人頭税(ジズヤ)廃止とは
ムガル帝国の第3代皇帝であったアクバルは、その治世においてインド亜大陸の歴史に影響を与える数多くの革新的な政策を導入しました。中でも、非イスラム教徒に課せられていた人頭税であるジズヤの廃止は、彼のリベラルで寛容な統治哲学を象徴する最も重要な改革の一つとして位置づけられています。1564年に初めて人頭税(ジズヤ)を廃止し、その後一時的に復活したものの1579年に再び廃止するという決定は、単なる税制改革にとどまらず、帝国内の多様な宗教的・文化集団を統合し、より包括的で統一された国家を築こうとするアクバルの壮大なビジョンを反映したものでした。ジズヤは、イスラム法(シャリーア)において、イスラム教徒の支配下にある非イスラム教徒(ズィンミー)が、その生命、財産、信仰の自由を保障される見返りとして支払う義務があるとされる税でした。しかし、その運用は時代や地域によって大きく異なり、しばしば被支配者に対する差別的な象徴として機能し、社会的な緊張の原因となっていました。アクバルがこの税を廃止したことは、ムガル帝国が単なるイスラム王朝ではなく、インド亜大陸のすべての臣民、すなわちヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、シク教徒、キリスト教徒、ゾロアスター教徒などを含む、あらゆる信仰を持つ人々の帝国であるという強力なメッセージを発信するものでした。この政策は、ヒンドゥー教徒が人口の大多数を占めるインドにおいて、彼らの協力と忠誠を確保するための極めて現実的な政治的判断であったと同時に、アクバル自身の深い精神的探求と、すべての宗教の根底には共通の真理が存在するという信念(後に「ディーネ・イラーヒー」として体系化される)の現れでもありました。
ジズヤの歴史的背景とイスラム法における位置づけ
ジズヤの起源と概念を理解することは、アクバルの廃止政策の革新性を評価する上で不可欠です。ジズヤという言葉は、クルアーンの第9章29節にその典拠が見出されます。「啓典の民(ユダヤ教徒とキリスト教徒)のうち、アッラーをも最後の審判の日をも信じず、アッラーとその使徒が禁じたことを守らず、真理の教えを信じない者たちとは、彼らが進んで屈服し、ジズヤを支払うまで戦え」。この聖句が、イスラム国家における非イスラム教徒の法的地位、すなわちズィンミー制度の根幹をなすものと解釈されてきました。ズィンミーとは「保護された民」を意味し、ジズヤを支払うことで、イスラム国家から生命、財産、共同体内の自治、そして最も重要な点として信仰の実践を保障されるとされました。また、彼らはイスラム教徒が負うザカート(喜捨)の義務や兵役を免除されるのが一般的でした。この制度は、初期イスラム帝国の急速な拡大期において、多様な宗教を信仰する広大な人口を統治するための現実的な枠組みとして機能しました。アラビア半島から北アフリカ、中東、ペルシャへと版図が広がる中で、イスラム教の支配者たちは、被征服民を強制的に改宗させるのではなく、ズィンミーとして共同体に取り込むことで、社会の安定を維持し、税収を確保する道を選んだのです。
しかし、ジズヤの具体的な税率や徴収方法は、クルアーンやハディース(預言者ムハンマドの言行録)に明確な規定がなく、歴史を通じて様々な解釈と実践を生み出しました。一般的には、成人男性のみが課税対象とされ、女性、子供、老人、病人、貧困者、聖職者などは免除されることが多かったとされています。税額は、個人の支払い能力に応じて階層的に設定されることが多く、例えば、裕福な者、中流階級、貧しい者で異なる額が課せられました。徴収の際には、屈辱的な儀式を伴うべきだとする厳格な解釈もあれば、単なる行政的な手続きとして行われるべきだとする穏健な見解も存在しました。この税は、イスラム国家の財政にとって重要な収入源であっただけでなく、イスラム教徒の優位性と非イスラム教徒の従属的な地位を明確に示す象徴的な意味合いを強く持っていました。そのため、ジズヤの存在は、常にイスラム教徒と非イスラム教徒の関係性における敏感な問題であり続け、その運用方法は、当時の支配者の寛容度や政治的状況を測るバロメーターとなりました。インド亜大陸においては、13世紀に成立したデリー=スルタン朝の時代からジズヤが導入され、イスラム教徒の支配者と大多数を占めるヒンドゥー教徒の住民との関係を規定する重要な要素となりました。一部のスルターンは厳格にジズヤを徴収し、ヒンドゥー教徒に対する圧力を強めましたが、一方で、フィールーズ・シャー・トゥグルクのように、それまで免除されていたバラモン階級にまで課税対象を広げ、大きな反発を招いた例もあります。このように、アクバルが皇帝に即位する以前のインドにおいて、ジズヤはすでに複雑で論争の的となる歴史を積み重ねており、その存在はヒンドゥー教徒の間に根深い不満と疎外感を生み出す一因となっていたのです。
アクバルの統治哲学と宗教的寛容政策
アクバルがジズヤ廃止という大胆な決断に至った背景には、彼の独特な統治哲学と、個人的な精神的探求がありました。彼は、ムガル帝国を単なる軍事力による征服王朝ではなく、インド亜大陸に住む多様な民族と宗教を統合した、永続的で安定した国家として確立することを目指していました。そのためには、人口の大多数を占めるヒンドゥー教徒の協力と支持が不可欠であると深く認識していました。彼の統治初期の政策は、この目標を達成するための布石として理解することができます。その最も顕著な例が、ヒンドゥー教徒の有力な王侯一族であるラージプート族との同盟政策です。アクバルは、武力で彼らを征服するだけでなく、政略結婚を通じて彼らを帝国の支配エリート層に積極的に組み込みました。彼自身もラージプートの王女と結婚し、その息子たちにも同様の婚姻を奨励しました。これにより、ラージプートの王侯たちは、単なる被征服者ではなく、帝国の共同統治者としての地位と名誉を与えられ、アクバルに対する強い忠誠心を持つようになりました。彼らは帝国の最高位の軍司令官や行政官に任命され、ムガル帝国の拡大と安定に大きく貢献しました。
この政治的な現実主義と並行して、アクバルは深い精神的な探求心を持つ人物でした。彼はスンニ派イスラム教徒として育てられましたが、既存の宗教的権威や形式的な教義に満足することなく、自ら真理を探究することを求めました。1575年、彼は首都ファテープル・シークリーに「イバーダト・カーナ(崇拝の館)」を建設し、当初はイスラム教内の様々な学派(スンニ派、シーア派など)の学者たちを招いて、神学的・法学的な問題について議論させました。しかし、彼はすぐに彼らの間の狭量な派閥争いや不毛な論争に幻滅します。そこでアクバルは、議論の輪をイスラム教の枠を超えて広げ、ヒンドゥー教のパンディット(学者)、ジャイナ教の僧侶、ゾロアスター教の神官、さらにはゴアから招いたイエズス会のキリスト教宣教師など、あらゆる宗教の代表者たちをイバーダト・カーナに招き、自由な対話の場を設けました。毎週木曜日の夜に行われたこれらの議論を通じて、アクバルは各宗教の教義、儀式、哲学に触れ、その多様性と共通性について深い洞察を得ました。彼は、特定の宗教だけが唯一絶対の真理を独占しているのではなく、すべての宗教の根底には共通の普遍的な真理、すなわち神的な光が存在するという確信を深めていきました。この信念は、「スルヘ・クル(万人の平和、絶対的平和)」という彼の統治理念の中核をなすものとなります。スルヘ・クルとは、宗教や信条の違いによって人々を差別することなく、すべての臣民が平和と調和のうちに共存できる社会を目指すという理想でした。この理念に基づき、アクバルはジズヤ廃止(1564年、1579年)のほかにも、ヒンドゥー教徒の巡礼地にかかる巡礼税の廃止(1563年)、強制的な改宗の禁止、ヒンドゥー教の祭礼への参加、さらにはサンスクリット語の叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』をペルシャ語に翻訳させるなど、一連の寛容政策を次々と打ち出していきました。これらの政策は、アクバルが帝国のすべての臣民を、宗教によって隔てられることなく、皇帝の慈悲の下にある平等な存在と見なしていることを明確に示すものでした。
ジズヤ廃止の断行:1564年と1579年の二度の布告
アクバルのジズヤ廃止は、一度の布告で完結したわけではなく、二段階のプロセスを経て実行されました。最初の廃止令は、彼が22歳であった1564年に発布されました。この時期のアクバルは、後見人であったバイラム・ハーンの影響下から独立し、自らの意志で統治を開始したばかりでした。前年の1563年には、ヒンドゥー教徒がマトゥラーなどの聖地を訪れる際に課せられていた巡礼税を廃止しており、ジズヤ廃止はこの流れを汲むものでした。この初期の廃止決定は、若き皇帝の理想主義と、ラージプートをはじめとするヒンドゥー教徒の有力者との関係を強化しようとする政治的配慮が結びついた結果であったと考えられます。当時のムガル帝国の財務長官であったトダル・マル(彼自身もヒンドゥー教徒であった)をはじめとする一部の廷臣たちは、ジズヤが国家の歳入に大きく貢献していることを理由に、この決定に強く反対したと記録されています。ジズヤからの収入は、帝国の財政において決して無視できない割合を占めており、これを放棄することは大きな財政的リスクを伴うものでした。しかし、アクバルは、帝国の長期的な安定と繁栄のためには、金銭的な損失を補って余りある政治的利益、すなわち大多数の臣民の心からの忠誠を得ることの方が重要であると判断しました。彼は、宗教的な違いに基づいて臣民を区別し、一方に負担を強いることは、神の意に反する不公正な行いであると主張し、反対を押し切って廃止を断行しました。
しかし、この1564年の廃止令は、帝国全土で完全に、そして永続的に実施されたわけではなかったようです。一部の歴史家は、地方レベルでは、中央の意向に反して保守的なウラマー(イスラム法学者)や地方官僚がジズヤの徴収を継続していた可能性を指摘しています。そして、1575年頃、アクバルがベンガルやビハール地方での反乱鎮圧に追われている中で、財政的な必要性からジズヤが一時的に復活したとされています。この復活は、帝国の東方での軍事作戦にかかる莫大な費用を賄うための緊急措置であった可能性が高いです。しかし、この措置はアクバルの基本理念とは相容れないものであり、彼自身の不本意な決定であったと考えられます。反乱が鎮圧され、帝国の状況が安定すると、アクバルは再びジズヤの問題に取り組みました。そして1579年、イバーダト・カーナでの宗教間対話が深まり、彼自身の「スルヘ・クル(万人の平和)」の理念が確立される中で、アクバルはジズヤを再び、そして今度はより断固たる形で廃止することを宣言しました。この二度目の廃止は、単なる税制改革ではなく、アクバルの新しい国家観の公式な表明としての意味合いを強く持っていました。同年、アクバルは「マフザル」を発布し、クルアーンの解釈に関してウラマーの間で意見が対立した場合には、皇帝が最終的な裁定者となる権限を持つことを宣言しました。これにより、彼は保守的なウラマーの権威を相対化し、自らの宗教政策をイスラム法の伝統的な解釈から解放する法的根拠を確保しました。1579年のジズヤ再廃止は、このマフザルと連動した動きであり、ムガル帝国が特定の宗教的ドグマに縛られるのではなく、皇帝の公正な判断に基づいてすべての臣民を統治するという、新しい政治秩序の確立を象E徴する画期的な出来事でした。この決定により、ジズヤはアクバルの治世が続く限り、ムガル帝国の公式な政策として廃止され続けることになったのです。
廃止の動機:政治的現実主義と精神的探求の融合
アクバルがジズヤ廃止という前例のない政策を断行した動機は、単一の理由に帰することはできず、極めて現実的な政治的計算と、彼個人の深い精神的・倫理的信念が複雑に絡み合った結果として理解する必要があります。政治的な側面から見れば、ジズヤ廃止は、広大で多様性に富むインド亜大陸を効果的に統治するための、卓越した戦略的判断でした。ムガル帝国は、人口構成においてイスラム教徒が少数派であり、ヒンドゥー教徒が圧倒的多数を占めるという現実の上に成り立っていました。このような状況下で、長期的に安定した支配を確立するためには、武力による威圧だけでは不十分であり、大多数の臣民であるヒンドゥー教徒の協力と同意を取り付けることが不可欠でした。ジズヤは、金銭的な負担以上に、非イスラム教徒であるという理由で課せられる差別的な税として、ヒンドゥー教徒の間に深い屈辱感と疎外感を生み出していました。この税を廃止することは、彼らに対する最大の懐柔策であり、ムガル帝国が単なる外来のイスラム征服王朝ではなく、自分たちの利益と尊厳を尊重してくれる「自分たちの帝国」であると感じさせるための、最も効果的な象徴的行為でした。特に、帝国の軍事的・行政的な屋台骨を支える存在となりつつあったラージプートの王侯たちにとって、ジズヤの廃止は、彼らが皇帝から全幅の信頼を寄せられ、帝国の対等なパートナーとして遇されていることの証となりました。これにより、彼らの忠誠心は一層強固なものとなり、帝国のさらなる拡大と安定化に貢献したのです。アクバルは、ジズヤの廃止によって失われる税収は、帝国の安定と臣民の忠誠という、より大きな政治的利益によって十分に補われると計算していたのです。
一方で、この政策を単なる政治的策略としてのみ捉えるのは、アクバルという人物の多面性を見過ごすことになります。彼の行動の背後には、深い倫理観と真理への探求心がありました。アクバルの公式伝記であるアブル・ファズルの『アクバル・ナーマ』によれば、皇帝は、神がすべての人間に等しく慈悲を注いでいるにもかかわらず、為政者が信仰の違いを理由に一部の臣民にのみ負担を強いることは、神の意に反する不正義であると考えていました。彼は、ジズヤが人々の間に敵意と不和の種をまき、国家の統合を妨げるものであると見なしていました。イバーダト・カーナでの様々な宗教指導者との対話を通じて、アクバルは特定の教義や儀式の違いを超えた、普遍的な神性の存在を確信するに至りました。彼は、ヒンドゥー教徒も、キリスト教徒も、ジャイナ教徒も、それぞれの方法で同じ一つの真理を求めているのであり、彼らを二級市民として扱うことは誤りであると考えるようになりました。この精神的な確信が、彼の「スルヘ・クル(万人の平和)」という統治理念へと結実します。この理念は、国家が特定の宗教に与するのではなく、すべての宗教を等しく保護し、信教の自由を保障する中立的な存在であるべきだという考え方です。この観点からすれば、ジズヤは、国家がイスラム教の優位性を強制し、宗教による差別を制度化するものであり、「スルヘ・クル」の理念とは根本的に相容れないものでした。したがって、1579年の二度目の廃止は、アクバルの宗教的・哲学的思索の深化と、彼が目指す理想国家のビジョンが明確になったことの直接的な現れであったと言えます。このように、ジズヤ廃止は、帝国の安定という現実的な目標と、万民の平等の実現という理想主義的なビジョンが、アクバルという稀有な統治者の中で見事に融合した結果生まれた、画期的な政策だったのです。
ジズヤ廃止がムガル帝国に与えた影響
政治的影響:帝国の統合とラージプートとの同盟強化
ジズヤの廃止がムガル帝国の政治構造に与えた影響は、計り知れないほど大きなものでした。この政策は、ムガル帝国を、単なる中央アジアから来たイスラム教徒の軍事政権から、インド亜大陸に根差した真の「インド帝国」へと変貌させる上で、決定的な役割を果たしました。ジズヤという、非イスラム教徒に対する最も象徴的な差別的制度を撤廃することにより、アクバルは帝国のすべての臣民に対し、宗教的身分に関わらず、皇帝の下で平等な存在であるという強力なメッセージを送りました。これは、人口の大多数を占めるヒンドゥー教徒の心理に劇的な変化をもたらしました。彼らはもはや、異教徒の支配者に服従を強いられる二級市民ではなく、帝国の正当な構成員としての自覚を持つようになったのです。この政策転換の最大の受益者であり、また最大の貢献者となったのが、ラージプートの王侯たちでした。アクバルはすでに政略結婚や高官への登用を通じて彼らとの同盟関係を築いていましたが、ジズヤの廃止は、この同盟を単なる政治的便宜を超えた、相互の信頼と尊敬に基づく強固なパートナーシップへと昇華させました。ラージプートの指導者たちは、自分たちの宗教的尊厳が皇帝によって尊重されていることを実感し、ムガル帝国への忠誠を誓いました。彼らは帝国の最も信頼できる将軍として、デカン地方やベンガル、北西辺境など、帝国の版図拡大の最前線で戦いました。また、彼らは有能な行政官として帝国の統治機構に深く組み込まれ、その安定に貢献しました。ラージプートの協力なくして、アクバル時代のムガル帝国の驚異的な拡大と繁栄はあり得なかったでしょう。ジズヤの廃止は、帝国の軍事力と行政能力を飛躍的に高めるための、最も効果的な投資であったと言えます。さらに、この政策はムガル帝国の正統性の基盤を再定義しました。それまでのイスラム王朝が、イスラム法(シャリーア)の守護者であることを支配の正統性の源泉としていたのに対し、アクバルは、皇帝自身の公正さ(アドル)と、すべての臣民に対する慈悲深い配慮(スルヘ・クル)こそが、支配の正統性の根拠であると主張しました。これにより、ムガル帝国は特定の宗教的イデオロギーから超越した、より普遍的で包括的な国家理念を獲得し、その支配はインド亜大陸の多様な人々の心に、より深く根を下ろすことになったのです。
社会的・文化的影響:共存と融合の促進
ジズヤ廃止は、ムガル帝国下のインド社会における異なる宗教共同体間の関係にも、深く永続的な影響を及ぼしました。この税の存在は、イスラム教徒と非イスラム教徒の間に明確な身分上の境界線を引き、日常的なレベルでの差別と緊張の源となっていました。その撤廃は、この制度的な障壁を取り払い、より自由で開かれた交流と相互理解への道を開きました。もちろん、長年にわたって培われた社会的な偏見や習慣が一夜にして消え去ったわけではありません。しかし、国家の最高権力者である皇帝が、公然と宗教的平等を宣言し、それを具体的な政策として示したことの象徴的な意味は非常に大きかったのです。これにより、ヒンドゥー教徒やその他の非イスラム教徒は、社会的な萎縮から解放され、より大きな自信と尊厳を持って自らの信仰を実践し、文化活動を行うことができるようになりました。アクバルの宮廷そのものが、この新しい時代の精神を体現していました。そこでは、ヒンドゥー教徒の学者、芸術家、音楽家、建築家が、イスラム教徒の同僚たちと対等な立場で協力し、互いに影響を与え合いました。この文化的な交流の中から、ムガル絵画、建築、音楽、文学といった、ペルシャ・イスラム文化とインド・ヒンドゥー文化の要素が見事に融合した、独自の洗練された文化様式が花開きました。例えば、アクバルが建設した新首都ファテープル・シークリーの建築様式には、イスラム建築のアーチやドームと、ヒンドゥー建築の柱や梁の構造が巧みに組み合わされています。また、宮廷では、ヒンドゥー教の祭典であるディーワーリー(光の祭り)やホーリー(色の祭り)が、イスラム教の祭典と同様に祝われ、皇帝自身も積極的に参加しました。さらに、アクバルは翻訳局を設立し、『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』、『アタルヴァ・ヴェーダ』といったサンスクリット語の膨大な古典文献をペルシャ語に翻訳させました。これは、イスラム教徒のエリート層にインドの豊かな思想的・文学的伝統への理解を深めさせ、文化的な断絶を乗り越えようとする壮大な試みでした。ジズヤの廃止は、このような「スルヘ・クル(万人の平和)」の理念に基づく文化的共存と融合の時代を象徴し、それを可能にする社会的な雰囲気を作り出す上で、不可欠な前提条件だったのです。
経済的影響:歳入構造の変化と経済活動の活性化
経済的な観点から見ると、ジズヤの廃止は一見、国家にとって大きな歳入減を意味するものでした。ジズヤは、特に非イスラム教徒が多数を占める地域においては、国家財政の重要な柱の一つであり、これを放棄することは、当時の財務官僚たちが懸念したように、大きな財政的リスクを伴う決断でした。しかし、アクバルと彼の顧問たちは、より長期的で大局的な視点から経済を捉えていました。彼らは、ジズヤ廃止による直接的な歳入減は、経済全体の活性化によって十分に補うことができると考えていたのです。ジズヤという負担から解放された非イスラム教徒の商人、職人、農民たちは、より大きな経済的自由を享受し、その生産意欲や投資意欲が高まったと考えられます。税負担の軽減は、彼らの可処分所得を増加させ、それが消費や新たな事業への投資へと向かうことで、経済全体のパイを拡大させる効果が期待されました。さらに重要なのは、ジズヤ廃止がもたらした社会の安定と政治的統合が、経済活動にとって極めて良好な環境を創出したことです。宗教的な対立が緩和され、帝国内の治安が向上したことで、商人はより安全に長距離交易を行うことができるようになりました。帝国の隅々まで張り巡らされた統一的な行政システムと安定した通貨制度は、市場の統合を促進し、商業の発展を力強く後押ししました。アクバル政権は、ジズヤ廃止による歳入減を補うため、土地測量に基づくより合理的で公平な地租制度(ザプト制)の改革と普及に力を注ぎました。トダル・マルによって完成されたこの制度は、過去10年間の平均収穫量と価格に基づいて税率を定め、農民に安定した納税を促すものでした。この効率的な地租制度からの収入が、ムガル帝国の財政の主たる基盤となり、ジズヤの喪失を補って余りあるものとなりました。つまり、アクバルの経済政策は、特定の集団から搾取する旧来のモデルから、経済全体の成長を促進し、そこから公平に税を徴収するという、より近代的で持続可能なモデルへの転換であったと言えます。ジズヤ廃止は、この新しい経済ビジョンへの移行を象徴する、重要な一歩だったのです。
後継者たちの時代:ジズヤの復活とアクバル政策の揺り戻し
アクバルの死後、彼が築き上げた「スルヘ・クル(万人の平和)」の理念と、それを具現化したジズヤ廃止政策は、後継者たちの治世において複雑な運命を辿ることになります。アクバルの息子であるジャハーンギールと、その息子であるシャー・ジャハーンの治世(合わせて約50年間)においては、アクバルの寛容政策の基本路線は概ね維持されました。彼らは公式にはジズヤを復活させず、ヒンドゥー教徒の高官登用も継続しました。宮廷文化においても、アクバル時代に花開いたインド・イスラム文化の融合はさらに洗練され、タージ・マハルのような不朽の建築物を生み出しました。しかし、同時に、彼らの治世下では、正統派イスラムのウラマー(法学者)の影響力が徐々に回復していく兆候も見られました。ジャハーンギールは、シク教のグル(指導者)であるアルジュン・デヴを処刑し、シャー・ジャハーンは新たにヒンドゥー寺院を建設することを禁じる勅令を出しました。これらは、アクバル時代のような徹底した宗教的寛容からの、わずかな、しかし明確な後退を示すものでした。
この揺り戻しの動きが決定的な形となって現れたのが、シャー・ジャハーンの息子であり、第6代皇帝となったアウラングゼーブの治世です。アウラングゼーブは敬虔で厳格なスンニ派イスラム教徒であり、アクバルの宗教的寛容政策、特に「スルヘ・クル」の理念を、イスラムの教えから逸脱したものとして批判的に見ていました。彼は、国家の役割はイスラム法(シャリーア)を厳格に施行し、イスラム教の優位性を確立することにあると考えていました。この信念に基づき、アウラングゼーブはアクバルの政策を次々と覆していきました。彼は宮廷での音楽や舞踊を禁じ、ヒンドゥー教の祭礼への参加をやめ、多くのヒンドゥー寺院の破壊を命じました。そして、その集大成として、1679年、アクバルによる廃止から約1世紀を経て、ジズヤを帝国全土で復活させることを宣言しました。この決定は、ムガル帝国の国家理念の根本的な転換を意味するものでした。アウラングゼーブとその支持者たちにとって、ジズヤの復活は、イスラム法への回帰であり、国家の道徳的・宗教的秩序を回復するための正当な行為でした。また、長年にわたるデカン地方での戦争で悪化していた帝国財政を再建するための、現実的な歳入増加策という側面もありました。しかし、この政策がもたらした政治的・社会的影響は、帝国にとって破滅的なものでした。ヒンドゥー教徒たちは、この措置を自分たちの信仰と尊厳に対する侮辱と受け取り、帝国全土で広範な抗議と反乱が勃発しました。特に、アクバル時代には帝国の最も忠実な同盟者であったラージプート族は公然と反旗を翻し、彼らとの長年にわたる戦争は帝国の軍事力と財政を著しく消耗させました。また、マラーター族の指導者シヴァージーは、ヒンドゥー教徒の保護者を標榜して巧みに抵抗運動を組織し、ムガル帝国にとって最大の脅威となりました。さらに、シク教徒やジャート族なども各地で反乱を起こし、帝国の支配は根底から揺らぎ始めました。ジズヤの復活は、アクバルが苦心して築き上げた、多様な共同体を統合する包括的な帝国の枠組みを自ら破壊する行為であり、結果的にムガル帝国の衰退と崩壊を決定的に早める一因となったのです。アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は急速に弱体化し、後継の皇帝たちはジズヤを恒久的に施行する力を失い、18世紀初頭には再び廃止されましたが、その時にはすでに帝国のかつての栄光は失われていました。
インド史におけるアクバルの遺産
アクバルによるジズヤの廃止は、近世インド史における画期的な出来事であり、その影響はムガル帝国の枠を超えて、後世にまで及ぶ深い遺産を残しました。この政策は、単なる税制改革ではなく、国家のあり方、統治の正統性、そして多様な宗教共同体間の関係性を根本から問い直す、壮大な政治的・哲学的実験でした。アクバルは、武力と宗教的権威に依存する旧来の支配モデルから脱却し、公正(アドル)と万人の平和(スルヘ・クル)という普遍的な理念に基づいた、新しい形の国家を構想しました。ジズヤの廃止は、この構想を具現化するための最も象徴的かつ実践的な一歩であり、帝国の大多数を占める非イスラム教徒を、疎外された被支配者から、帝国の運命を共にする対等なパートナーへと引き上げるものでした。この大胆な政策転換は、ラージプートの忠誠を確保し、帝国の政治的・軍事的な基盤を強固なものにしました。また、社会的には宗教間の緊張を緩和し、文化的にはインド・イスラム文化の類稀な融合と発展を促しました。経済的にも、社会の安定と経済活動の活性化を通じて、帝国の長期的な繁栄に貢献しました。
しかし、アクバルの遺産は、その後の歴史の展開によって複雑な光と影を投げかけられることになります。彼の後継者、特にアウラングゼーブによるジズヤの復活は、アクバルが目指した包括的な国家理念からの決定的な決別を意味しました。この政策転換は、帝国を再び宗教的な対立と不信の渦に巻き込み、かつて帝国の支柱であったラージプートや、新たに台頭したマラーターなどの勢力を敵に回す結果を招きました。アウラングゼーブの治世末期には、アクバルが築き上げた帝国の統合は大きく損なわれ、その死後、ムガル帝国は急速な衰退の道をたどることになります。アクバルの寛容政策とアウラングゼーブの厳格なイスラム化政策の対比は、インド史における二つの異なる国家ビジョンの間の根深い緊張関係を象徴しています。一つは、多様性を尊重し、異なる文化や宗教を包摂することで国家の統合を目指す道。もう一つは、特定の宗教的・文化的アイデンティティを国家の基盤とし、それに同化しない人々を排除または従属させる道です。アクバルのジズヤ廃止は、前者のビジョンを最も明確に示したものであり、その後のインドの歴史において、世俗主義や多元主義を志向する人々にとって、常に参照されるべき先例となりました。彼の試みは、宗教がしばしば対立の源となる世界において、異なる信仰を持つ人々が平和的に共存できる社会をいかにして構築するかという、普遍的な問いに対する一つの力強い答えを提示しています。