大塩の乱
1832年~32年(天保3~4年)にかけて、収穫量が平年の半分以下という
天保の飢饉が起き、農村や都市で百姓一揆・打ちこわしが100件以上起き、特に1836年(天保7年)の飢饉の際に起きた郡内騒動・加茂一揆は、幕府に衝撃を与えました。大都市大坂にも飢饉の影響が及び、多くの餓死者が出ました。しかし、この非常事態にも関わらず、強欲な商人がたちは米を買い占め暴利を得て、大坂町奉行所は、貧民の救済策をとるどころか、幕府の指示で大量の米を大坂から江戸に廻送しました。大坂町奉行所の元与力で、陽明学者の
大塩平八郎(1793~1837)は、自分の蔵書を売るなどして貧民救済に奔走しましたが、窮民の救済と幕政の根本転換を求め、家塾洗心洞の門弟や民衆を動員して大塩の乱を起こしました。この乱で江戸の多数の家屋に火の手が上がりましたが、最終的に半日で幕府軍に鎮圧されました。大塩の乱は、幕府の元役人が首謀者ということもあり、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えました。同年には国学者の生田万が大塩の門弟と称して越後柏崎の代官所を襲った生田万の乱が起き、摂津能勢郡でも「大塩味方」を掲げた一揆が起こり、江戸でも大塩派の残党の蜂起が予告されるなど、不穏な情勢が続きました。一方江戸では、幕府が「お救い小屋」を建て窮民を収容したり、寛政の改革で設けた江戸会所の備蓄米や銭を民衆に与え、打ちこわしなどを未然に防ぎました。
天保の改革
大規模な凶作に伴う飢饉や、大塩の乱、財政難、モリソン号事件やアヘン戦争など海外情勢の変化など、幕府は内憂外患に悩まされていました。1841年(天保12年)徳川家斉の死後、
徳川家慶の信任を得た老中
水野忠邦は、こうした危機に対処するため、
天保の改革を行いました。この改革は「享保寛政の御政治」の復古を目指し、あらゆる階層に厳しい倹約令と風俗統制令を出しました。贅沢な消費を禁じ、町奉行支配地に211軒あった寄席を15軒に減らし、江戸歌舞伎三座を場末に移転させ、役者には市中で編み笠を被るよう命じました。出版統制令によりすべての出版物を幕府が検閲し、幕政に不都合な書物の取締りや、錦絵を禁止しました。また、風俗に悪影響を与えるとして人情本作者の
為永春水、合巻作者の
柳亭種彦らを処罰しました。
農村再生策も行われ、人返しの法を出し、農民を離村させないようにし、江戸の住民になることを禁じました。また、出稼ぎを領主の許可制とし、農村出身の江戸住民も長年江戸に家を構えている者以外の帰郷を命じ、人別改めを強化しました。
深刻な物価高騰に対して、株仲間の解散を命じ、それ以外の価格操作を行う可能性のある仲間や組合を解散させ、問屋の名称を使うことを禁じ、仲間以外の商人の自由取引を促しました。しかし、この時代の物価高騰は、主に金含有量の少ない低い価値の花柄が大量に流通したことと、商品流通の構造変化によるものだったため、ほとんど効果がありませんでした。
幕府は1840年(天保11年)に川越藩松平家を庄内へ、庄内藩酒井家を長岡へ、長岡藩牧野家を川越へ移す
三方領知替えという転封を命じました。しかし、徳川家斉の子女の縁組先の大名を優遇した政策であるとして有力外様大名が反対したため、この転封は撤回されました。幕府が大名に転封を命じながら実行できなかったことは幕府の実力の低下や幕府に対する諸藩の自立を促すことになりました。
水野忠邦は、幕府や将軍の権威を再度強化するため、巨額の費用をかけ67年ぶりに将軍が日光東照宮に参拝する日光社参を挙行しました。その上で、1843年(天保14年)に上知令を出し、江戸・大坂周辺の50万石を直轄地にしようとしましたが、諸大名の反発を招き実現せず、水野忠邦も失脚し、改革は失敗しました。