ウィーン体制の動揺で押さえておきたいポイント
※赤字部分が問題に出そうな部分です。赤色の暗記シートなどで隠して見てください。
ラテンアメリカの独立運動
・ヨーロッパで盤石に見えた
ウィーン体制は、遠くラテンアメリカ諸国で独立運動がはじまったことによりゆらぎはじめた。
・ラテンアメリカでは
ナポレオン戦争中より、ヨーロッパの宗主国の混乱に乗じて、独立運動が活発になった。ラテンアメリカには、植民地生まれの白人である
クリオーリョ、白人とインディオの混血である
メスティーソ、白人と黒人の混血である
ムラートなどの人々がおり、それぞれの階層にわかれていたが、各階層ともに独立を望んだ。
・1780年には、トゥパク=アマル2世を名乗る人物により
トゥパク=アマルの乱がおこったが、鎮圧された。この反乱は失敗したものの、その後の独立運動に大きな影響を与えた。
・1791年、カリブ海のエスパニョラ島西部のフランス植民地で
サン=ドマングの蜂起がおこった。フランス革命の影響を受けた黒人奴隷が起こしたこの蜂起は、独立運動に発展した。その後も
トゥサン=ルーヴェルチュールの指導のもとナポレオン軍を撃退し、
1804年
ハイチ共和国(世界初の黒人共和国)として独立し、1825年フランスにも承認された。
・ラテンアメリカの独立は進み、
シモン=ボリバルや
サン=マルティン、
イダルゴなどの指導により、各地で新国家が誕生した。
ベネズエラ | 1811年独立。ミランダが独立を宣言。 |
ブラジル | 1822年に独立。 |
アルゼンチン | 1816年、サン=マルティンの指導で独立。 |
チリ | 1818年、サン=マルティンの支援をうけ独立。 |
コロンビア | 1819年、ボリバルの援助をうけ独立。 |
ペルー | 1821年、サン=マルティンの支援をうけ独立。 |
メキシコ | 1810年、イダルゴの指導で独立。 |
ボリビア | 1825年に独立。ボリバルの名を国名に取り入れた。 |
・こうした南米諸国の独立と誕生に対し、ウィーン体制を指導するメッテルニヒは弾圧を計画するが、アメリカとイギリスの反対にあい、失敗した。
・アメリカでは、第
5代大統領
モンローが1823年に
モンロー宣言(教書)を打ち出した。これは、ヨーロッパ諸国のラテンアメリカ独立への干渉と、ロシアの南下政策に反対して出された声明で、ヨーロッパ諸国とアメリカ大陸諸国の相互不干渉を主張し、ウィーン体制諸国のラテンアメリカ独立干渉を排除した。
・また、自国商品の市場をもとめたイギリスも、外相
カニングによりモンロー宣言が支持され、ラテンアメリカ独立を支援した。
ギリシア独立戦争
・ラテンアメリカ諸国の独立と同時期、当時
オスマン帝国の支配下にあった
ギリシアでも独立運動がはじまった。
・19世紀はじめに、
イプシランティが
ヘタイリアという秘密結社をつくり、独立を目指した。
1821年から武力闘争が始まったが、オスマン帝国はエジプトともに
キオス(シオ)島の虐殺など徹底的な弾圧をおこなった。
・ヨーロッパ諸国では、知識人を中心にギリシアを支援する動きがおこった。イギリスの詩人
バイロンは義勇兵として参戦し、フランスのロマン派画家
ドラクロワは「
シオの虐殺」を描き、独立を支持する世論を作り上げた。
・こうして、
ロシア・イギリス・フランスはギリシア独立戦争を支援し、
1827年
ナヴァリノの海戦でオスマン帝国を撃破した。1829年にロシアとオスマン帝国の間で
アドリノープル条約がむすばれ、ロシアが黒海北岸を獲得し、ギリシアの独立が承認された。翌年
1830年に
ロンドン会議が開かれ、イギリス・フランスも独立を承認し、ギリシアの完全独立が達成された。