ウィーン体制で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
ナポレオン戦争後のヨーロッパ
・
1814年9月~1815年6月にかけて、
フランス革命や
ナポレオン戦争により荒廃したヨーロッパの秩序を再建するため、
ウィーン会議が開かれた。会議には、
メッテルニヒ(墺)、カッスルレー(英)、タレーラン(仏)、アレクサンドル1世(露)、ハルデンベルク(普)らが参加し、メッテルニヒが主導し、会議が進められた。
・ウィーン会議は、フランス外相タレーランが唱えた
正統主義や
勢力均衡などを基本原則としたが、ヨーロッパ各国は自国の利益を優先したため会議は紛糾し、「
会議は踊る、されど進まず」と風刺された。しかし、1815年2月にナポレオンがエルバ島を脱出し、皇帝に復位すると各国は妥協点を模索しはじめ、
ワーテルローの戦いの直前に
ウィーン議定書が成立した。
・
1815年6月に調印されたウィーン議定書では、ブルボン朝復活や以下の領土変更が決まった。
(1)フランス・スペイン・ナポリでブルボン朝が復位。
(2)ローマ教皇領復活
(3)サルディーニャがサヴォイア・ジェノヴァを獲得。
(4)ロシア皇帝を王とするポーランド王国が成立。
(5)プロイセンがザクセンの一部とライン川左岸を獲得。
(6)35の君主国・4つの自由市からなるドイツ連邦が成立。
(7)イギリスがオランダからセイロン・ケープ植民地・マルタ島を獲得。
(8)オランダが南ネーデルラント(ベルギー)を獲得。
(9)オーストリアがイタリアのロンバルディア・ヴェネツィアを獲得。
(10)スウェーデンがフィンランドをロシアに、西ポンメルンをプロイセンに割譲し、代償としてノルウェーを獲得。
(11)スイスを永世中立国とする。
神聖同盟・五国同盟の成立
・ウィーン体制の維持を目的に、1815年9月にロシア皇帝
アレクサンドル1世が提唱し、
神聖同盟が成立した。神聖同盟はキリスト教精神に基づく君主間の盟約で、
イギリス・オスマン帝国・ローマ教皇以外の全ヨーロッパの君主が参加した。
・1815年11月には、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの間に、軍事・政治的同盟として
四国同盟が成立した。
1818年にはフランスの参加が認められ、
五国同盟となり、ウィーン体制を強化した。
ナショナリズム・自由主義運動の高揚
・ウィーン体制は、ナポレオンによってヨーロッパ各地に広がった
ナショナリズムや
自由主義運動を抑圧する体制であったため、ヨーロッパ各地で抵抗運動が起きた。
・ドイツでは、1815年にイエナで
ブルシェンシャフトという学生組合ができ、ドイツの各大学に広まった。1817年、ドイツ宗教改革300年祭をきっかけに
ヴァルトブルクの森で大規模な集会が開かれたが、
1819年、メッテルニヒ主導のもと
カールスバード決議がきまり、自由主義・国民主義運動の弾圧が行われた。
・イタリアでは、
1820年から
1821年にかけて秘密結社の[rカルボナリed]がナポリやピエモンテで革命運動を起こしたが、オーストリア軍の干渉で壊滅した。
・スペインでは、
1820年に
リェーゴが立憲君主制を求め反乱を起こし、国王フェルナンド7世に憲法制定を承認させたが、その後
五国同盟の干渉を受け抑圧された。
・ロシアでは、反動的な
ニコライ1世の即位に反対した青年将校たちが
憲法制定・ツァーリズム廃止・農奴制廃止を求め1925年11月に
デカブリストの乱を起こしたが、皇帝側に鎮圧された。
・こうした抵抗運動はヨーロッパ各地で度々おこったが、ウィーン体制を維持する勢力にことごとく潰された。