天皇と朝廷の統制
1611年(慶長16年)、
後水尾天皇(位1611〜29)を擁立した徳川家康は、皇家の即位にまで武家の力が及ぶことを示し、1613年(慶長18年)には公家衆法度5カ条を出し、公家を統制しました。公家諸法度は公家の役目を学問に励み禁裏小番を勤めることなどを規定したものでした。また、1615年(元和元年)に
禁中並公家諸法度を制定し、皇親政治を防ぐために摂家の役割を重視し、武家の官位授与を幕府の許可制にし、諸大名と朝廷が結びつくことを防止しました。
また、京都には
京都所司代・禁裏付武家を設置し、朝廷を監視させ、摂家(関白・三公)に朝廷統制の権限を与え、
武家伝奏を通じ、幕府の意向を朝廷に伝えられるようにしました。1663年(寛文3年)に、議奏を設置し、忙しくなった武家伝奏を公家に補佐させました。
こうして天皇・公家に対する徳川幕府の統制が始まる中、1627年(寛永4年)に大徳寺・妙心寺の入院・出世が勅許紫衣之法度に反するといい、これに抗議した大徳寺
沢庵を出羽国などに流し、1615年(元和元年)以来幕府の許可なく勅許された紫衣を剥奪しました。これを
紫衣事件といい、徳川幕府が朝廷の権限よりも上位にあると示す出来事でした。また、後水尾天皇は1629年(寛永6年)に幕府の同意を求めず譲位し、新たに女帝の明正天皇(位1629〜43)が即位しました。この即位にあたって役割を果たさなかった武家伝奏の中院通村を交代させ、これ以降幕府は厳重な朝廷統制を行うようになり、幕末まで続きました。