蜻蛉日記
かくなんと見つつふるほどに
かくなんと見つつふるほどに、ある日の昼つ方、大門の方に馬のいななく声して、人のあまたあるけはひしたり。木の間より見とほしやりたれば、ここかしこ直人あまた見えて、あゆみくめるは兵衞佐なめりと思へば、大夫よび出だして、
「今まできこえさせざりつるかしこまりとりかさねて、とてなんまゐりきたる」
といひいれて、木陰にたちやすらふさま、京おぼえていとをかしかめり。このころは、
「のちに」
といひし人ものぼりてあれば、それになほしもあらぬやうにあれば、いたくけしきばみたてり。
かへりごとは、
「いとうれしき御名(みな)なるを、はやくこなたにいりたまへ。さきざきの御不浄は、いかでことなかるべくいのりきこえん」
と物したれば、あゆみいでて高欄におしかかりて、まづ手水(てうづ)など物していりたり。よろづのことども言ひもてゆくに、
「むかし、ここは見給ひしはおぼえさせたまふや」
と問へば、
「いかがは。いとたしかにおぼえて。今こそかくうとくてもさぶらへ」
などいふを、思ひまはせば、物もいひさして声かはる心ちすれば、しばしためらへば、人もいみじと思ひて、とみに物もいはず。さて
「御声などかはらせたまふなるは、いとことわりにはあれど、さらにかくおぼさじ。よにかくてやみ給ふやうはあらじ」
など、ひがざまに思ひなしてにやあらん、いふ。
「「かくまゐらば、よくきこえあはめよ」などのたまひつる」
といへば、
「などか、人のさのたまはずとも、いまにてなん」
などいへば、
「さらばおなじくは今日出でさせたまへ。やがて御供つかうまつらん。まづはこの大夫のまれまれ京に物しては、日だにかたぶけば山寺へといそぐを見給ふるに、いとなんゆゆしき心ちしはべる」
などいへど、けしきもなければ、しばしやすらひてかへりぬ。
かくのみ出でわづらひつつ、人もとぶらひつきぬれば、又はとふべき人もなしとぞ心のうちにおぼゆる。