列強の接近
18世紀に入ると、ヨーロッパ諸国の世界進出が加速しました。ヨーロッパでは、17世紀に
ピューリタン革命(1642~49年)や
名誉革命(1688年)により、市民が
市民革命を達成し、その影響によりアメリカは1776年に
アメリカ独立戦争と
独立宣言を公布、フランスでは1789年に
フランス革命がはじまり、近代的な市民社会が出現しました。また、これ以後イギリスで
産業革命が始まり、さまざまな商品の生産性が爆発的に伸び、ヨーロッパ諸国は原料確保と商品を販売する新たな市場を求め、世界的に植民地争奪戦をはじめました。こうした状況の中、ロシア船やイギリス船が日本にも姿をあらわすようになりました。
極東開発に積極的だったロシアは、
シベリア開発を進め、最初に日本に接触してきました。日本と通商関係樹立を目指すロシアは、日本人漂流民を保護し、日本語の習得をはかりました。当時の皇帝
エカテリーナ2世(1729~96)は、積極的な対外政策を進め、千島列島を南下し、1778年(安永7年)蝦夷地の厚岸に来航し、松前藩に通商を求めましたが、翌年松前藩はこれを拒否しました。続いて、1792年(寛政4年)にロシア使節
ラクスマンが根室に来航し、漂流民
大黒屋光太夫を送還するとともに、日本との通商を求めました。徳川幕府は、外国交渉は長崎以外で行わないとし、信牌を与え長崎港へ向かわせました。ラクスマンが交渉の中で江戸湾への来航を希望したことから、幕府は江戸湾の防備強化を検討し、松平定信は自ら相模・伊豆の沿岸を見分しました。
田沼意次により、蝦夷地を幕府が直轄とする政策は、寛政の改革とともに撤回されました。しかし、1789年(寛政元年)に、場所請負商人の不正と搾取に抵抗したアイヌが
クナシリ・メナシの蜂起を起こすと、幕府は大きな衝撃を受けました。寛政の改革で北国郡代を新設し北方の防備に当たらせる計画が建てられましたが、松平定信の失脚により実現しませんでした。1796年(寛政8年)には、イギリス人
プロートンが室蘭(絵鞆)に来航し、日本近海の海図作成のため測量する事件が起こりました。これをきっかけに、幕府は1798年(寛政10年)、
近藤重蔵や
最上徳内らに千島を調査させ、その翌年に東蝦夷地を直轄地とし、1802年(享和2年)に
箱館奉行を設けました。