ウィーン体制の崩壊で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
二月革命
・
七月革命以降、
ルイ=フィリップが王位についた
七月王政のもと、フランスでもイギリスに続き産業革命が進展した。これにより産業資本家が成長したが、選挙制度は古く、全人口の1%に満たない金融家・大商人・大地主が選挙権を独占していた。こうした状況から、産業資本家や労働者を中心に制限選挙撤廃と普通選挙の実施をもとめ、選挙法改正運動が起こるようになった。
・この時代、政治活動など公開の集会を開くことが禁じられていたため、宴会で乾杯を唱える時を利用して演説し、
改革宴会という形で世論を変えていった。全国大会が1848年2月にパリで開催され、運動家が選挙法改正を政府に要求したが、
ギゾー内閣はこうした要求を拒否したため、1848年2月22日にパリで暴動が発生した。
・この暴動により、ギゾーが辞職し、二日後ルイ=フィリップがイギリスに亡命し、七月王政が終わった。これを
二月革命といい、その後全ヨーロッパに波及し、ウィーン体制は崩壊することとなった。
・二月革命の結果、
第二共和政(1848年2月~1852年12月)が成立し、ブルジョワ共和派で詩人の
ラマルティーヌや、
ルイ=ブランといった社会主義者が臨時政府を樹立した。
・ルイ=ブランら社会主義者により、失業者救済のため
国立作業場が作られた。ところが、社会主義化によって土地が奪われることを恐れた市民や農民が反労働者の立場をとったため、四月総選挙の際、社会主義者が惨敗した。6月には、国立作業場が廃止されたことに反対し社会主義者や労働者が
六月暴動を起こしたが、政府軍によって鎮圧された。
・1848年12月には、大統領選が行われ、六月暴動を鎮圧した
カヴェニャックと、ナポレオン1世の甥の
ルイ=ナポレオンが争った。選挙の結果、ルイ=ナポレオンが当選し、大統領となった。
諸国民の春
・二月革命の影響は大きく、ヨーロッパ各地で様々な革命が起こった。この状況を「
諸国民の春」という。
・オーストリアでは、
ウィーン三月革命がおこり、
メッテルニヒが失脚し、ウィーン体制が崩壊した。
・ハンガリーでは、愛国者
コッシュートによりハンガリー民族運動が展開されたが、ロシアの援助を受けたオーストリア軍により鎮圧された。
・プラハでは、
ベーメン民族運動が起こったが、オーストリア軍に鎮圧された。
・ポーランドでは、革命政権が誕生したが、ロシア軍によって鎮圧された。
・1848年6月には、オーストリア内のスラヴ民族の結束を目的に
スラヴ民族会議が開かれた。
・クロアチアの政治家
イエラチッチや、チェコの政治家
パラツキーはこうした独立運動の鎮圧を主導した。
・イタリアでは、1848年3月に
ミラノや
ヴェネツィアで暴動がはじまり、民族運動がおこった。
サルディーニャ王国はオーストリアに宣戦布告したが、1849年3月に敗北した。また、
マッツィーニ率いる
青年イタリアが49年2月に
ローマ共和国を成立させたが、フランス軍により崩壊した。
・ドイツでは、1848年3月18日に
ベルリン三月革命がおこり、ドイツ初の議会である
フランクフルト国民議会が開かれた。ドイツ統一のため、オーストリアを含めた
大ドイツ主義とオーストリアを除き、プロイセン中心の
小ドイツ主義が対立し、プロイセン国王
フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が帝位をにつくことを拒否したため、その後議会は解散させられた。
社会主義思想の誕生
・産業革命以降、社会的不平等が広がる中、その根源を
私有財産にあるとし、生産手段の公有化により経済上の平等をもとめる
社会主義思想が誕生した。
・マルクス以前の社会主義を
空想的社会主義といい、イギリスの
ロバート=オーウェン、フランスの
サン=シモン、
フーリエらが代表的な空想的社会主義者である。
・また、国家や政府を否定し、個人の完全な自由を目指す
無政府主義(アナーキズム)という思想も誕生し、
プルードンや
バクーニンらが主張した。
・空想的社会主義に対し、科学的社会主義を創始したのがマルクスやエンゲルスである。1848年2月、マルクスとエンゲルスは『
共産党宣言』を発表し、人類の歴史を階級闘争であるとし、資本主義社会打倒と社会主義社会の成立を目指し、労働者の国際的な連帯を呼びかけた。