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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

マイソール王国とは わかりやすい世界史用語2390

著者名: ピアソラ
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マイソール王国の起源と初期の歴史

マイソール王国は、1399年に現在のインド南部、カルナータカ州に位置するマイソールの地で誕生しました。その起源は、伝説によれば、ヤーダヴァの血を引くとされるヤドゥラーヤとクリシュナラーヤの二人の兄弟が、この地を訪れたことに始まります。当時、この地域はハディナードゥと呼ばれ、チャームンディーシュワリー女神の加護のもと、地元の首長によって統治されていました。伝説では、この首長が亡くなり、その娘が隣国の強力な首長であるマーラナハッリの首長から望まぬ結婚を強いられていたとされています。ヤドゥラーヤ兄弟は、この状況に介入し、マーラナハッリの首長を打ち破り、王女と結婚することで、この地の新たな支配者となりました。これが、マイソールを拠点とするウォデヤール朝の始まりとされています。
初期のウォデヤール朝の支配者たちは、当時南インドで絶大な力を持っていたヴィジャヤナガル帝国の封臣、つまり家臣という立場でした。彼らは帝国に対して貢物を納め、軍事的な協力をする見返りに、マイソール周辺の限られた地域の統治を認められていました。この時代のマイソール王国は、まだ小さな領主国に過ぎず、その領土は現在のマイソール市とその周辺地域に限られていました。彼らの主な役割は、ヴィジャヤナガル帝国の南の辺境を守り、地域の安定を維持することでした。15世紀から16世紀にかけてのウォデヤール朝の支配者たちは、ヴィジャヤナガル皇帝への忠誠を誓いながら、少しずつ自らの足場を固めていきました。彼らは寺院の建設や灌漑施設の整備などを通じて、領内の統治基盤を強化し、民衆の支持を得ようと努めました。
しかし、1565年のターリコータの戦いでヴィジャヤナガル帝国がデカン・スルターン朝の連合軍に決定的な敗北を喫すると、南インドの政治情勢は大きく変動します。この敗北により、ヴィジャヤナガル帝国の中央集権的な支配力は急速に弱まり、かつて帝国に従っていた多くの封臣たちが、自立の道を模索し始めました。マイソール王国もこの好機を逃しませんでした。ヴィジャヤナガル帝国が衰退していく過程で、ウォデヤール朝の支配者たちは、巧みな外交と軍事行動によって、徐々にその影響力を拡大していきました。
この時期に特に重要な役割を果たしたのが、16世紀後半から17世紀初頭にかけて在位したラージャ・ウォデヤール1世です。彼は、ヴィジャヤナガル帝国の衰退という歴史の転換点を巧みに利用しました。1610年、彼はヴィジャヤナガル帝国の総督が置かれていたシュリーランガパトナを占領し、マイソール王国の首都をマイソールからこの地へ移しました。シュリーランガパトナはカーヴェーリ川の中州に位置する天然の要害であり、この地を首都と定めたことは、王国の防衛力を大きく高めると同時に、さらなる領土拡大のための戦略的拠点を得たことを意味しました。ラージャ・ウォデヤール1世は、ヴィジャヤナガル帝国の儀式や行政制度を積極的に取り入れ、王国の統治体制を整備しました。例えば、有名なマイソールのダサラ祭りを、ヴィジャヤナガル帝国の壮麗な祭典に倣って始めたのも彼です。これにより、マイソール王国は単なる地方勢力から、ヴィジャヤナガル帝国の正統な後継者として、その文化と権威を受け継ぐ存在であることを内外に示そうとしました。この時代を通じて、マイソール王国はヴィジャヤナガル帝国の封臣という立場から脱却し、南インドにおける独立した有力な王国として、その地位を確立していくことになります。



領土拡大と権力の確立

17世紀は、マイソール王国がその領土を飛躍的に拡大させ、南インドの主要な政治勢力としての地位を不動のものとした時代でした。この時代の躍進を主導したのは、カンテイーラヴァ・ナラサーラージャ1世と、その後継者であるチッカ・デーヴァラージャ・ウォデヤールの二人です。彼らの治世下で、マイソール王国は単なる地方の小国から、広大な領土と強力な軍事力を有する一大勢力へと変貌を遂げました。
カンテイーラヴァ・ナラサーラージャ1世は、1638年から1659年にかけて在位し、その治世は絶え間ない軍事遠征に彩られていました。彼は、ヴィジャヤナガル帝国の衰退に乗じて独立を画策する周辺の諸侯(ナーヤカ)たちを次々と討伐し、王国の領土を北へ、そして西へと拡大しました。特に、ビジャープル・スルターン朝からの侵攻を何度も撃退したことは、彼の軍事的な名声を高めました。彼はまた、王国の経済基盤を強化するため、貨幣制度の改革にも着手しました。自身の名を刻んだ貨幣を発行し、王国の経済的独立性を内外に示しました。さらに、彼は首都シュリーランガパトナの防備を固め、宮殿を拡張するなど、王権の象徴としての首都の威容を整えることにも力を注ぎました。
カンテイーラヴァの事業をさらに発展させたのが、1673年から1704年にかけて王国を統治したチッカ・デーヴァラージャ・ウォデヤールです。彼は、マイソール王国の歴史において最も偉大な統治者の一人と見なされています。その統治は、巧みな軍事戦略と、優れた行政手腕によって特徴づけられます。軍事面では、彼はタミル地方の有力なナーヤカであったマドゥライやタンジャーヴールにまで遠征軍を送り、その勢力圏を大きく広げました。彼はまた、当時南インドに進出してきたムガル帝国やマラーター同盟といった強大な勢力とも渡り合いました。時には彼らと戦い、時には巧みな外交交渉を通じて同盟を結ぶなど、柔軟な戦略で王国の独立を守り抜きました。特に、ムガル皇帝アウラングゼーブから「ラージャ・ジャガデーヴ」の称号と、象牙の玉座に座る特権を授かったことは、マイソール王国がムガル帝国からも公的に認められた有力な王国であることを示す象徴的な出来事でした。
しかし、チッカ・デーヴァラージャの真価は、その内政手腕にこそあります。彼は、王国の行政システムを根本から改革しました。彼は、中央集権的な官僚制度を導入し、18の部門からなる行政機構「アタラ・カチェーリ」を設立しました。これにより、税収の徴収、司法、軍事といった国家の重要機能が、王の直接的な管理下に置かれることになりました。特に、効率的な郵便・諜報システムを構築したことは、広大な領土の隅々まで王の命令を迅速に伝え、地方の動向を正確に把握することを可能にしました。このシステムは、反乱の芽を早期に摘み取り、中央集権体制を維持する上で極めて重要な役割を果たしました。さらに、彼は土地調査を実施して税制を改革し、国家の歳入を大幅に増加させました。ダムや運河の建設といった灌漑事業にも力を入れ、農業生産の向上を図りました。これらの改革によって、マイソール王国は強固な財政基盤と効率的な統治機構を持つ近代的な国家へと変貌を遂げたのです。チッカ・デーヴァラージャの治世の終わりには、マイソール王国は南インドにおいて、政治的、軍事的、そして経済的に最も強力なヒンドゥー王国としての地位を確立していました。
ハイダル・アリーとティプー・スルターンの台頭

18世紀半ば、マイソール王国は大きな転換期を迎えます。ウォデヤール朝の王たちは次第に実権を失い、名目上の君主となっていきました。代わって王国の実権を掌握したのが、一兵士から身を起こし、その卓越した軍事的才能と政治的手腕によって最高司令官、そして事実上の統治者にまで上り詰めたハイダル・アリーでした。彼の登場は、マイソール王国の歴史、ひいては南インド全体の歴史における新たな時代の幕開けを告げるものでした。
ハイダル・アリーは、1720年頃、マイソールの軍人の家庭に生まれました。彼は読み書きができなかったと言われていますが、生まれながらにして軍事的な才能に恵まれていました。彼は若い頃からマイソール軍に仕え、デカン地方で繰り広げられた数々の戦闘、特にカルナータカ戦争において頭角を現しました。彼は、当時インドに進出してきたフランス人から最新の軍事技術や戦術を学び、それを自軍の育成に取り入れました。特に、統制の取れた歩兵部隊と、強力な砲兵隊、そして機動力に優れた騎兵隊を組み合わせた近代的な軍隊を組織したことは、彼の成功の大きな要因となりました。彼はまた、ロケット兵器を改良し、大規模に運用したことでも知られています。この「マイソール・ロケット」は、当時の敵対勢力にとって大きな脅威となりました。
軍功を重ねたハイダル・アリーは、王国内での影響力を着実に増していき、1761年には、当時の宰相を追放し、自らが「サルヴァーディカーリ」、すなわち最高権力者の地位に就きました。彼はウォデヤール朝の王を名目上の君主として存続させつつも、王国のすべての権力をその手に収めました。これにより、マイソール王国は事実上、ハイダル・アリーによる軍事政権へと移行しました。彼は、チッカ・デーヴァラージャが築いた行政システムを継承しつつ、さらに効率化を進め、強固な中央集権体制を確立しました。彼の統治下で、マイソール王国はかつてないほどの軍事的・経済的繁栄を謳歌しました。
ハイダル・アリーの野心は、マイソール王国の国境を越えて、南インド全域に向けられました。彼は、マラーター同盟、ハイデラバードのニザーム、そして急速にインドでの影響力を拡大していたイギリス東インド会社といった周辺勢力と、覇権を巡って激しい争いを繰り広げました。特に、イギリスとの間で行われた第一次アングロ・マイソール戦争(1767年-1769年)では、ハイダル・アリーはイギリス軍を翻弄し、一時はイギリスの拠点であるマドラス(現在のチェンナイ)にまで迫る勢いを見せました。最終的に、彼はイギリスに有利な条件での講和条約を結ばせることに成功し、その名をインド中に轟かせました。
1782年にハイダル・アリーが癌で亡くなると、その地位は息子のティプー・スルターンに引き継がれました。ティプーは、父から強大な王国と精強な軍隊、そしてイギリスに対する深い敵愾心を受け継ぎました。彼は自らを「スルターン」と称し、父以上に精力的に王国の近代化と改革を推し進めました。「マイソールの虎」として知られるティプーは、父と同様に優れた軍事指導者であると同時に、革新的な統治者でもありました。彼は、新たな貨幣制度や暦を導入し、度量衡の統一を図りました。また、養蚕業や真珠の採取といった新しい産業を奨励し、フランスやオスマン帝国、アフガニスタンといった国外の勢力と積極的に通商・外交関係を築こうとしました。彼の統治下で、マイソール王国は独自の文化と経済システムを持つ、非常に組織化された国家へと発展しました。ティプー・スルターンは、単に父の遺産を受け継いだだけでなく、それをさらに発展させ、マイソール王国をその絶頂期へと導いたのです。彼の治世は、イギリスの植民地支配に対する抵抗の象徴として、後世に語り継がれることになります。
アングロ・マイソール戦争

18世紀後半、南インドの覇権を巡る争いは、マイソール王国とイギリス東インド会社との間で繰り広げられた4度にわたる「アングロ・マイソール戦争」という形で頂点に達しました。この一連の戦争は、インドにおけるイギリスの植民地支配の確立過程において、極めて重要な出来事でした。ハイダル・アリーとティプー・スルターンが率いるマイソール王国は、イギリスにとって、インドで遭遇した最も手強く、そして恐るべき敵の一つでした。
第一次アングロ・マイソール戦争(1767年-1769年)は、イギリスがハイデラバードのニザームと結び、マイソール王国に侵攻したことから始まりました。しかし、ハイダル・アリーは巧みな外交と軍事作戦でこの連合を切り崩し、戦況を逆転させます。彼はイギリスの同盟者であったカルナータカ太守の領土に侵攻し、最終的にはイギリスの拠点であるマドラスの城壁まで軍を進めました。不意を突かれたマドラスのイギリス当局は恐慌状態に陥り、ハイダル・アリーとの屈辱的な講和条約(マドラス条約)の締結を余儀なくされました。この条約は、相互の領土返還と、一方が攻撃された場合には他方が援助するという相互防衛協定を内容とするものでした。この勝利は、ハイダル・アリーの名声を不動のものとし、イギリスにとってはインドにおける手痛い敗北となりました。
しかし、この平和は長くは続きませんでした。マラーター同盟がマイソールに侵攻した際、イギリスはマドラス条約の相互防衛義務を履行しませんでした。この裏切りに激怒したハイダル・アリーは、復讐の機会をうかがっていました。1780年、アメリカ独立戦争に乗じてフランスがイギリスに宣戦布告すると、ハイダル・アリーはこれを好機と捉え、カルナータカ地方に大軍を率いて侵攻し、第二次アングロ・マイソール戦争(1780年-1784年)が勃発しました。緒戦において、ハイダル・アリーはポリルールの戦いでウィリアム・ベイリー大佐率いるイギリス軍部隊を壊滅させるなど、大きな戦果を挙げました。しかし、イギリスもアイル・クート将軍を派遣して反撃に転じ、戦線は膠着状態に陥りました。戦争のさなかの1782年、ハイダル・アリーは陣中で病死し、息子のティプー・スルターンが後を継ぎました。ティプーは父の遺志を継いで戦いを続け、イギリス西海岸の拠点であるマンガロールを占領するなど健闘しました。最終的に、ヨーロッパでの講和を受けて、1784年にマンガロール条約が結ばれ、戦争は終結しました。この条約は、再び戦前の状態への復帰と捕虜の交換を定めたもので、ティプー・スルターンにとっては有利な内容であり、彼の統治者としての地位を固めるものとなりました。
第三次アングロ・マイソール戦争(1790年-1792年)は、ティプーがイギリスの同盟国であったトラヴァンコール王国を攻撃したことをきっかけに始まりました。今回は、イギリスの総督であったコーンウォリス卿が自ら軍を率い、マラーター同盟とハイデラバードのニザームを味方につけて、マイソールに対する大包囲網を形成しました。ティプーは果敢に抵抗しましたが、圧倒的な兵力差の前に徐々に追い詰められていきました。イギリス軍はバンガロールを占領し、ついにマイソールの首都シュリーランガパトナに迫りました。追い詰められたティプーは、屈辱的な講和条約であるシュリーランガパトナ条約の締結を余儀なくされました。この条約により、ティプーは領土の半分を割譲し、莫大な賠償金を支払うこと、そして二人の息子を人質としてイギリスに差し出すことを約束させられました。この敗北は、マイソール王国にとって致命的な打撃となりました。
王国の再建と復讐を誓うティプーは、フランスのナポレオンやオスマン帝国、アフガニスタンなどと連携し、反英同盟の結成を模索しました。この動きを察知したイギリスは、当時総督であったリチャード・ウェルズリーの主導のもと、マイソール王国の完全な征服を決意します。1799年、第四次アングロ・マイソール戦争が勃発しました。イギリス軍は再びマラーターとニザームの協力を得て、二方向からシュリーランガパトナへと進軍しました。ティプーは各地で抵抗を試みましたが、イギリス軍の進撃を止めることはできず、首都での籠城戦を余儀なくされました。1799年5月4日、イギリス軍は城壁を突破し、市街戦が繰り広げられました。ティプー・スルターンは最後まで自ら剣を振るって戦いましたが、城門の近くで壮絶な戦死を遂げました。彼の死をもって、マイソール王国の独立は終わりを告げました。イギリスは、ハイダル・アリーとティプー・スルターンという最も手ごわい敵を排除し、南インドにおける覇権を確立したのです。
イギリス支配下の藩王国時代

1799年の第四次アングロ・マイソール戦争におけるティプー・スルターンの死と首都シュリーランガパトナの陥落は、マイソール王国の歴史における決定的な転換点となりました。イギリス東インド会社は、マイソール王国を完全に解体するのではなく、自らの支配下に置かれた「藩王国」として存続させる道を選びました。この決定の背景には、南インドにおける権力の空白を避け、地域の安定を維持するという政治的な計算がありました。イギリスは、ハイダル・アリーによって実権を奪われていたかつてのヒンドゥー教徒の王家であるウォデヤール家を、再び王位に就けることを決定しました。
こうして、わずか5歳の幼児であったクリシュナラージャ・ウォデヤール3世が、新たなマイソール藩王国のマハーラージャとして即位しました。しかし、彼の権力は名目上のものであり、実際の統治権はイギリスが握っていました。イギリスは、マイソール王国と「従属同盟条約」を締結しました。この条約により、マイソールは外交権と軍事権を完全にイギリスに委ね、イギリスの駐在官の指導のもとで内政を行うことを義務付けられました。また、王国の防衛をイギリス軍に依存する見返りとして、多額の補助金を毎年支払うことが定められました。王国の領土も大幅に縮小され、かつてティプー・スルターンが支配した広大な領域の多くは、イギリスの直接統治領や、同盟者であったハイデラバードのニザーム、マラーターに分割されました。首都も、ティプー・スルターンの抵抗の象徴であったシュリーランガパトナから、ウォデヤール朝の古都であるマイソール市へと戻されました。
当初、藩王国の統治は、元ティプー・スルターンの財務大臣であり、優れた行政手腕を持つディーワーン(宰相)のプールニヤに委ねられました。プールニヤは、イギリス駐在官の監督のもと、戦乱で荒廃した王国の再建に尽力しました。彼は税制を改革し、法と秩序を回復させ、公共事業を推進するなどして、王国の財政と行政を立て直しました。彼の10年以上にわたる統治は、マイソールに平和と繁栄をもたらし、「プールニヤの統治」として高く評価されています。
しかし、1811年にプールニヤが引退し、クリシュナラージャ・ウォデヤール3世が親政を開始すると、状況は一変します。若きマハーラージャは、藩王国の財政を顧みず、宮廷での浪費を重ねました。その結果、藩王国の財政は急速に悪化し、農民への課税は重くなる一方でした。重税と行政の腐敗に苦しんだ農民たちは、1830年、ついにナガル地方で大規模な反乱を起こしました。この反乱を鎮圧できなかったことを口実に、イギリスは1831年、藩王国の統治能力に問題があるとして、クリシュナラージャ・ウォデヤール3世から行政権を剥奪し、藩王国をイギリスの直接統治下に置くことを決定しました。
これ以降、約50年間にわたり、マイソール藩王国はイギリス人の弁務官委員会によって直接統治されることになります。この「コミッショナー時代」において、マイソールでは多くの近代的改革が実施されました。マーク・カボンやルイス・ベンサム・バウリングといった有能な弁務官たちの下で、行政機構はイギリスの制度に倣って再編され、司法制度も近代化されました。道路、鉄道、電信といったインフラが整備され、近代的な教育制度が導入されました。特に、バンガロールには広大なイギリス軍の駐屯地(カントンメント)が設けられ、この都市が近代的な大都市へと発展する基礎が築かれました。この時代の改革は、マイソールをインドで最も進んだ「模範的な藩王国」の一つへと変貌させる土台となりました。
一方、統治権を奪われたクリシュナラージャ・ウォデヤール3世は、失われた権力を取り戻すため、粘り強くイギリス政府への働きかけを続けました。彼の長年にわたる努力は、死後になってようやく実を結びます。イギリス政府は、彼の養子であったチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤール10世への権力返還を決定し、1881年、マイソール藩王国は再びウォデヤール家の統治下に戻ることになりました。この「権力移譲」は、インドの藩王国の歴史において画期的な出来事であり、マイソール藩王国が新たな発展の時代を迎えるきっかけとなったのです。
模範藩王国としての近代化

1881年の「権力移譲」により、ウォデヤール家による統治が再開されたマイソール藩王国は、20世紀前半にかけて、インドにおける「模範藩王国」として目覚ましい発展を遂げることになります。この時代の繁栄は、先見の明に満ちたマハーラージャたちと、彼らを支えた有能なディーワーン(宰相)たちの緊密な協力関係の賜物でした。彼らは、イギリスによる50年間の直接統治時代に築かれた近代的な行政基盤をさらに発展させ、産業、教育、社会改革の各分野で、当時のイギリス領インドの多くの地域を凌駕するほどの進歩を達成しました。
権力移譲後に即位したチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤール10世は、藩王国の近代化に強い意欲を示しました。彼の治世で最も重要な功績は、1881年に代議制議会を設立したことです。これは、インドの藩王国としては初めての試みであり、土地所有者や商人などの代表者が一堂に会し、政府の政策について議論し、藩王に意見を述べる機会を提供するものでした。当初はその権限が諮問的なものに限られていましたが、この議会の設立は、藩王国の統治に民意を反映させようとする画期的な一歩であり、インドにおける立憲政治の先駆けと見なされています。
1894年にチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤール10世が若くして亡くなると、その息子であるクリシュナラージャ・ウォデヤール4世がまだ幼かったため、彼の母であるケムパ・ナンジャマンニ・ヴァーニ・ヴィラーサ・サンニダーナが摂政として藩王国を統治しました。彼女の摂政時代にも、近代化の努力は着実に続けられました。
そして1902年、クリシュナラージャ・ウォデヤール4世が親政を開始すると、マイソール藩王国はその黄金時代を迎えます。彼は、マハトマ・ガンディーから「ラージャルシ」(聖なる王)と称賛されるほど、公正で民衆の幸福を第一に考える理想的な君主でした。彼の成功を支えたのが、サー・M・ヴィシュヴェーシュワライヤとサー・ミルザー・イスマーイールという二人の傑出したディーワーンでした。
エンジニア出身のディーワーンであったヴィシュヴェーシュワライヤ(在任1912年-1918年)は、「産業化なくして繁栄なし」をモットーに、藩王国の工業化を強力に推進しました。彼の主導のもと、マイソール鉄鋼所、マイソール・サンダルウッド石油工場、マイソール銀行などが設立され、藩王国の産業基盤が飛躍的に強化されました。また、彼の最大の功績の一つが、1917年に完成したクリシュナ・ラージャ・サーガラ・ダムの建設です。この巨大なダムは、カーヴェーリ川の水を安定的に供給することで、干ばつに苦しんでいた広大な農地を灌漑し、農業生産を劇的に向上させました。さらに、彼は技術教育の重要性を説き、バンガロールに工科大学(現在のUVCE)を、マイソールにマイソール大学を設立するなど、人材育成にも力を注ぎました。
ヴィシュヴェーシュワライヤの後を継いだミルザー・イスマーイール(在任1926年-1941年)もまた、藩王国のさらなる発展に貢献しました。彼は、都市の美化とインフラ整備に情熱を注ぎ、マイソール市やバンガロール市に広大な庭園や公園、壮麗な公共建築物を次々と建設しました。今日、マイソールが「庭園都市」として知られるのは、彼の功績に負うところが大きいです。彼はまた、ヒンドゥスタン航空機(HAL)の前身となる工場をバンガロールに誘致するなど、先端技術産業の育成にも努めました。
この時代、マイソール藩王国は社会改革の面でも先進的な取り組みを行いました。1907年には立法評議会が設立され、代議制議会と並んで二院制の議会制度が確立されました。女子教育が奨励され、不可触民(ダリット)の地位向上のための政策も実施されました。1905年には、アジアで初めて水力発電所(シヴァナサムドラ)が建設され、コーラール金鉱やバンガロール市に電力が供給されました。これらの革新的な政策により、マイソール藩王国は、藩王による統治と近代的な発展が両立可能であることを証明し、インド全土から「模範藩王国」としての称賛を集めたのです。
インドへの併合とその後

1947年8月15日、イギリスがインドとパキスタンを分離独立させたことにより、インド亜大陸の政治地図は劇的に塗り替えられました。この時、イギリス領インドに散在していた560以上もの藩王国は、インドかパキスタンのいずれかに帰属するか、あるいは独立を維持するかの選択を迫られました。マイソール藩王国も、この歴史的な決断の岐路に立たされました。
当時のマイソール藩王は、クリシュナラージャ・ウォデヤール4世の甥にあたるジャヤチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤールでした。彼は、叔父と同様に教養深く、進歩的な考えを持つ君主でした。インド独立の動きが加速する中、藩王国内でも「マイソールよ、インドと共に行け」というスローガンを掲げた市民運動が高まりを見せていました。藩王国の多くの人々は、地理的、文化的、経済的に一体であるインド連合への参加を強く望んでいました。
ジャヤチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤールは、この民衆の声を無視することなく、現実的な判断を下しました。彼は、インドの独立が宣言される数日前の1947年8月9日に、インドへの帰属を表明する「帰属文書」に署名しました。これにより、マイソール藩王国は、防衛、外交、通信の三分野に関する権限をインド政府に委譲し、新生インドの一部となることを決定しました。彼のこの迅速な決断は、他の多くの藩王国が帰属を巡って混乱する中で、流血の事態を避ける賢明な選択として高く評価されています。
帰属後も、マイソールはしばらくの間、ジャヤチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤールを「ラージプラムク」(藩王国を統合して作られた州の知事)とする「パートB」州として、一定の自治を維持しました。しかし、インド政府は、言語に基づいた州の再編を推し進めていました。そして1956年、インド政府は「州再編法」を制定し、言語の境界線に従って州の境界を再編成しました。この法律に基づき、カンナダ語を話す人々が住む地域を統合して、新たな州が創設されることになりました。
この再編により、マイソール藩王国の領域は、ボンベイ州、マドラス州、ハイデラバード州などに属していたカンナダ語圏の地域と統合され、新しい「マイソール州」が誕生しました。この時点で、藩王国としてのマイソールは完全に消滅し、インドの連邦制度に組み込まれた一州となったのです。ジャヤチャーマラーゼーンドラ・ウォデヤールは、新しく誕生したマイソール州の初代知事に就任し、その後、マドラス州(現在のタミル・ナードゥ州)の知事も務めるなど、インド独立後も公職にあって貢献を続けました。
そして1973年、州民の長年の要望に応える形で、マイソール州は、その土地の言語と文化をより明確に反映する「カルナータカ州」へと改称されました。これは、マイソールという旧藩王国の名称から、より広範なカンナダ語圏全体のアイデンティティを象徴する名称への変更を意味していました。
ウォデヤール王家は、政治的な権力を失った後も、マイソールの人々から深い敬愛を集め続けました。彼らが住んでいた壮麗なマイソール宮殿は、州政府の管理下に置かれ、現在ではインドで最も人気のある観光名所の一つとなっています。毎年秋に開催されるダサラ祭りは、今なお王家の主催で伝統的な儀式が執り行われ、かつての王国の栄華を偲ばせる壮大な祭りとして、世界中から観光客を魅了しています。藩王国としてのマイソールは歴史の中に消えましたが、その豊かな文化遺産、近代化の精神、そしてウォデヤール家が残した足跡は、現代のカルナータカ州の社会と文化の中に、今もなお色濃く生き続けています。
統治と行政

マイソール王国の統治と行政システムは、その長い歴史の中で、時代の要請に応じて大きく変化し、発展を遂げました。特に、17世紀後半のチッカ・デーヴァラージャ・ウォデヤールの時代、18世紀後半のハイダル・アリーとティプー・スルターンの時代、そして19世紀後半以降のイギリス支配下の藩王国時代において、画期的な改革が行われ、王国は高度に組織化された統治機構を持つ近代国家へと変貌していきました。
初期のウォデヤール朝は、ヴィジャヤナガル帝国の行政制度を色濃く受け継いでいました。王は最高の権威を持つ存在でしたが、その統治は地域の有力者や首長たちの協力に依存していました。しかし、17世紀後半に即位したチッカ・デーヴァラージャ・ウォデヤールは、中央集権化を強力に推し進め、王国の行政システムを根本から改革しました。彼の最大の功績は、「アタラ・カチェーリ」と呼ばれる18の中央行政部門の創設です。これは、歳入、財務、軍事、司法、警察といった国家の主要な機能を分担する官僚組織であり、王の直接的な監督下に置かれました。このシステムの導入により、属人的な統治から、より体系的で効率的な官僚制による統治へと移行しました。彼はまた、広大な領土の情報を迅速に収集し、王の命令を伝達するための郵便・諜報システムを確立しました。これにより、地方の反乱を未然に防ぎ、税収を確実に徴収することが可能となり、王権は飛躍的に強化されました。
18世紀半ばに実権を握ったハイダル・アリーと、その後継者であるティプー・スルターンは、チッカ・デーヴァラージャが築いた中央集権的な行政機構をさらに発展させました。彼らは、軍事政権の指導者として、何よりも国家の軍事力と経済力を高めることを重視しました。ハイダル・アリーは、徴税システムを効率化し、国家の歳入を大幅に増加させ、それを強力な常備軍の維持に充てました。ティプー・スルターンは、父の政策をさらに推し進め、より徹底した改革を行いました。彼は、王国をアスフィ(財務)、マルク(商業)、カチェリ(司法・一般行政)、ザムラ(軍事)といった部門に再編しました。彼は、土地所有制度にも介入し、世襲の徴税権を持つ在地領主(ポーリーガール)の権力を削ぎ、土地からの収益を国家が直接管理しようと試みました。これは、地方の封建的な権力を解体し、国家への一元的な支配を確立しようとする野心的な試みでした。さらに、彼は商業を国家の管理下に置くことを目指し、タバコ、白檀、胡椒といった主要な産品の専売制を導入しました。これらの改革は、国家の歳入を最大化し、それを軍事力の強化や近代化プロジェクトに投じることを目的としていました。ティプーの統治は、その徹底した中央集権化と国家主導の経済政策において、同時代のヨーロッパの絶対王政や重商主義にも通じる特徴を持っていました。
1799年にイギリスの支配下に入り、藩王国となって以降、マイソールの行政は再び大きな変革を遂げます。特に、1831年から1881年までのイギリス人弁務官による直接統治時代には、イギリスの行政システムが全面的に導入されました。王国はいくつかの県(ディストリクト)に分割され、各県にはイギリス人の役人またはその監督下にあるインド人役人が配置されました。司法制度も、イギリスの法体系に基づいて再編され、法典が整備され、階層的な裁判所制度が確立されました。歳入、警察、公共事業、教育といった各分野で専門の部局が設けられ、近代的で合理的な官僚システムが構築されました。
1881年にウォデヤール家へ統治権が返還された後も、このイギリス式の行政システムは基本的に維持されました。しかし、この時代のマイソール藩王国の統治の大きな特徴は、藩王、ディーワーン(宰相)、そして二院制の議会(代議制議会と立法評議会)という三者の権力分担と協力関係にありました。藩王は国家元首として最終的な決定権を持ちつつも、実際の行政運営は専門的な知識を持つディーワーンに委ねられました。そして、議会は、民衆の代表として政府の政策を審議し、藩王とディーワーンに助言を与える役割を担いました。この三権のバランスの上に成り立った統治システムこそが、マイソールを「模範藩王国」たらしめた重要な要因でした。藩王のリーダーシップ、ディーワーンの専門性、そして議会を通じた民意の反映が組み合わさることで、効率的かつ民衆の支持を得た近代的な統治が実現されたのです。この統治モデルは、当時のインドにおいて非常に先進的なものであり、独立後のインドが目指す議会制民主主義の先駆けとも言えるものでした。
経済と産業

マイソール王国の経済は、その大部分が農業に依存していましたが、歴代の統治者たちによる積極的な産業振興策によって、時代と共に多様化し、大きく発展しました。特に、豊富な天然資源と、それを活用しようとする為政者の先見性が、王国の経済的繁栄の原動力となりました。
王国の経済基盤は、カーヴェーリ川とその支流がもたらす豊かな水に支えられた農業でした。米、ラギ(シコクビエ)、豆類が主要な食糧作物であり、人々の生活を支えていました。また、サトウキビや綿花といった商品作物も広く栽培されていました。歴代の支配者、特にチッカ・デーヴァラージャ・ウォデヤールや後の藩王国時代のディーワーンたちは、灌漑施設の建設と維持に多大な努力を払いました。ダム、貯水池(タンク)、運河網の整備は、耕作可能地を拡大し、干ばつの影響を緩和することで、農業生産の安定と向上に大きく貢献しました。20世紀初頭に建設されたクリシュナ・ラージャ・サーガラ・ダム(KRSダム)は、その集大成であり、マイソール南部の乾燥地帯を南インド有数の穀倉地帯へと変貌させました。
農業と並んで、鉱物資源も王国の重要な収入源でした。特に、東部に位置するコーラール地方の金鉱は、古代から知られていましたが、19世紀後半にイギリスの技術と資本が導入されると、近代的な大規模採掘が始まりました。コーラール金鉱は、世界で最も深く、最も産出量の多い金鉱の一つとなり、藩王国の財政に莫大な利益をもたらしました。この金鉱に電力を供給するために、1902年、アジアで最初の商業用水力発電所がシヴァナサムドラに建設されたことは、マイソールの近代化を象徴する出来事です。また、鉄鉱石も豊富に産出し、これは後にヴィシュヴェーシュワライヤによる製鉄所設立の基礎となりました。
ティプー・スルターンの時代には、国家主導の産業育成と貿易振興が強力に推し進められました。彼は、王国の経済的自立を目指し、外国製品への依存を減らすために、国内産業の育成に力を注ぎました。彼は、フランスから技術者を招き、大砲や銃器を製造する工場を設立しました。また、養蚕業を奨励し、高品質な絹織物の生産を軌道に乗せました。マイソールの絹は、今日でも高い評価を得ていますが、その基礎はこの時代に築かれたものです。さらに、彼は通商部を設立し、ペルシャ湾岸地域やオスマン帝国との間に国営の貿易ネットワークを構築しようと試みました。彼の先進的な経済政策は、イギリスとの絶え間ない戦争によってその多くが頓挫しましたが、そのビジョンは後の時代の産業化に影響を与えました。
「模範藩王国」時代には、ディーワーンのヴィシュヴェーシュワライヤの主導のもと、本格的な工業化が始まりました。彼の「産業化なくして繁栄なし」という信念に基づき、次々と国営(藩王国営)の工場が設立されました。1923年に操業を開始したマイソール製鉄所(後のヴィシュヴェーシュワライヤ鉄鋼所)は、南インドにおける重工業の先駆けとなりました。また、藩王国が独占的に産出する白檀(サンダルウッド)の香木から精油を抽出するマイソール・サンダルウッド石油工場は、世界的なブランドとなり、藩王国に大きな利益をもたらしました。その他にも、石鹸工場、製紙工場、セメント工場、化学肥料工場などが次々と設立され、マイソールはインド有数の工業地域へと発展していきました。これらの産業振興策と並行して、藩王国の財政を支え、産業に資金を供給するために、1913年にはマイソール銀行(現在のカルナータカ州銀行)が設立されました。これらの多岐にわたる産業の発展は、マイソール藩王国の経済を強固なものにし、教育や社会福祉の充実を可能にする財政的基盤となったのです。
文化と社会

マイソール王国は、その長い歴史を通じて、南インドにおける文化と芸術の中心地として栄えました。ウォデヤール朝の歴代の王たちは、文学、音楽、舞踊、絵画、建築といった様々な芸術分野の熱心な庇護者であり、彼らの宮廷には多くの優れた芸術家たちが集いました。その結果、マイソールは独自の洗練された宮廷文化を育み、その遺産は今日まで受け継がれています。
マイソールの文化を語る上で欠かせないのが、カルナータカ音楽(南インド古典音楽)への貢献です。ウォデヤール家の宮廷は、多くの偉大な音楽家や作曲家を輩出し、あるいは後援しました。特に19世紀から20世紀にかけてのクリシュナラージャ・ウォデヤール3世、チャーマラーゼーンドラ・ウォデヤール10世、そしてクリシュナラージャ・ウォデヤール4世の治世は、マイソールの音楽史における黄金時代とされています。ヴィーナ・シェーシャンナ、マイソール・ヴァースデーヴァーチャール、ムットゥスワーミ・ディークシタールといった伝説的な音楽家たちが宮廷で活躍し、数多くの不朽の名作(クリティ)を生み出しました。彼らは、伝統的なラーガ(旋法)の探求を深めると同時に、ヴァイオリンのような西洋楽器をカルナータカ音楽に導入するなど、新しい試みにも挑戦しました。王自身も音楽に造詣が深く、自ら作曲を行う者もいました。
絵画の分野では、「マイソール派絵画」として知られる独自の様式が発展しました。この様式は、ヴィジャヤナガル絵画の伝統を受け継ぎつつ、薄い金の箔を用いてレリーフ状の装飾を施す「ガッソ」技法を特徴としています。主にヒンドゥー教の神々や神話の場面が、繊細な描線と鮮やかな色彩で描かれました。クリシュナラージャ・ウォデヤール3世は、特に絵画の熱心な後援者であり、彼の時代にマイソール派絵画はその頂点を迎えました。
建築においても、マイソール王国は壮麗な遺産を数多く残しています。ウォデヤール朝の建築様式は、ドラヴィダ様式、インド・イスラーム様式、そして後にはヨーロッパのゴシック様式や新古典主義様式など、様々な要素を融合させた「インド・サラセン様式」として知られています。その最も代表的な例が、マイソール市の象徴であるアンバ・ヴィラス宮殿、通称マイソール宮殿です。1912年にイギリス人建築家ヘンリー・アーウィンの設計で完成したこの宮殿は、大理石のドーム、精緻な彫刻が施された柱、ステンドグラスの窓、そして豪華絢爛な内装を誇り、インドで最も壮麗な宮殿建築の一つとされています。その他にも、ジャガンモハン宮殿やラリター・マハル宮殿、そしてバンガロールのバンガロール宮殿やアタラ・カチェーリ(高等裁判所)など、藩王国時代の繁栄を物語る美しい建築物が数多く現存しています。
社会面では、特に20世紀初頭の「模範藩王国」時代に、先進的な社会改革が数多く実施されました。クリシュナラージャ・ウォデヤール4世の治世下で、女子教育の普及に力が入れられ、多くの女学校が設立されました。また、インドの藩王国としては初めて、不可触民(ダリット)の子供たちのために公立学校の門戸を開きました。彼らの寺院への立ち入りを認める法律も制定されるなど、カースト制度の弊害を是正するための努力がなされました。寡婦の再婚を法的に認めるなど、女性の地位向上にも取り組みました。これらの社会改革は、当時のインド社会においては非常に画期的なものであり、マイソール藩王国が単なる経済的・政治的な先進地域であっただけでなく、社会的な進歩においても先駆者であったことを示しています。
そして、マイソールの文化の集大成ともいえるのが、毎年秋に10日間にわたって盛大に開催されるダサラ祭りです。ヴィジャヤナガル帝国の伝統を受け継いで始まったこの祭りは、善が悪に勝利したことを祝うもので、藩王国時代には王国の威信と繁栄を示す最も重要な国家的行事でした。現在でも、ライトアップされたマイソール宮殿を舞台に、伝統衣装をまとった象の行進(ジャンブー・サヴァーリ)や、音楽、舞踊、展示会など、様々な催しが行われ、かつての王国の華やかな文化を今に伝えています。
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・マイソール王国とは わかりやすい世界史用語2390

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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