幕藩体制の統治機構
徳川幕府は、全国の諸大名を管理するため、強力な権力を有していました。特に財政面において、幕府は400万石という
直轄領(幕領・天領)を有しており、これに旗本知行地の300万石を加えると全国の石高3000万石に対し、700万石という莫大な収入源がありました。この他にも、全国の金・銀山、
江戸・京都・大坂・長崎・堺などの直轄都市からの献金や貿易の利益、
貨幣鋳造権も持っていました。
また、幕府は強力な軍事力も有していました。将軍直轄の旗本・御家人や、諸大名が負担する軍役により、7万人近い軍勢を維持しました。平時において、旗本は
大番・書院番・小姓組番に編成され、御家人は
徒士組・鉄砲百人組などに組織されました。これらを
番方といいます。これ以外にも、旗本は
勘定奉行・町奉行・大目付・目付代官などに、御家人は
与力・同心などの行政職につき、これを役方といいます。無職の旗本・御家人は
小普請組に入れられました。旗本の多くは
知行取で、御家人の多くは
蔵米を支給されました。
初代将軍徳川家康・2代将軍徳川秀忠の時代には、三河以来の譜代門閥(
大久保忠隣・酒井忠世・土井利勝ら)が年寄として重臣となり、それ以外にも、
僧の天海・崇伝・儒者の林羅山・商人の茶屋四郎次郎・後藤庄三郎などが家康の側近として仕えました。3代将軍徳川家光の時代に入ると、1635年(寛永12年)前後に
老中・若年寄・大目付・目付・三奉行という職制が成立しました。
幕府政治の中枢を担った年寄りが
老中で、定員は4名でした。最高職の
大老は
井伊家などの特定の譜代大名から選ばれましたが、これは常設ではなく、重要事項の合議にのみ加わりました。この他に、老中を補佐し旗本を監督する若年寄、大名を監察する大目付、旗本を監察する目付、寺社を統制する寺社奉行、幕僚の財政を担う勘定奉行、江戸の市制を担う町奉行などがいました。こうした幕府の要職は月番制で、重要事項に関しては合議制をとりました。また、老中・三奉行・大目付らは評定所を組織し、国境い訴訟などの重要な裁判を行いました。
地方では、朝廷の統制や西国大名の監視を行う
京都所司代が置かれました。京都・大坂・駿府には
城代と
町奉行が、その他の要地の伏見・長崎・佐渡・日光には
遠国奉行が置かれました。ほかにも、重要直轄地の関東・飛騨・美濃には
郡代が、他の直轄地には
代官が置かれ、民政を司りました。
全国の大名は領地や領民の支配機構の
藩の頂点に君臨し、はじめは
地方知行制をとりました。しかし、徳川幕府により大名の転封が盛んに行われるようになると、有力武士の在地性が次第になくなっていき、大名による
領内一円支配へと変わっていきました。17世紀なかばになると、各地の藩は地方知行制ではなくなり、郡奉行や代官が支配する蔵入地(直轄領)からの年貢を蔵米として支給する
俸禄制度へと変わっていきました。また、大名は独自の藩法を制定し、藩の政治は幕府政治の縮小版として整備されていきました。