ウィーン体制のほころび
ドイツの
ブルシェンシャフト、スペインの
立憲革命、ロシアの
デカブリストの乱など、ヨーロッパで起こった自由主義運動は次々に弾圧され、ウィーン体制は盤石になったように見えました。
しかし、フランス革命を通じて生まれた新しい思想は、海をこえてヨーロッパの植民地だった
中南米(ラテン=アメリカ)各国にも伝わっていました。
(ラテン=アメリカ)
こうしてラテン=アメリカの独立運動がはじまり、それは次第にウィーン体制のほころびになっていきます。
中南米(ラテン=アメリカ)諸国の独立運動
フランス革命の思想が伝わったことがきっかけとなり、18世紀以降中南米(ラテン=アメリカ)諸国の独立の機運が高まりました。
ラテン=アメリカとは、正確にいうとメキシコから南に位置する中南米の国々を指します。この地域は、スペイン、フランス、ポルトガルの植民地となっていました。
ナポレオン戦争が起こると、ヨーロッパの混乱に乗じて、1810年以降独立運動が行われるようになっていきます。
なぜ、この地域で独立が目指されるようになったのか。大きな動機の一つが、ラテン=アメリカ社会あった人種差別でした。
当時、植民地では宗主国から派遣され、さまざまな特権を付与された本国人と、植民地人との間に大きな差別があり、植民地の人々は本国人に搾取されていました。植民地生まれの人々は以下の呼ばれ方をしていました。
クリオーリョ | 植民地生まれの白人で、地主階級。独立運動の中心になった。 |
メスティーソ | 白人とインディオの混血者。クリオーリョの独立運動を支持。 |
ムラート | 白人と黒人の混血者。社会的差別を受け、解放を望んだ。 |
植民地生まれの人々は、宗主国の植民地支配と、特権を持つ本国人との差別に反発して、独立運動を起こしたんですね。