江戸時代の儒学
江戸時代初期にさかんだった学問は
儒学と呼ばれる学問です。儒学は
朱子学、
陽明学、
古学にわけて考えることができます。ここでは朱子学についてみてみましょう。
朱子学の登場
戦国時代は徳川家康が天下をとったことで終焉し、時代は江戸時代へと変化していくことになります。江戸幕府は、戦国時代へと戻らないように(つまり他の武将から謀反をおこされないように)、様々な方法で国の整備を行なっていきます。外様大名を江戸から遠い場所に配置したり、士農工商の身分制度を作り、安定した封建社会を作ったこともその一環です。
朱子学とは
そんな中で、武士が学ぶべき学問というものも変化しました。信仰や武力ではなく、
道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする朱子学が盛んになります。
主な朱子学者
日本の朱子学は
藤原惺窩(ふじわらせいか)によって確立され、弟子の
林羅山の手によって幕府に取り入れられるようになります。
林羅山
林羅山は、空は高く地は低いのように、
万物には必ず上下があると考えました。これは人間社会においても同じで、父と子や主君と家来のように、上に来るものを敬わなければならないと説いたのです。この考え方は
上下定分の理と言い、幕府の考える秩序と一致するものだったのです。
ちなみにこの林羅山ですが、
方広寺証明事件の火付け役であるとも言われています。家康から4代将軍家綱の5代にわたって徳川家につかえ、江戸幕府の礎を築きました。
江戸幕府で引き継がれた朱子学の流れ
藤原惺窩、林羅山の朱子学の流れは、
木下順庵(5代将軍徳川綱吉につかえる)、
新井白石(6代将軍徳川家宣、7代将軍徳川家継につかえる)、
室鳩巣(8代将軍徳川吉宗につかえる)、
雨森芳洲らに引き継がれ、
朱子学は江戸幕府を支える学問となりました。
地方での朱子学の流れ
朱子学がさかんだったのは、江戸幕府だけではありませんでした。土佐では
南村梅軒が
南学(海南学派)と呼ばれる朱子学の宗派を築き、その流れが
谷時中、
野中兼山、
山崎闇斎らに引き継がれてきました。
山崎闇斎が、神道と儒学をコラボレーションさせて
垂加神道を唱えたということは覚えておきましょう。