イタリア・ドイツの統一で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
イタリアの統一
・長い間分裂していたイタリアでは、次第に
リソルジメント(再興)という統一運動が活発になっていった。ジェノヴァ出身の革命家
マッツィーニが結成した「
青年イタリア」は民衆運動を先導し、1849年
ローマ共和国を樹立するが、フランス軍の干渉で倒された。
・こうした中、1720年に成立した北イタリアとサルディーニャ島からなる
サルディーニャ王国が統一の中心となっていった。国王カルロ=アルベルトは二月革命の影響を受け、オーストリアに宣戦したが敗れ、退位した。その後、息子の
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位し、
カヴールを首相に起用し、統一を進めていった。
・カヴールは国際関係を重要視し、イタリア統一の援助を受けるため、フランスの
ナポレオン3世に接近した。1855年、サルディーニャはイギリスとフランスの要請をうけ、オスマン帝国側について
クリミア戦争に参戦した。この結果、サルディーニャの国際的な地位向上と、フランスとの関係が親密になった。
・1858年、カヴールとナポレオン3世は
プロンビエールの密約を結び、
サヴォイア・ニースの割譲と引き換えに、フランスがサルディーニャを支援することが決められた。
・1859年4月、フランスとサルディーニャのプロンビエール密約を知ったオーストリアから宣戦し、
イタリア統一戦争がはじまった。援助を受けたサルディーニャは各地で連勝したが、隣国に強力な国家が誕生することを恐れたナポレオン3世は、単独でオーストリアと講和をむすんだため、サルディーニャはロンバルディアしか獲得できず、ヴェネツィアは依然としてオーストリアに残った。
・こうした中、カヴールは中部イタリアの併合をめざし、サヴォイア・ニースと引き換えに、ナポレオン3世の合意を取りつけ、1860年中部イタリアの統合が達成された。
・イタリア南部では、カヴールの支援を受けた青年イタリアの
ガリバルディが
赤シャツ千人隊を率いてシチリアに上陸し、その後イタリア南部を占領した。この共和主義勢力の拡大にカヴールは策略を巡らせ、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世とガリバルディの会見を実現し、その際ガリバルディの占領地をサルディーニャ王に献上させた。こうして1861年、トリノを首都とし、ヴェネツィア・教皇領を除く
イタリア王国が成立した。その後、
普墺戦争時にヴェネツィア、
普仏戦争時に教皇領が王国に編入した。しかし、トリエステや南チロルなど、「
未回収のイタリア」という地域の問題が残った。(1919年のサン=ジェルマン条約でイタリア領に編入)
ドイツの統一
・1861年に、
ヴィルヘルム1世がプロイセン王に即位すると、ユンカー出身の
ビスマルクを首相に任命した。ビスマルクは、鉄血政策という軍備拡張政策を推進し、プロイセンでは、
クルップに代表される軍需産業が成立した。
・1864年には、オーストリアとともにデンマークと戦い、
シュレスヴィヒと
ホルシュタインを獲得した。1866年には、この州の管理をめぐりオーストリアと
普墺戦争が起こるが、たった7週間でプロイセンの勝利に終わる。
・1867年には、ドイツ連邦が解体され、新たにプロイセン王を盟主とする
北ドイツ連邦が発足した。
・一方オーストリアは、普墺戦争の敗戦と自国内のナショナリズム高揚を抑えるため、
アウスグライヒという妥協政策でハンガリーに自治権を与え、新たに
オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。
・プロイセンが強国となっていく状況に対し、フランスの
ナポレオン3世は危機感を覚えていた。こうした中、
スペイン継承問題が生じ、この時ビスマルクが電報の内容を改ざんし、
エムス電報事件をおこした。フランス側はこの事件に反発、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告し、
普仏戦争(1870年7月〜1871年2月)がおこった。この戦争では、
セダンの戦いに敗れたナポレオン3世が捕虜となり、
フランス第二帝政は崩壊した。普仏戦争の最中、パリを包囲したビスマルクは、
1871年
ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝の戴冠式を行い、
ドイツ帝国(1871〜1918)の成立を宣言した。
・ドイツ帝国は
連邦制国家となったが、立憲君主制は形式的なものにとどまった。南ドイツを中心とする中央党とは、
文化闘争が起こったが、教皇ピウス9世の死により、こうした闘争もなくなった。
・1878年に皇帝狙撃事件が起こると、ビスマルクは、これを契機とし
社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義者を弾圧するようになった。一方、労働者の保障制度として、
疾病保険制度・災害保険法・養老保険法などを整備し、現在の世界の社会福祉政策の基礎を作った。
・普仏戦争の
フランクフルト講和条約で、ドイツは
50億フランの賠償金と、
アルザス・ロレーヌを獲得した。そのため、フランスはドイツにとって最も警戒するべき国となり、フランスの孤立化を図るようになった。1882年にドイツ・オーストリア・イタリアの
三国同盟が成立し、1887年にはドイツ・ロシア間で
再保障条約が締結された。このフランスの孤立化を目指す国際体制を、
ビスマルク体制という。