係を詳細に規定しました。これはロシア側が条約締結を急いだ主要な動機の一つでした。
条約により、国境貿易のための二つの公的な交易所が設置されました。一つは条約が結ばれたキャフタ、もう一つは満州方面のツルハイトゥです。これらの交易所での取引は、免税の現物交換を原則としました。
さらに、ロシアに対しては、3年に一度、200人以内の商人からなる公式キャラバンを北京に派遣し、交易を行う権利が認められました。これは、当時、海上交易を広東港に限定されていた他のヨーロッパ諸国と比較して、ロシアに与えられた破格の待遇でした。ロシアは毛皮などを輸出し、中国からは茶、絹、綿製品、大黄などを輸入しました。特に茶はキャフタ貿易の主要品目となり、ロシアにおける茶文化の普及に大きく貢献しました。
第5条:北京におけるロシア正教伝道所の設置
第5条は、北京にロシア正教会の伝道所を設置することを許可するものでした。この伝道所には、聖職者3名と、中国語および満州語を学ぶための学生6名(後に4名に変更)の滞在が認められました。
この伝道所は、表向きは17世紀末に北京に移住したロシア人捕虜(アルバジン人)とその子孫のための宗教施設でした。しかし、実際には、19世紀半ばに正式な外交公使館が開設されるまで、ロシアの事実上の外交代表機関として機能しました。また、滞在する学生たちは中国の言語、文化、政治を学び、ロシアにおける初代の中国学者たちを育成する拠点となりました。
第8条、第9条、第10条、第11条:外交儀礼と紛争解決
残りの条項は、両国間の外交儀礼や将来の紛争解決手続きについて定めていました。例えば、両国間の公式な書簡の形式や、国境地帯で発生した犯罪や紛争の処理方法などが規定されました。特に、ロシアの使節が清の皇帝に謁見する際に、臣従の意を示す「叩頭」の礼を免除されるという非公式な合意もなされたとされています。これは、清がロシアを対等な国家として認めたことを示す重要な意味を持っていました。
これらの条項を通じて、キャフタ条約は、ロシアと清の関係を、国境、通商、外交、宗教、司法といった多岐にわたる分野で包括的に規定し、その後約130年間にわたる両国関係の法的基礎を築いたのです。
キャフタ貿易の展開
キャフタ条約の締結により、ロシアと清の間の貿易は、それまでの非公式で不安定な状態から、制度化された安定的な関係へと移行しました。この条約に基づいて行われた貿易は「キャフタ貿易」として知られ、18世紀から19世紀半ばにかけて、両国の経済関係の中心となりました。
貿易の仕組みと拠点
キャフタ条約は、国境貿易の拠点を二ヶ所に定めました。一つは条約締結の地であり、バイカル湖の南に位置するキャフタ、もう一つは満州方面のツルハイトゥでした。しかし、北京へのアクセスが良いキャフタがすぐに主要な交易の中心地となり、ツルハイトゥの重要性は相対的に低いままでした。
キャフタの町は、条約締結後にロシア側によって建設された要塞と交易所から発展しました。清国側も隣接して交易所(「買売城」と呼ばれた)を設け、両国の商人がここで取引を行いました。貿易は、条約の規定に基づき、通貨を用いない現物交換が原則とされました。商人たちは、清国政府が発行する許可証を提示して国境を越え、指定された場所で交易活動を行いました。
条約はまた、3年に一度、ロシアの国家キャラバンが北京へ赴き交易を行うことも許可していました。1727年から1760年の間に6回の国家キャラバンが北京を訪れましたが、この旅は長期間を要し、費用もかさむものでした。徐々に、国境の町キャフタでの民間商人による継続的な貿易が、両国間貿易の主流となっていきました。
主要な交易品
キャフタ貿易における最大の輸出品は、ロシア側からはシベリアで産出される毛皮でした。クロテン、キツネ、リスなどの毛皮は中国で高い需要がありました。一方、清国側からの最大の輸入品は茶でした。当初は固形茶が主でしたが、次第に磚茶(レンガ状に固めた茶)の取引が増加しました。この茶は「キャラバンティー」とも呼ばれ、ラクダの隊商によってシベリアを横断し、ロシア国内へと運ばれました。キャフタ貿易を通じて、茶はロシアの国民的な飲み物として広く普及するきっかけとなりました。
茶のほかにも、清国からは絹織物、綿織物(「中国布」と呼ばれた)、タバコ、そして漢方薬の原料である大黄などが輸出されました。大黄は、中国では薬として用いられましたが、ロシアでは染料としても需要があり、国家による専売品として重要視されました。
貿易の経済的・文化的影響
キャフタ貿易は、ロシアにとって国家の重要な収入源の一つとなりました。毛皮を中国製品と交換することで、ロシアは西ヨーロッパとの貿易で必要となる貴金属の流出を抑えつつ、国内の需要を満たすことができました。
清国にとっても、キャフタ貿易は北方の遊牧民を管理し、辺境地域の経済を活性化させる上で重要な役割を果たしました。山西商人などの中国商人がキャフタ貿易で活躍し、巨万の富を築きました。
貿易の活発化は、文化的な交流も促進しました。キャフタの交易所では、ロシア人と中国人の商人が日常的に接触し、互いの言語や習慣を学ぶ機会が生まれました。この過程で、「キャフタ・ロシア・中国ピジン」と呼ばれる混成言語が生まれたことも知られています。これは、交易を円滑に進めるための実用的なコミュニケーション手段として発達したものです。
貿易の変遷と衰退
キャフタ貿易は常に順風満帆だったわけではありません。国境での犯罪や逃亡者の問題を理由に、清側はしばしば貿易の一時停止を圧力手段として用いました。例えば、1762年、1765年、1785年などに貿易が中断されています。これらの紛争を解決するため、1768年と1792年には、元のキャフタ条約を補足・修正する議定書が結ばれました。1768年の協定では、犯罪者に対する罰則がより明確化され、1792年の議定書では、7年間にわたって中断されていた貿易を再開するための取り決めがなされました。
19世紀半ばになると、キャフタ貿易を取り巻く環境は大きく変化します。アヘン戦争後、清国がイギリスなど西欧列強と次々と不平等条約を結び、南東沿岸の港を開港すると、海上ルートでの貿易が主流となっていきました。ロシアも、1858年のアイグン条約や1860年の北京条約によって、アムール川流域の広大な領土を獲得し、ウラジオストクなどの不凍港を得て、太平洋への直接的な出口を確保しました。
これにより、シベリアを横断する陸上ルートの重要性は相対的に低下し、キャフタが独占していた中露貿易の中継地としての地位は失われていきました。こうして、約130年間にわたってユーラシア大陸の東西を結ぶ重要な交易路であったキャフタ貿易は、次第にその歴史的役割を終えていったのです。
北京のロシア正教伝道所
キャフタ条約第5条によって公式に設置が認められた北京のロシア正教伝道所は、18世紀から20世紀初頭にかけて、ロシアと清の関係において宗教の枠を超えた極めて重要な役割を果たしました。
設立の経緯
伝道所の起源は、17世紀末のロシアと清の軍事衝突に遡ります。1685年、清の康熙帝の軍隊がアムール川流域のロシアの拠点であったアルバジン要塞を攻略した際、捕虜となった数十人のコサックが北京へと移送されました。これらのロシア人捕虜は「アルバジン人」と呼ばれ、康熙帝は彼らを厚遇し、清の八旗軍の中でも精鋭である鑲黄旗に編入しました。彼らには住居や俸給が与えられ、仏教寺院の一つが彼らの礼拝のために提供されました。同行していたマキシム・レオンティエフ神父は、この寺院を正教会の礼拝堂として使用し始めました。
このアルバジン人のコミュニティの存在が、ロシアが北京に公式な教会を設立する口実となりました。ピョートル大帝は、1700年の時点で既に北京への伝道所設置に関心を示していました。1712年にマキシム神父が亡くなると、後任の聖職者を派遣する必要性が高まり、1715年、イラリオン・レジャイスキー修道院長が率いる最初の公式な伝道団が北京に到着しました。そして、キャフタ条約によって、この伝道所の存在が法的に追認され、聖職者3名と学生数名の定期的な交代派遣が制度化されたのです。
宗教施設としての役割
伝道所の第一の役割は、北京に住むアルバジン人やロシア人商人のための宗教活動でした。カトリックの宣教師たちが積極的に布教活動を行ったのとは対照的に、ロシア正教会の伝道所は、清国政府との摩擦を避けるため、中国人に対する布教には慎重な姿勢を保ちました。彼らの活動は、主に既存の信者の信仰生活を支えることに限定されていました。この方針のおかげで、清朝期に時折見られたキリスト教弾圧の対象となることを免れることができました。
伝道所は、当初アルバジン人が住む地区に与えられた聖ニコライ聖堂(北館)に加え、キャフタ条約後に清国政府から提供された大使館地区の敷地にも主の迎接聖堂(南館)を建設し、活動の拠点を広げました。
外交機関としての機能
19世紀半ばに恒久的な外交使節が交換されるまで、北京には西欧諸国の外交公館は存在しませんでした。その中で、ロシアの伝道所は、事実上の大使館として機能するという特異な地位を占めていました。伝道所の長は、ロシア政府の非公式な代表として清の役人と接触し、両国間の様々な問題について交渉を行いました。1860年の北京条約の交渉の際には、当時の伝道所の長であったグリイ(カルポフ)修道院長が、中国語の知識を活かして交渉に積極的に関与したことも知られています。
中国研究(シノロジー)の拠点として
伝道所の最も永続的な功績の一つは、ロシアにおける中国学の揺りかごとなったことです。キャフタ条約の規定により、伝道所にはロシアから言語を学ぶための学生が派遣されました。彼らは、満州語、中国語、モンゴル語といった現地の言語を習得するとともに、中国の歴史、文化、宗教、政治制度について深く学ぶことが義務付けられていました。
ここで学んだ多くの人々が、帰国後、ロシアの大学や外務省で活躍し、ロシアの対中政策の策定や学術研究において中心的な役割を果たしました。彼らは、中国の古典や歴史書をロシア語に翻訳し、中国に関する膨大な知識をロシアにもたらしました。19世紀を通じて、伝道所はロシアの中国研究における比類なき情報収集・分析センターであり続けました。
その後の変遷
19世紀後半になると、ロシアが清と正式な外交関係を樹立し、北京に公使館を設置したことで、伝道所の外交的機能は低下しました。しかし、宗教施設および学術研究の拠点としての役割は続きました。1900年の義和団事件では、伝道所は破壊され、多くの信者が犠牲になるという悲劇に見舞われましたが、その後ロシア政府の資金援助により再建されました。
1917年のロシア革命後、伝道所は中国へ逃れてきた多くの白系ロシア人難民を支援する拠点となりました。しかし、1949年の中華人民共和国成立後、宗教に対する締め付けが厳しくなり、1956年には外国人聖職者が国外退去を命じられたことで、約240年にわたる北京のロシア正教伝道所の歴史は幕を閉じることになりました。
条約の歴史的意義と長期的影響
キャフタ条約は、1727年の締結から19世紀半ばまでの約130年間にわたり、ロシア帝国と清王朝の関係を規定する基本的な枠組みとして機能しました。その影響は、単に二国間の関係にとどまらず、中央ユーラシア地域の地政学的な構造にも大きな変化をもたらしました。
国境の安定化と両帝国の勢力圏の確定
キャフタ条約の最も直接的かつ重要な成果は、ネルチンスク条約で未画定であったモンゴル方面の広大な国境線を画定したことです。これにより、両国の間に明確な境界が引かれ、国境紛争の主な原因が取り除かれました。この安定した国境線は、今日のロシアとモンゴルの国境の原型となっています。
国境が確定したことで、両帝国は互いに背後の憂いを断ち、それぞれの主要な関心事に集中することが可能になりました。ロシアは、東方での国境問題を解決したことで、ピョートル大帝以来の国家目標であったヨーロッパ方面への進出と、大国としての地位確立に一層注力することができました。一方、清王朝は、北方からのロシアの脅威が減少したことで、西方への勢力拡大に乗り出すことが可能となり、1750年代には長年の宿敵であったジュンガル部を滅ぼし、新疆(東トルキスタン)を版図に組み入れることに成功しました。このように、キャフタ条約は、両帝国がそれぞれの方向で膨張していくための前提条件を整えたと言えます。
モンゴルへの影響
キャフタ条約は、ロシアと清という二つの巨大な定住帝国が、中央ユーラシアの遊牧民の世界を分割する画期的な出来事でした。条約によって国境線が引かれたことで、それまで広大な草原を自由に移動していたモンゴル系の遊牧民は、ロシアか清のいずれかの臣民として固定されることになりました。これは、モンゴル民族の政治的な分断を決定づけるものであり、彼らの自律性を大きく損なう結果となりました。かつて世界帝国を築いたモンゴルの民は、この条約によって二大帝国の狭間で生きることを余儀なくされたのです。
特異な二国間関係の構築
キャフタ条約は、当時の清が他の国々とは結ばなかった、特異で対等な関係をロシアとの間に築いたことを示しています。18世紀当時、清は中華思想に基づき、ほとんどの外国を朝貢国として扱っていました。しかし、ロシアに対しては、陸続きの強力な隣国であるという現実認識から、より対等なパートナーとして接しました。
条約によって制度化されたキャフタでの免税貿易や、北京への公式キャラバンの派遣許可は、広東でのみ厳しく管理された貿易を許されていた西欧諸国とは一線を画すものでした。また、北京におけるロシア正教伝道所の設置許可や、ロシア使節に対する叩頭の礼の免除といった措置も、ロシアに与えられた特別な地位を象徴しています。このような関係は、清の伝統的な対外関係のあり方における例外であり、ロシアが有していた軍事的・政治的な影響力の大きさを物語っています。
条約体制の終焉
キャフタ条約によって確立された安定した関係は、19世紀半ばに大きく揺らぎます。アヘン戦争(1840-42年)での清の敗北は、東アジアにおける力の均衡が劇的に変化したことを示しました。清の弱体化を好機と見たロシアは、キャフタ条約体制の見直しを迫り、より積極的な東方進出を開始します。
1858年のアイグン条約と1860年の北京条約によって、ロシアはネルチンスク条約で定められた国境線を覆し、アムール川左岸およびウスリー川以東の沿海州(外満州)を獲得しました。これにより、キャフタ条約とネルチンスク条約によって維持されてきた国境線は根本的に変更され、1世紀半近く続いた「キャフタ体制」は終焉を迎えました。これ以降、中露関係は、ロシアが優位に立つ不平等条約の時代へと移行していくことになります。
しかし、キャフタ条約が築いた国境画定、通商、外交に関する基本的な枠組みは、その後の両国関係の基礎となり続けました。この条約は、異なる文明を持つ二つの巨大な帝国が、武力だけでなく外交交渉を通じて長期的かつ安定的な関係を構築しようとした、近代初期の国際関係史における重要な事例として、今日でも高く評価されています。
キャフタ条約(1915年)
1727年の条約とは別に、同じキャフタの地で1915年5月25日に締結されたもう一つの重要な条約が存在します。これは、ロシア帝国、中華民国、そしてモンゴルのボグド・ハーン政権の三者間で結ばれたもので、一般に「三国協約」とも呼ばれます。
1911年、清王朝で辛亥革命が起こり、その支配が揺らぐと、外モンゴルは独立を宣言し、ボグド・ハーンを君主とする政権を樹立しました。しかし、新たに成立した中華民国はこの独立を認めず、モンゴルに対する宗主権を主張しました。一方、ロシアはモンゴルにおける自国の影響力を確保するため、モンゴルの独立を支持しつつも、中国との全面的な対立は避けたいと考えていました。
このような複雑な状況を調整するために、三者による交渉が行われ、キャフタで条約が締結されました。
この条約の主な内容は以下の通りです。
外モンゴルは、中華民国の宗主権下にある「自治」地域として認められる。
ロシアと中華民国は、外モンゴルの自治を承認する。
モンゴルは、政治的・領土的な問題に関して外国と国際条約を締結する権利を持たない。
この条約により、モンゴルは1911年に宣言した完全な独立を否定され、中国の宗主権下での自治という地位に甘んじることになりました。モンゴル側にとって、これは不本意な結果でした。しかし、事実上、外モンゴルは中国の直接的な支配から脱し、ロシアの強い影響下に置かれることになりました。
この1915年のキャフタ条約は、1917年のロシア革命と1921年のモンゴル人民革命によって、その効力を失うことになりますが、20世紀初頭のモンゴルの地位をめぐる国際関係を規定した重要な文書として歴史に記録されています。