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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

マラーター同盟とは わかりやすい世界史用語2389

著者名: ピアソラ
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マラーター同盟とは

マラーター同盟、またはマラーター帝国として知られるこの政治体は、17世紀にインド亜大陸で台頭し、18世紀にはその大部分を支配する広大な勢力となりました。 その起源は、現在のマハーラーシュトラ州にあたる西デカン高原のマラーティー語を話す農民層に遡ります。 彼らは、卓越した指導者であるシヴァージー・ボーンスレーのリーダーシップの下で政治的に活発化しました。 シヴァージーは、当時その地域を支配していたイスラム系のビジャープル王国とムガル帝国に対し、「ヒンダヴィー・スワラージヤ」(ヒンドゥー教徒の自治)を確立するために反乱を起こした人物です。
シヴァージー(1630年~1680年)は、ボーンスレー氏族に属するマラーターの貴族でした。 彼の父、シャハージー・ボーンスレーはマラーターの将軍であり、母ジジャーバーイーの教えは彼の若い頃の人生に大きな影響を与えました。 ジジャーバーイーは、彼らの土地と人々に対する誇りと責任感をシヴァージーに植え付けたとされています。 幼い頃から、シヴァージーは卓越したリーダーシップと強い正義感を示していました。
1645年、わずか16歳で、シヴァージーは忠実な支持者を集め、マラーター王国の設立に向けた運動を開始しました。 彼はまずトールナ城塞を攻略し、これを皮切りに次々と要塞を占領していきました。 これらの軍事行動を通じて、彼は広大な地域を自らの支配下に置き、ヒンドゥー教徒の自治を意味する「ヒンダヴィー・スワラージヤ」の基盤を築きました。 彼はライガッドを首都とする独立したマラーター国家を創設し、ムガル帝国の攻撃から自国を巧みに防衛しました。
1674年6月6日、シヴァージーはライガッド城で正式に即位式を行い、「チャトラパティ」(主権者、文字通りには「傘の守護者」)の称号を名乗りました。 この戴冠式は、マラーターがムガル帝国の支配から独立した主権国家であることを宣言する象徴的な出来事であり、マラーター帝国の正式な始まりと見なされています。 彼の治世は、進歩的な政策と効率的な統治によって特徴づけられます。 彼はヒンドゥー教を篤く信仰していましたが、イスラム教やキリスト教を含むすべての宗教に敬意を払い、イスラム教徒を自身の政権に迎え入れ、彼らの礼拝所を保護するなど、宗教的寛容性を重視しました。
シヴァージーは、単なる征服者ではなく、優れた統治者でもありました。 彼は、ムガル帝国やデカン・スルターン朝の統治下で一般的だったジャギール制(封土授与制度)を廃止し、代わりにリョートワーリー制を導入しました。 これにより、国家が農民から直接税を徴収するようになり、中間搾取を行う封建的な徴税官の権力を排除しました。 また、彼は「アシュタ・プラダーン」として知られる8人の大臣からなる評議会を設立し、国家の運営に関する助言を受けました。 この評議会は、ペーシュワー(首相)を筆頭に、財務、外交、内務などを担当する各大臣で構成されていました。
さらに、シヴァージーは強力な海軍の重要性を認識した最初のインドの支配者の一人でした。 彼は、ポルトガル、イギリス、オランダといったヨーロッパの海上勢力や、沿岸部を支配していたシッディー勢力に対抗するため、強力な海軍を組織しました。 シンドゥドゥルグ、ヴィジャイドゥルグ、カンデリなどに造船所を建設し、海賊行為から商人を保護し、海上交易路の安全を確保しました。 この強力な海軍は、マラーターの経済的繁栄に大きく貢献しました。
シヴァージーの軍事戦略は、ゲリラ戦術、特に「ガニミ・カヴァ」として知られる奇襲戦術に長けていました。 これは、西ガーツ山脈の険しい地形を最大限に活用し、機動力の高い小規模な部隊で敵の補給線や通信網を寸断し、奇襲をかけては素早く撤退するという戦法です。 この戦術は、数で勝るムガル軍に対して非常に効果的であり、マラーターの軍事的成功の根幹をなしました。
1680年にシヴァージーが亡くなると、マラーター王国は息子のサンバージーに引き継がれました。 しかし、シヴァージーの死後、ムガル皇帝アウラングゼーブはデカン地方への大規模な遠征を開始し、マラーターとの間で27年間に及ぶ長期戦争が勃発しました。 この戦争はインド史上最も長い戦争の一つとして知られています。 マラーターはゲリラ戦術を駆使して抵抗を続けましたが、サンバージーは1689年にムガル軍に捕らえられ、処刑されました。その後、弟のラージャラームが後を継ぎ、南方のジンジーに首都を移して抵抗を続けました。 この長い戦争は、ムガル帝国に莫大な人的・財政的損失をもたらし、その衰退を早める一因となりました。



ペーシュワーの台頭とマラーター同盟の形成

1707年にムガル皇帝アウラングゼーブが亡くなると、インドの政治情勢は大きく変化しました。 新しいムガル皇帝バハードゥル・シャー1世は、長年ムガルの捕虜となっていたシヴァージーの孫、シャーフーを解放しました。 シャーフーの解放は、マラーター内部に深刻な後継者争いを引き起こしました。当時、マラーターを率いていたのは、ラージャラームの未亡人であるターラーバーイーであり、彼女は息子のシヴァージー2世を擁して摂政として統治していました。 シャーフーは正当な王位継承権を主張し、ターラーバーイーとの間で内戦が勃発しました。
この内戦の過程で、シャーフーは非常に有能な人物を見出し、自らの陣営に引き入れました。それが、バラージー・ヴィシュワナートです。 バラージー・ヴィシュワナートは、優れた軍事指導者であると同時に、卓越した行政官でもありました。 シャーフーは彼の能力を高く評価し、1713年に彼をペーシュワー(首相)に任命しました。 この任命は、マラーターの歴史における大きな転換点となります。これ以降、ペーシュワー職はバラージーの家系であるバット家によって世襲されるようになり、実質的な権力はチャトラパティ(王)からペーシュワーへと移っていきました。 プネーはペーシュワーの首都となり、マラーター政治の中心地となりました。
バラージー・ヴィシュワナートは、内戦で疲弊したマラーター国家を再建し、新たな統治システムを構築する必要に迫られました。シヴァージーが築いた中央集権的な王国は、長年の戦争と内紛によって崩壊しかけていました。 多くのマラーターの有力な武将(サルダール)たちは、それぞれ独自に軍隊を組織し、ムガル領に遠征しては自らの経費のために歳入を徴収するなど、半独立的な状態で行動していました。
これらの強力なサルダールたちを抑えつけ、再び中央の権威に従わせることは困難でした。そこでバラージー・ヴィシュワナートは、現実的な解決策として、これらのサルダールたちの力を認め、彼らをマラーター国家の枠組みに組み込むという新しい政治体制を創り出しました。 これが「マラーター同盟」と呼ばれる体制です。
この体制の下で、主要なマラーターのサルダールたちは、世襲のジャーギールダール(封建領主)として認められました。 彼らは自身の領地(ジャーギール)において、徴税権や統治権を含む広範な自治権を与えられ、半独立の支配者として君臨しました。 その見返りとして、彼らはチャトラパティの名の下に統治するペーシュワーの要請に応じて、自らの軍隊を率いて奉仕する義務を負いました。 このシステムによって、内戦を避けつつ、強力なサルダールたちの軍事力をマラーター国家全体の拡大と防衛のために活用することが可能になったのです。
この同盟体制から、特に有力な4つのマラーター氏族が台頭しました。
シンディア家: グワーリヤルとウッジャインを拠点としました。
ホールカル家: インドールとマールワーを拠点としました。
ボーンスレー家: ナーグプルを拠点としました。
ガーイクワード家: バローダを拠点としました。
これらの主要な氏族は、ペーシュワーを名目上の指導者とする連合体を形成しましたが、実際にはそれぞれが独立した国家のように振る舞いました。 彼らはペーシュワーの指揮下で北インドや中央インドへの遠征を行い、マラーターの勢力圏を急速に拡大させましたが、同時に彼らの独立性も増していき、中央からの統制は次第に困難になっていきました。
バラージー・ヴィシュワナートの死後、息子のバージー・ラーオ1世がペーシュワー職を継ぎました。 バージー・ラーオ1世は、父以上に優れた軍事的天才であり、彼のリーダーシップの下でマラーターは最も急速な拡大期を迎えます。 1720年から1761年にかけて、マラーターはムガル帝国の領土を次々と侵食し、その勢力はインド亜大陸のほぼ3分の1にまで及びました。 北はラージャスターンとパンジャーブ、東はベンガルとオリッサ、南はタンジョールに至る広大な地域を支配下に置きました。 1737年にはデリーを襲撃し、ムガル皇帝を事実上の傀儡としました。 この時期、マラーターはデカン地方の宗主として認められ、支配下の領主たちから「チャウタ」(歳入の4分の1を徴収する権利)と「サルデーシュムキー」(さらにその10%を追加で徴収する権利)と呼ばれる貢納金を徴収する権利を得ました。
このようにして、シヴァージーによって建国された中央集権的な王国は、ペーシュワーの時代に、有力なサルダールたちがそれぞれの領地を支配する分権的な同盟国家へと変貌を遂げました。このマラーター同盟は、18世紀のインドにおいて最も強力な政治・軍事勢力として君臨することになります。
マラーター同盟の統治機構と行政

マラーター同盟の統治機構は、シヴァージーによって築かれた中央集権的なシステムと、ペーシュワー時代に発展した分権的な同盟体制が融合した、複雑な構造を持っていました。 その行政は、中央政府、地方行政、そして村落レベルでの自治という三層構造で成り立っていました。
中央行政

理論上の最高権威は、サーターラを首都とするチャトラパティ(王)でした。 しかし、バラージー・ヴィシュワナートがペーシュワーに就任して以降、特にシャーフー王の死後(1749年)、実質的な権力はプネーを拠点とする世襲のペーシュワー(首相)の手に完全に移りました。
ペーシュワー政権下の中央行政の中心は、プネーに置かれた「フズール・ダフタル」と呼ばれる中央官庁でした。 ここがマラーター同盟全体の行政と財政を統括する心臓部でした。
シヴァージーが創設した「アシュタ・プラダーン」(八大臣評議会)の制度は、ペーシュワー時代にも形式的には存続しました。 この評議会は、ペーシュワーを筆頭に、以下のような大臣で構成されていました。
ペーシュワー(首相): 王の不在時には国政を預かり、国家の全般的な福祉に責任を持つ最高位の大臣。
アマーティヤ(財務大臣): 国家の歳入と歳出を管理し、すべての会計を監査する責任者。
ワキア・ナヴィース(内務大臣): 王の活動や宮廷の議事を記録する役職。
スマント(外務大臣): 戦争と和平に関する問題で王に助言し、他国からの使節や使者を接遇する役職。
セーナーパティ(軍務大臣): 軍の司令官。
パンディト・ラーオ(宗教大臣): 宗教儀礼や慈善事業を司る。
ニャーヤーディーシュ(司法長官): 司法の最高責任者。
シヴァージーの時代、これらの大臣は王に対する助言者であり、王はその助言に拘束されませんでした。 また、パンディト・ラーオとニャーヤーディーシュを除くすべての大臣は、必要に応じて軍務に就く義務がありました。 しかし、ペーシュワーが世襲制となり実権を握ると、この評議会の力学は変化し、ペーシュワーが他の大臣を支配する形となりました。
地方行政

マラーターの領土は、いくつかの州に分割され、それぞれに総督が置かれていました。 州はさらに「プラント」、そして「パルガナー」や「タラフ」といったより小さな行政単位に細分化されていました。
ペーシュワー時代、地方行政の主要な役人には、「マムラートダール」や「カーマヴィスダール」がいました。 彼らは、それぞれの管轄区画において、徴税、司法、行政全般を担当する重要な役割を担っていました。また、「デーシュムク」や「デーシュパーンデー」といった世襲の地方役人も存在し、中央政府と村落との間の仲介役を果たしました。 シヴァージーはこれらの世襲役人の権力を抑制しようとしましたが、ペーシュワー時代には彼らの影響力が再び強まる傾向にありました。
村落行政

行政の最も基本的な単位は、自己完結的な村でした。 各村には「パティール」と呼ばれる村長がおり、農民階級から選ばれました。 パティールは、徴税官、治安判事、裁判官の機能を兼ね備え、村と政府役人との間の仲介役を務めました。 パティールの地位は世襲であり、売買の対象となることもありました。 彼の報酬は、無税の土地や、村人から生産物の一部を受け取る権利などからなっていました。 村レベルの紛争の多くは、「パンチャーヤト」と呼ばれる村の長老会議によって解決されました。
歳入行政

マラーター国家の主要な収入源は土地税でした。 その歳入政策は、納税者である農民の繁栄を確保するという原則に基づいていました。 シヴァージーは、アフマドナガル王国のマリク・アンバルが確立した「カティ」と呼ばれる測量システムを基礎とした歳入制度を導入しました。 このシステムでは、すべての土地が「カティ」(竿)によって測量され、その生産性に応じて税額が決定されました。 税率は通常、生産物の30%から40%程度でした。
シヴァージーは、封建的な徴税請負人であるジャーギールダールを廃止し、国家が農民から直接税を徴収するリョートワーリー制を導入しました。 これにより、農民は中間搾取から保護されました。ペーシュワー政権もこの方針を継承し、耕作地の拡大を奨励しました。 新たに開墾された土地には軽い税が課され、ペーシュワー・マーダヴラーオ2世の時代には、そのような土地の半分を無税地(イナー厶)として与え、残りの半分も20年間は無税、その後5年間は減税という寛大な措置が取られました。 また、飢饉、干ばつ、収穫物の略奪などの際には、土地税の減免も行われました。 さらに、国家は「タガーイー」と呼ばれる低利の融資を農民に提供し、高利貸しから彼らを守りました。
マラーターのもう一つの重要な収入源は、「チャウタ」と「サルデーシュムキー」でした。 これらは、マラーターの直接支配下にない、近隣のムガル帝国やデカン・スルターン朝の領土から徴収された税です。
チャウタ: 文字通り「4分の1」を意味し、その地域の標準的な歳入の25%に相当する額を、マラーター軍による襲撃や略奪を避けるための保護税として支払わせるものでした。
サルデーシュムキー: チャウタに加えて徴収された10%の追加税で、シヴァージーがその地域のすべての「デーシュムク」(地方の長)の上に立つ「サルデーシュムク」(最高長官)であるという法的権利に基づいて要求されました。
これらの税は、マラーターの軍事力を維持し、その広大な勢力圏を支えるための重要な財源となりました。
司法行政

マラーターの司法制度は、古代ヒンドゥーの法典、特にマヌ法典やヤージュニャヴァルキヤ法典に基づくミタークシャラー法学派の影響を強く受けていました。 司法は比較的簡素な形で行われ、多くの民事紛争は地域社会の自治に委ねられていました。
村レベルでは、村長であるパティールが司法的な役割を果たし、パンチャーヤトが紛争を解決しました。 地区レベルではマムラートダール、その上にはサルスーバフダール、そして最高司法機関としてペーシュワーが位置していました。 都市部では、「ニャーヤーディーシュ」と呼ばれる専門の司法官が任命され、司法機能と行政機能の分離が見られました。
刑事事件に関しては、窃盗、殺人、反逆罪などの重大犯罪には、財産没収、投獄、身体切断などの刑罰が科されました。 路上強盗は死刑に処されることもありましたが、女性が死刑になることはありませんでした。 刑罰は厳しいものでしたが、一般の囚人の扱いは比較的良好で、宗教儀式のために一時帰宅が許されることもありました。 最高裁判所は「ハザール・マジリス」と呼ばれ、王(後にはペーシュワー)が主宰しました。
マラーター同盟の軍事力と戦術

マラーター同盟の強大さは、そのユニークで効果的な軍事組織と戦術に支えられていました。 シヴァージーによって基礎が築かれ、ペーシュワー時代にさらに発展したマラーター軍は、17世紀から18世紀にかけてインド亜大陸で最も恐れられる軍事力の一つとなりました。
軍事組織

シヴァージーは、小規模ながらも非常に効果的な常備軍を創設しました。 彼の軍事改革の核心は、封建的な土地給与(ジャギール)制度を廃止し、兵士や将校に現金で給与を支払う制度(サランジャーム)を導入したことです。 これにより、封建領主への忠誠心ではなく、国家への忠誠心を持つプロフェッショナルな軍隊が生まれました。
マラーター軍は主に以下の部門で構成されていました。
騎兵: マラーター軍の中核をなす戦力であり、その機動力で知られていました。 騎兵はさらに二つのカテゴリーに分かれていました。
バルギール: 国家から馬と装備を支給され、給与を受け取る正規の騎兵。
シラハダール: 自身で馬と武具を用意し、自らの部隊を維持する将校や貴族。彼らは封建的な家臣に似ていましたが、中央の厳格な監督下に置かれていました。
バージー・ラーオ1世の時代には、長距離を迅速に移動できる軽装騎兵が特に重視され、その数はシャーフー王の治世中に10万人にも達したと言われています。 王直属の精鋭騎兵部隊は「フズラート騎兵」として知られていました。
歩兵(パーガ): マラーター軍の背骨を形成する存在でした。 特にシヴァージーは、自身が活動した険しい山岳地帯の地形を考慮し、騎兵よりも歩兵を重視しました。 彼らはゲリラ戦術に長けており、待ち伏せや奇襲攻撃を得意としました。
砲兵: 当初、マラーターの砲兵は主に丘の上の要塞に配備されていました。 これは、防衛において戦略的な優位性をもたらしました。しかし、18世紀に入ると、特にバージー・ラーオ1世の下で、野戦における砲兵の活用が進みました。彼は、小口径から大口径までの砲を巧みに組み合わせ、敵を圧倒する集中砲火戦術を用いました。
海軍: シヴァージーは、沿岸交易路を保護し、ヨーロッパ勢力やシッディー勢力に対抗するために、強力な海軍を創設しました。 彼は多くの軍艦を建造し、沿岸部に複数の海軍基地を設置しました。 この強力な海軍は、マラーターの経済的および軍事的安全保障に不可欠な役割を果たしました。
軍事戦術

マラーター軍の最も特徴的な戦術は、「ガニミ・カヴァ」として知られるゲリラ戦でした。 この戦術は、シヴァージーがムガル帝国のような巨大で動きの鈍い軍隊に対抗するために完成させました。
奇襲と機動力: ガニミ・カヴァの核心は、奇襲攻撃と迅速な移動にあります。 マラーターの軽装騎兵部隊は、予測不可能な場所から敵を攻撃し、敵が反撃体制を整える前に素早く撤退しました。 彼らは敵の補給線、通信網、孤立した部隊を標的とし、敵軍全体を疲弊させ、混乱に陥れました。
地形の利用: マラーターは、西ガーツ山脈の険しい山々、深い谷、密な森林といった故郷の地形を熟知しており、これを最大限に活用しました。 狭い峠や森の中に巧みな待ち伏せを仕掛け、敵の大軍を壊滅させました。 彼らにとって、地形そのものが強力な武器でした。
焦土作戦と心理戦: 敵の領土に侵攻する際には、敵の資源を断つために焦土作戦を用いることもありました。また、神出鬼没の攻撃は敵兵に絶え間ない恐怖と不安を与え、士気を著しく低下させました。
要塞の活用: シヴァージーは、戦略的に重要な場所に多数の丘上要塞を建設または強化しました。 これらの要塞は、軍隊の拠点、避難所、そして行政の中心として機能しました。 攻城戦に強い構造を持ち、長期間の包囲にも耐えることができました。 シヴァージーは「スワラージヤには約350の要塞があり、もし各要塞が最低1年間敵と戦えば、ムガルが我々を打ち負かすのに350年かかるだろう」と語ったと伝えられています。
27年戦争とゲリラ戦の展開

シヴァージーの死後、ムガル帝国との間で行われた27年戦争(1680年-1707年)の間、マラーターの正規軍は一時的に解体され、戦争はデカン全域を巻き込む「人民の戦争」の様相を呈しました。 正規軍に加えて、非正規の兵士たちが各地で蜂起し、ゲリラ戦術を駆使してムガル軍と戦いました。 サンタージー・ゴールパデーやダナージー・ジャーダヴといった勇敢な将軍に率いられたマラーター軍は、敵の後方攪乱や補給線の攻撃を常套手段としました。 一般の民衆も、マラーター兵士に隠れ家や食料を提供するなどして抵抗運動を支えました。 この総力戦が、最終的にムガル帝国を疲弊させ、デカンからの撤退を余儀なくさせたのです。
ペーシュワー時代には、バージー・ラーオ1世のような指導者がこれらの戦術をさらに洗練させ、北インドへの大規模な遠征に応用しました。 しかし、18世紀後半になると、マラーターの指導者たちは、ヨーロッパ式の訓練を受けた歩兵部隊や重砲への依存度を高めるようになり、かつての機動力を失っていきました。この変化は、後のイギリスとの戦争において、彼らの弱点の一つとなります。
マラーター同盟の経済と社会

マラーター同盟の経済は、主に農業に依存していましたが、活発な内外交易によっても支えられていました。 シヴァージーとその後継者であるペーシュワーたちは、経済の安定と成長を促す政策を推進しました。
経済

農業: 農業はマラーター経済の基盤でした。 政府は農民の繁栄を重視し、耕作地の拡大を奨励しました。 新たに開墾された土地には減税措置が適用され、干ばつや飢饉の際には税の減免が行われました。 また、農民を支援するために「タガーイー」と呼ばれる低利の政府融資制度も設けられていました。 土地の測量に基づく公平な課税システム(カティ・システム)は、農民を過度な負担から守ることを目的としていました。
税制: 国家の主な歳入源は土地税でした。 シヴァージーは、中間搾取を排除するために、国家が農民から直接税を徴収するリョートワーリー制を導入しました。 これに加えて、マラーターの支配が及ばない近隣地域からは、「チャウタ」(歳入の4分の1)と「サルデーシュムキー」(追加の10%)という2種類の税が徴収されました。 これらはマラーターの軍事力を維持するための重要な財源であり、事実上の保護税として機能しました。
交易と商業: シヴァージーの治世下で、国内交易は大きく発展しました。 彼は安全な交易路を確保し、公正な税制を敷くことで商人を保護しました。 内陸の交易路は保護され、スーラト、チャウル、ダボール、バセインといった主要な港を通じて沿岸交易も盛んに行われました。
マラーターは、インドの東海岸とも交易関係を持っていました。 飢饉の際には、ベンガルから米などの食料を輸入していました。 逆に、ベンガル産の織物にとってもマハーラーシュトラは魅力的な市場でした。 ベンガルからは、砂糖、アヘン、紙、生姜、ウコン、麻縄、硝石、生糸、綿製品などが輸入されていました。
対外貿易も活発で、西アジアのイランやアフガニスタンからは、ドライフルーツ、砂糖、香辛料が輸入されました。 中国からは砂糖、絹織物、生糸がもたらされました。 ゴアからは、錫、紙、ココナッツ、香辛料、水銀、鉛、サフラン、蝋燭、毛織物、マスケット銃などが輸入されていました。 18世紀後半には、イギリス東インド会社との交易も盛んになりました。
海軍と海上交易: シヴァージーは、海上交易の重要性を深く認識しており、ポルトガル、イギリス、オランダなどのヨーロッパ勢力から交易路を守るために強力な海軍を創設しました。 この海軍は、海賊から商船を保護し、沿岸地域の安全を確保することで、マラーター経済の繁栄に大きく貢献しました。
貨幣: シヴァージーは、「シヴライ」と呼ばれる銅貨を発行しました。 その他にも、ホン(金貨)、パゴダ、モーフルなど、様々な種類の貨幣が流通していました。
社会

マラーターの社会は、ヒンドゥー教の伝統に基づきつつも、多様なカーストや部族が共存する構造を持っていました。
社会構造: シヴァージーは、社会内のバランスを保つため、あらゆるカーストや部族の人々を政権や軍に登用しました。 彼の統治下では、官職の世襲は行われませんでした。 しかし、ペーシュワー時代になると、有力なサルダール(武将)や役人の地位が世襲化する傾向が強まり、一種の封建的な貴族階級が形成されていきました。
宗教的寛容性: シヴァージーは敬虔なヒンドゥー教徒でしたが、他の宗教に対しても寛容な政策を取りました。 彼はイスラム教徒を自身の政権に登用し、彼らの礼拝所を保護しました。 この宗教的寛容の精神は、多様な人々を一つの国家としてまとめる上で重要な役割を果たしました。
司法と法: 司法制度は、古代ヒンドゥーの法典に基づいていました。 村レベルの争いごとは、村の長老会議であるパンチャーヤトによって解決されることが多く、地域社会の自治が尊重されていました。 刑事事件に対する刑罰は厳しいものでしたが、女性に対する死刑は行われないなど、一定の配慮も見られました。
文学と文化: マラーターの支配者、特にペーシュワーは文化の庇護者でもありました。 彼らの下で、マラーティー語は豊かな文学的伝統を発展させました。 特に「バカル」と呼ばれる、戦いや指導者の生涯、統治などを記録した歴史散文が数多く書かれました。 これらは歴史記録であると同時に、マラーターのアイデンティティを強化するための道徳的・政治的な手引書としても機能しました。
全体として、マラーター同盟の経済と社会は、シヴァージーの革新的な政策を基盤としつつ、ペーシュワー時代の拡大と変化の中で発展していきました。農業を基盤としながらも、活発な交易と、多様性を受け入れる社会構造が、その強大さを支える重要な要素でした。
第三次パーニーパットの戦いとマラーターの衰退

18世紀半ば、マラーター同盟はその勢力の絶頂期にありました。 北はペシャワールから南はタミル・ナードゥまで、その影響力はインド亜大陸の広範囲に及んでいました。 しかし、1761年に起こった第三次パーニーパットの戦いは、マラーターの歴史における決定的な転換点となり、その後の衰退を決定づける壊滅的な敗北となりました。
戦いの背景

18世紀半ば、ムガル帝国の衰退に乗じて北インドに権力の空白が生まれると、マラーターはその空白を埋めるように勢力を拡大しました。 一方、アフガニスタンのドゥッラーニー朝を建国したアフマド・シャー・ドゥッラーニーも、ムガル帝国の富を狙って北インドへの侵攻を繰り返していました。
1750年代、マラーターはムガル皇帝と協定を結び、外敵からの保護と引き換えに北インドの歳入(チャウタ)を徴収する権利を得ました。 これにより、マラーターは事実上、北インドの支配者となりました。 1758年、ペーシュワーの弟であるラグナート・ラーオは、ドゥッラーニーの息子ティムール・シャーをパンジャーブから追い出し、アトックまで進軍しました。 この行動は、アフマド・シャー・ドゥッラーニーの直接的な怒りを買い、両者の衝突は避けられないものとなりました。
ドゥッラーニーは、マラーターの支配を快く思わない北インドのイスラム教徒の領主たち、特にアワドのナワーブであるシュジャー・ウッダウラや、ロヒールカンドのロヒラ族の指導者ナジーブ・ウッダウラと同盟を結びました。 彼はこれを「ジハード」(聖戦)と位置づけ、イスラム教徒の結束を呼びかけました。
これに対し、マラーター側は、ペーシュワー・バーラージー・バージー・ラーオの従兄弟であるサダーシヴラーオ・バーウを総司令官とする大軍を北インドに派遣しました。 しかし、マラーターは北インドで孤立していました。 ラージプートやジャートといったヒンドゥー教徒の勢力は、マラーターの過酷な徴税政策に不満を抱いており、彼らに協力しませんでした。
パーニーパットでの対決

1761年1月14日、デリーの北方約97キロメートルに位置するパーニーパットの地で、両軍はついに激突しました。 マラーター軍は約45,000から60,000の兵力に加え、約200,000人の非戦闘員(巡礼者や兵士の家族など)を伴っていました。 一方、ドゥッラーニー軍は、約40,000から75,000の兵力で構成されていました。
戦いの初期段階では、マラーター軍が優勢でした。 イブラーヒーム・カーン・ガールディーが率いるフランス式に訓練された砲兵部隊と歩兵部隊は、ロヒラ族の部隊に大きな損害を与えました。 しかし、戦況は次第にドゥッラーニー軍に有利に傾いていきました。
ドゥッラーニーは、マラーター軍の補給路を断つことに成功し、彼らを食糧不足と飢餓に追い込みました。 また、ドゥッラーニー軍の砲兵は、ザンブラクと呼ばれるラクダの背に乗せた軽快な旋回砲を効果的に使用し、マラーター軍の重砲よりも高い機動性と速射性で優位に立ちました。
戦いの決定的な瞬間は、サダーシヴラーオ・バーウが、ペーシュワーの息子ヴィシュワース・ラーオが戦死したとの報を受けて、自ら象を降りて戦闘の最前線に突入したことでした。 指揮官が姿を消したのを見たマラーター兵たちは、総司令官が戦死したと誤解し、パニックに陥って総崩れとなりました。
敗北の影響

第三次パーニーパットの戦いは、マラーターにとって壊滅的な敗北でした。
人的損失: 総司令官サダーシヴラーオ・バーウ、ペーシュワーの息子ヴィシュワース・ラーオをはじめ、ヤシュワント・ラーオ・パワール、トゥコージー・シンディア、ジャンコージー・シンディアなど、マラーターの指導者層のほぼ一世代が戦場で命を落としました。 数万人の兵士と、それを上回る数の非戦闘員が殺害または捕虜となりました。 この知らせを聞いたペーシュワー・バーラージー・バージー・ラーオは、ショックのあまり数ヶ月後に亡くなりました。
政治的影響: この敗北により、マラーターの「無敵神話」は崩れ去りました。 北インドにおけるマラーターの支配力は一時的に失われ、彼らが築き上げてきた統一的な帝国は大きな打撃を受けました。 ペーシュワーの中央集権的な権威は著しく低下し、シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家、ガーイクワード家といった同盟内の有力なサルダールたちが、より独立性を強めるきっかけとなりました。 マラーター同盟は、中央集権的な帝国から、緩やかな連合体へと事実上変質していきました。
イギリス東インド会社の台頭: マラーターとドゥッラーニーという、当時のインド亜大陸における二大勢力がこの戦いで互いに消耗したことは、結果的にイギリス東インド会社にとって漁夫の利となりました。 マラーターの力が弱まったことで、イギリスはベンガルでの支配を固め、その後インド全土へと影響力を拡大していくための道が開かれたのです。
回復と再興

壊滅的な敗北にもかかわらず、マラーターの力は完全には失われませんでした。 新しいペーシュワーとなったマーダヴラーオ1世は、非常に有能な指導者であり、彼の短い治世(1761年-1772年)の間に、マラーターは驚くべき速さで回復を遂げました。
マーダヴラーオは、叔父のラグナート・ラーオの権力欲を抑え込み、ニザームやハイダル・アリーといった南方の敵を打ち破りました。 さらに、マハーダージー・シンディアやトゥコージー・ラーオ・ホールカルといった有能な将軍を北インドに派遣し、失われた威信と領土を回復させました。 1771年、マハーダージー・シンディアはデリーを奪還し、亡命していたムガル皇帝シャー・アーラム2世を再び玉座に据え、彼をマラーターの保護下に置きました。 これにより、マラーターは再び北インドの覇権を握ることに成功しました。
しかし、この回復は長くは続きませんでした。 1772年に若きペーシュワー・マーダヴラーオが結核で亡くなると、マラーター指導部には再び内紛が勃発しました。 この内部対立が、やがてイギリス東インド会社につけ入る隙を与え、マラーター同盟を最終的な滅亡へと導くことになります。
アングロ・マラーター戦争とマラーター同盟の終焉

18世紀後半から19世紀初頭にかけて、マラーター同盟はイギリス東インド会社との間で3度にわたる大規模な戦争(アングロ・マラーター戦争)を繰り広げました。 これらの戦争は、マラーター同盟の内部対立と、イギリスの巧みな外交・軍事戦略が絡み合い、最終的にマラーターの独立の終焉と、イギリスによるインド支配の確立をもたらしました。
第一次アングロ・マラーター戦争(1775年-1782年)

この戦争の直接的な引き金は、ペーシュワーの後継者争いを巡るマラーター内部の対立でした。 1772年にペーシュワー・マーダヴラーオ1世が亡くなった後、弟のナーラーヤン・ラーオが後を継ぎましたが、翌年、権力欲の強い叔父ラグナート・ラーオ(ラゴーバー)の陰謀によって暗殺されました。 ラグナート・ラーオは自らがペーシュワーの座に就こうとしましたが、ナーラーヤン・ラーオの死後に生まれた息子、サワーイー・マーダヴラーオを正当な後継者として擁立したナーナー・ファドナヴィースを中心とする大臣グループによって阻止されました。
権力の座を追われたラグナート・ラーオは、イギリス東インド会社のボンベイ評議会に助けを求め、1775年に「スーラト条約」を締結しました。 この条約で、ラグナート・ラーオはペーシュワーの地位回復の援助と引き換えに、サルセット島とバセインの領土、およびスーラトとバルーチの歳入の一部をイギリスに割譲することを約束しました。
この条約に基づき、イギリス軍はプネーに向けて進軍を開始しましたが、カルカッタの最高評議会(ウォーレン・ヘースティングズ総督が主導)はボンベイ評議会の独断を非難し、スーラト条約を無効としました。そして、プネーの摂政政府との間に新たに「プランダル条約」(1776年)を締結しました。 しかし、この条約の条件は曖昧であり、結局イギリスはラグナート・ラーオへの支援を再開し、戦争が本格化しました。
戦争の初期、イギリス軍はプネーへの進軍を試みましたが、1779年1月のワドガーオンの戦いで、マハーダージー・シンディア率いるマラーター軍の巧みなゲリラ戦術の前に惨敗を喫し、屈辱的な降伏(ワドガーオン協定)を余儀なくされました。
しかし、ウォーレン・ヘースティングズは諦めず、イギリス軍を再編成して反撃に転じました。 ゴダード大佐率いる部隊がグジャラートに侵攻してアフマダーバードを占領し、ポパム少佐率いる部隊は中央インドで難攻不落とされたグワーリヤル城を奇襲によって攻略しました。
戦争は数年間にわたって一進一退の攻防が続きましたが、両者ともに決定的な勝利を得ることができず、疲弊していきました。 最終的に、マハーダージー・シンディアの仲介により、1782年に「サルバイ条約」が締結され、戦争は終結しました。
この条約により、イギリスはサルセット島を除く、戦争で獲得したすべての領土をマラーターに返還しました。 イギリスはラグナート・ラーオへの支援を打ち切り、彼には年金が与えられました。 そして、サワーイー・マーダヴラーオが正式なペーシュワーとして承認されました。
第一次戦争は、マラーター側がかろうじて面目を保つ形で終結しました。 イギリスの野心は一時的に挫かれましたが、この戦争を通じてイギリスはマラーターの内部対立と軍事的な弱点を深く理解することになりました。 一方、マラーター側では、ナーナー・ファドナヴィースとマハーダージー・シンディアという二人の有力者の影響力がさらに増大しました。
第二次アングロ・マラーター戦争(1803年-1805年)

第一次戦争後、約20年間の平和が続きましたが、マラーター同盟の内部対立はさらに深刻化していました。 1795年に有能なペーシュワー、サワーイー・マーダヴラーオが若くして亡くなり、1800年には老練な政治家ナーナー・ファドナヴィースも死去しました。 これにより、プネーの中央政府は著しく弱体化しました。
権力の空白を埋めるように、グワーリヤルのダウラト・ラーオ・シンディアと、インドールのヤシュワント・ラーオ・ホールカルという二大サルダールの間で激しい覇権争いが勃発しました。 新しいペーシュワーとなったバージー・ラーオ2世(ラグナート・ラーオの息子)は、無能で陰謀好きな人物であり、シンディアと結託してホールカルの弟を殺害しました。
これに激怒したヤシュワント・ラーオ・ホールカルは、1802年にプネーを攻撃し、ペーシュワーとシンディアの連合軍を破りました(ハダプサルの戦い)。 命からがら逃げ出したバージー・ラーオ2世は、かつての父と同じようにイギリスに助けを求め、1802年12月31日に「バセイン条約」を締結しました。
この条約は、事実上の従属条約でした。 バージー・ラーオ2世は、イギリス軍の駐留を認め、その維持費として広大な領土を割譲することに同意しました。 また、外交権をイギリスに委ね、他のヨーロッパ諸国との関係を断つことも約束させられました。 この条約は、マラーター同盟の独立性に対する致命的な打撃でした。
シンディア家とナーグプルのボーンスレー家は、この屈辱的な条約をマラーター全体の独立への脅威とみなし、イギリスに対して蜂起しました。 こうして第二次アングロ・マラーター戦争が勃発しました。
しかし、マラーター諸侯は結束して戦うことができませんでした。 イギリスは、アーサー・ウェルズリー(後のウェリントン公爵)とレイク将軍という二人の優れた指揮官の下、二方面から攻撃を開始しました。
デカン戦線: アーサー・ウェルズリーは、1803年9月のアサイーの戦いと、同年11月のアールガーオンの戦いで、シンディアとボーンスレーの連合軍に決定的な勝利を収めました。
北インド戦線: レイク将軍は、デリーとアグラを占領し、ムガル皇帝をイギリスの保護下に置きました。 ラスワリの戦いでは、シンディアの精鋭部隊を壊滅させました。
相次ぐ敗北により、ボーンスレー家は「デオガーオン条約」(1803年)を、シンディア家は「スルジー・アンジャンガーオン条約」(1803年)を結んで降伏し、広大な領土をイギリスに割譲しました。
これまで中立を保っていたホールカル家は、単独でイギリスとの戦いを続け、一時はレイク将軍の部隊を苦しめましたが、最終的には力尽き、1805年に「ラージガート条約」を結んで講和しました。
第二次戦争の結果、マラーター同盟は事実上解体されました。 ペーシュワーはイギリスの傀儡となり、主要なマラーター諸侯もその領土の多くを失い、イギリスの従属下に置かれました。 イギリスは、デリーとアグラを含む北インドと、デカン高原の大部分を支配下に収め、インドにおける覇権を不動のものとしました。
第三次アングロ・マラーター戦争(1817年-1819年)

第二次戦争後、ペーシュワー・バージー・ラーオ2世は、イギリスの支配下で失われた権威を取り戻そうと画策していました。 彼は、ピンダーリーと呼ばれる略奪集団(元々はマラーター軍に付属していた非正規兵)の掃討作戦を口実に、軍備を増強し始めました。
イギリスのヘースティングズ総督(初代とは別人)は、ペーシュワーの不穏な動きを察知し、彼に新たな屈辱的な条約(プネー条約、1817年)を強制し、マラーター同盟の盟主としての地位を正式に放棄させました。
これに耐えかねたバージー・ラーオ2世は、1817年11月、プネーのイギリス駐在官邸を焼き討ちし、イギリスに対して反旗を翻しました。 これに呼応して、ナーグプルのボーンスレー家とインドールのホールカル家も蜂起しました。
しかし、マラーター諸侯の抵抗は散発的で、連携を欠いていました。
ペーシュワー軍は、カドキーの戦いとコレガーオンの戦いでイギリス軍に敗れ、バージー・ラーオ2世は逃亡を続けました。
ボーンスレー軍は、シタバルディの戦いで敗北しました。
ホールカル軍は、マヒドプルの戦いで壊滅的な打撃を受けました。
1818年6月、追いつめられたバージー・ラーオ2世はついに降伏しました。 イギリスはペーシュワーの職を完全に廃止し、その領土の大部分をボンベイ管区に併合しました。 バージー・ラーオ2世は、北インドのビトゥールに追放され、多額の年金を与えられて余生を送りました。
シヴァージーの子孫を名目上の王とする小さなサーターラ藩王国が創設されましたが、他のマラーター諸侯(シンディア、ホールカル、ガーイクワード、ボーンスレー)もイギリスとの間に新たな従属条約を結ばされ、藩王国として存続を許されるにとどまりました。
第三次戦争の終結により、マラーター同盟は完全に消滅しました。 かつてインド亜大陸の広範囲を支配した強大な勢力は、歴史の舞台から姿を消し、イギリスによるインドの完全植民地化が完成したのです。
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・マラーター同盟とは わかりやすい世界史用語2389

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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