徳川吉宗
当時財政難に陥っていた江戸幕府の再建に乗り出したのが、8代将軍、
徳川吉宗です。彼の行った政策を
享保の改革といいます。
享保の改革
この享保の改革は、
松平定信が行った寛政の改革、
水野忠邦が行った天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革のひとつと呼ばれており、この違いはテストでもよく聞かれるところなので、しっかりと抑えておいてください。
背景
当時の幕府の収入源は、農民から納められる年貢でした。この時期に飢饉が続いたことが幕府の財政を逼迫させていました。
また幕府の御家人たちは、給料は米でもらいそれを現金に変えて生活をしていました。ところがこの米の相場は一定なものではないので、同じ米の量であっても、毎回手に入る現金は不安定なものでした。そのような背景から、幕府や武士の財政が厳しくなっていたのです。
享保の改革は、財政の再建と幕府の体制の立て直しを図った改革です
優秀な人材の登用
それまで政策を担っていた
新井白石や
間部詮房(まなべあきふさ)らを解任し、家柄にしばられない人事を行いました。
大岡忠相(大岡越前守としても知られています)を南町奉行に抜擢したのは特に有名な人事です。
大岡忠相は、頻繁に火事に見舞われた現状を打破するために、
町火消し(消防隊)を結成させました。
法令の整備
■公事方御定書
犯罪と裁判についてフォーカスされた幕府の法律です。本来は幕府の領内のみで有効だったはずでしたが、いつの間にか全国に知られる法律となりました。
■相対済令
武士が商人にお金を借りるというこの時代、金銭的なトラブルが絶えず、奉行所の負担も相当なものでした。そこで幕府は、この金銭的なトラブルで奉行所に訴えを起こしてもとりあわない、当事者で解決しなさいという相対済令を発令したのです。
■足高の制
付いている役職によって、給料(もらえる米)を明確に定めました。
■目安箱
町に目安箱と呼ばれる箱を設置しました。
これは庶民が幕府に言いたいことを伝えるための意見箱です。実際に吉宗自らこの意見に目を通し、庶民の要望から、
小石川養生所を設置しました。
財政再建
■倹約令
すべての藩に倹約を行うよう倹約令を出して、無駄な支出を抑えるよう命じました。
上米の制
所領1万石につき100石を幕府に納めるよう諸藩に命じました。
ただ納めるように言い渡しただけでは、家臣から反感を買ってしまいますので、その代わりに
参勤交代の期間を1年から半年にするという条件つきでした。
年貢の率を一定に
年貢の数え方を
検見法から
定免法に変更しました。
検見法とは、毎年の米の収穫に合わせて、納める年貢を決めるというやり方でしたが、それを
収穫量に関係なく、毎年同じ量の年貢を納めるように言い渡したのです。これによって幕府は安定した収入を得られるようになりました。
一方で年貢を納める農民たちにとっては、豊作であっても不作のであっても納める年貢が同じですので、前者の場合には問題がありませんが、後者の場合には大変な苦労を強いられたようです。
まとめ
このように、吉宗は米を中心として財政を回復させようとしたことから
米将軍の異名をとっています。
江戸の三大改革の中で、一番抗力を発揮したのはこの享保の改革でした。