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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

バーブルとは わかりやすい世界史用語2361

著者名: ピアソラ
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バーブルとは

ザヒルッディーン・ムハンマド・バーブル(1483年2月14日 - 1530年12月26日)は、インド亜大陸におけるムガル帝国の創始者です。 彼は父方からティムール、母方からチンギス・カンという、歴史上最も著名な二人の征服者の血を引いていました。 バーブルという名前はペルシャ語で「虎」を意味する「バブル」に由来し、彼の勇猛さと不屈の精神を象徴しています。 彼の生涯は、中央アジアの故郷を追われた王子が、不屈の闘志と卓越した軍事的才能をもってインド北部に巨大な帝国を築き上げるという、波乱に満ちた物語です。 彼の人生は大きく三つの時期に分けられます。一つ目は、現在のウズベキスタンにあるフェルガナでの幼少期と初期の闘争。二つ目は、アフガニスタンのカブールを拠点とし、中央アジアでの再起を図った時期。そして三つ目が、インドへの進出とムガル帝国の建国です。 バーブルは単なる軍事指導者や帝国建設者にとどまらず、優れた詩人、作家、そして自然を愛する人物でもありました。 彼がチャガタイ・トルコ語で記した自伝『バーブル・ナーマ』は、彼の人生、思想、そして彼が生きた時代の社会や文化を生き生きと伝える貴重な歴史資料として高く評価されています。 この著作は、彼の孫であるアクバル帝の治世にペルシャ語に翻訳され、後世に広く知られることとなりました。



血統と文化的背景:ティムールとチンギス=ハンの遺産

バーブルは、1483年2月14日、中央アジアのフェルガナ渓谷に位置する都市アンディジャンで生まれました。 彼の出自は、当時の世界で最も強力な二つの征服者の系譜に連なります。父方の祖先は、14世紀に広大な帝国を築いたトルコ・モンゴル系の征服者ティムールです。 具体的には、バーブルはティムールの三男ミーラーン・シャーの玄孫にあたります。 一方、母方の祖先は、13世紀にユーラシア大陸の大部分を席巻したモンゴル帝国の創始者チンギス=ハンです。 彼の母クトゥルグ・ニガール・ハーヌムは、モグーリスタン・ハン国の君主ユーヌス・ハーンの娘であり、チンギス・カンの次男チャガタイの子孫でした。 このように、バーブルは父方からティムールの軍事的野心と統治の伝統を、母方からチンギス・カンの不屈の精神と遊牧民的な気質を受け継いでいました。
バーブルが属していたバルラス部は、元々はモンゴル系の部族でしたが、長年にわたってテュルク(トルコ)系の人々が住む地域に定住していたため、言語や習慣の面でテュルク化していました。 そのため、バーブル自身はモンゴル系の出自でありながら、彼の支援者の多くはテュルク系の人々であり、彼が築いた帝国もテュルク的な性格を強く帯びていました。 また、彼の家系はチャガタイ・ハン国に連なることから、チャガタイ家としても知られています。 バーブルが生まれた頃には、中央アジア西部に残っていたモンゴル人の末裔たちは、テュルク系やペルシャ系の人々と通婚し、現地の文化に同化していました。 彼らはイスラム教に改宗し、特にペルシャ文化の影響を強く受けていました。 宮廷の公用語としてペルシャ語(ファールシー語)が用いられるなど、その文化はテュルク、モンゴル、ペルシャの要素が混じり合った複合的なものでした。 バーブル自身も、母語であるチャガタイ・トルコ語に加え、アラビア語やペルシャ語にも堪能な教養人でした。 このような多様な文化的背景は、後のムガル帝国の文化的な豊かさの礎となりました。

フェルガナの若き支配者:失意と放浪の始まり

1494年、バーブルの父でありフェルガナの領主であったウマル・シャイフ・ミールザーが不慮の事故で亡くなりました。 これにより、バーブルはわずか12歳という若さで、フェルガナの君主として即位しました。 しかし、彼の治世の始まりは困難に満ちていました。ティムール朝には明確な継承法が存在せず、ティムールの子孫である王子たちは誰もが帝国全土を支配する権利があると考えていたため、王位を巡る争いが絶えませんでした。 バーブルも例外ではなく、父に敵対的だった近隣の叔父たちや、彼の弟ジャハーンギールを擁立しようとする貴族たちによって、その地位は常に脅かされていました。
即位からわずか2年後の1497年、バーブルは祖先ティムールのかつての首都であり、中央アジアの至宝とされた都市サマルカンドを征服するという快挙を成し遂げます。 しかし、この勝利は長くは続きませんでした。彼がサマルカンドに滞在している隙に、フェルガナで反乱が起こり、彼は故郷を失ってしまいます。 さらに、フェルガナを奪還しようとする試みの最中に、サマルカンドの支配権も失ってしまいました。
1501年、バーブルは再びサマルカンドの奪還を試みますが、ウズベク族の指導者ムハンマド・シャイバーニー・ハーンとの決戦(サル・イ・プルの戦い)で決定的な敗北を喫します。 この敗北により、バーブルはサマルカンドとフェルガナの両方を失い、中央アジアにおける足場を完全に失いました。 彼は故郷を追われ、わずかな供回りと共に放浪の身となります。 この敗北は、彼の人生における最初の大きな挫折であり、彼の視線を南方、すなわちアフガニスタンとインドへと向けさせるきっかけとなりました。 故郷を失い、王座を追われた若き王子は、新たな王国を築くため、ヒンドゥークシュ山脈を越えて南へと向かうことを決意します。 この失意と放浪の経験は、彼の忍耐力、勇気、そして自己への信頼を育み、後の大事業を成し遂げるための重要な糧となったのです。

カブールの拠点化:インドへの序章

中央アジアでの拠点を失ったバーブルは、南方に活路を見出しました。 1504年、彼はヒンドゥークシュ山脈を越え、現在のアフガニスタンに位置するカブールを占領しました。 この都市は、血を流すことなく彼の手に落ち、彼の新たな活動拠点となりました。 カブールの征服は、バーブルの人生における重要な転換点でした。 この戦略的な拠点を確保したことで、彼は中央アジアの富裕な土地への征服者たちの標的であったインドに、より近い位置を占めることになったのです。 カブールは北インドと世界を結ぶ結節点であり、特に中央アジアからの軍馬などの多くの商品がこの地を経由してインドへ運ばれていました。 この地理的優位性は、バーブルにとって非常に有利に働きました。
カブールを拠点としたバーブルは、自身の軍隊を再建し、力を蓄え始めました。彼は当初、故郷である中央アジアの失地回復に執着していました。1511年には、サファヴィー朝のイスマーイール1世と同盟を結び、サマルカンドを含むトルキスタンの一部を一時的に奪還することに成功します。 しかし、この勝利も長くは続かず、再びウズベクのシャイバーニー朝によって奪い返されてしまいました。 1512年のガズデワーンの戦いでの敗北は、彼に中央アジア全域の放棄を余儀なくさせ、インドへの関心を決定的にさせました。
サマルカンドを三度失った後、バーブルは北インドの征服に全神経を集中させるようになります。 彼はティムールの子孫として、かつてティムールが領有していたパンジャーブ地方に権利があると主張していました。 1519年から1524年にかけて、彼はインドへの遠征を繰り返し開始します。 これらの遠征の当初の目的は、富を蓄積することでした。 彼は、ビーラ(1519-1520年)、シアールコート(1520年)、そしてラホール(1524年)といったパンジャーブ地方の主要都市を次々と攻略していきました。
当時の北インドは、デリー・スルタン朝のローディー朝によって統治されていましたが、その支配は弱体化し、内紛が絶えませんでした。 パンジャーブの総督であったダウラト・ハーン・ローディーや、スルタンの叔父であるアーラム・ハーンといった有力者たちは、現スルタンのイブラーヒーム・ローディーに不満を抱き、バーブルにインド侵攻を要請しました。 この内部分裂は、バーブルにとって千載一遇の好機でした。彼はこの招待を受け入れ、北インド全域の征服という壮大な野望を胸に、デリーへと進軍を開始するのです。

第一次パーニーパットの戦い(1526年):ムガル帝国建国の刻

1526年4月21日、デリー近郊のパーニーパットの地で、バーブルの運命を決定づける戦いの火蓋が切られました。 この第一次パーニーパットの戦いは、バーブル率いる侵攻軍と、デリー・スルタン朝最後の君主イブラーヒーム・ローディーが率いる大軍との間で繰り広げられました。 この戦いは、インドにおけるムガル帝国の始まりを告げる画期的な出来事となりました。
両軍の兵力には圧倒的な差がありました。バーブル軍が約1万5000人の兵士と20から24門の野戦砲で構成されていたのに対し、イブラーヒーム・ローディー軍は総勢約3万人から4万人、一説には10万人の兵士と、少なくとも1000頭の戦象を擁していました。 数的に圧倒的に不利な状況で、バーブルは革新的な戦術と技術を駆使して勝利を掴みます。
バーブルは、オスマン帝国がチャルディラーンの戦いで用いた戦術を参考に、独自の陣形を構築しました。 彼は700台の荷車をロープで連結して防御壁を作り、その隙間に胸壁を設けて火縄銃兵を配置しました。 この「アラバ」と呼ばれる荷車陣地は、敵の突撃を防ぐ強固な防衛線として機能しました。 さらに、陣地の右翼はパーニーパットの市街地に接して守りを固め、左翼には木の枝で覆った塹壕を掘って騎兵の攻撃に備えました。
戦いが始まると、バーブルは「トゥルグマ」と呼ばれる戦術を用いました。これは、自軍の一部を敵軍の側面から後方へと回り込ませ、包囲攻撃を仕掛けるというものです。 イブラーヒーム・ローディー軍が狭い正面からバーブルの陣地に攻撃を仕掛けようと再配置している隙を突き、バーブルは素早く両翼から騎馬弓兵部隊を繰り出してローディー軍を包囲しました。
この戦いの勝敗を決定づけたのは、バーブル軍がインド亜大陸で本格的に使用した最初期の例となる火薬兵器、すなわち大砲と火縄銃でした。 大砲の轟音はローディー軍の戦象をパニックに陥らせ、象たちは自軍の兵士を踏みつけて混乱を拡大させました。 荷車の防壁に守られた火縄銃兵の一斉射撃は、密集したローディー軍に壊滅的な打撃を与えました。 側面と後方からの騎兵による攻撃と、正面からの銃砲撃によって三方から挟み撃ちにされたローディー軍は総崩れとなりました。
この戦いで、イブラーヒーム・ローディーは戦死し、彼の軍隊も2万人以上の死者を出すという壊滅的な敗北を喫しました。 戦いはわずか半日で決着し、バーブルは圧倒的な勝利を収めました。 この勝利により、バーブルはデリーとアグラを占領し、ローディー朝を終わらせ、インドにおけるムガル支配の礎を築いたのです。 第一次パーニーパットの戦いは、単なる一戦闘の勝利ではなく、インド史の新たな時代を切り開いた、軍事史的にも政治的にも極めて重要な戦いでした。

カーンワーの戦い(1527年):ラージプート連合との決戦

第一次パーニーパットの戦いでデリー・スルタン朝を破り、デリーとアグラを掌握したバーブルでしたが、彼のインド支配はまだ盤石ではありませんでした。 北インドには、メーワール王国のラージプートの指導者、ラーナー・サーンガーという強力な挑戦者が存在しました。 ラーナー・サーンガーは、多くのラージプート氏族を統一し、北インドで最も強力な勢力の一つを築き上げていました。 彼はバーブルをインドから追い出し、ラージプートの領土をデリーとアグラまで拡大することを目指していました。 また、バーブルに欺かれたと感じていたアフガン人の首長たちもラーナー・サーンガーを支持し、一大連合軍が結成されました。
1527年3月16日(または17日)、アグラ近郊のカーンワーで、バーブル率いるムガル軍とラーナー・サーンガー率いるラージプート連合軍が激突しました。 このカーンワーの戦いは、第一次パーニーパットの戦い以上に、北インドにおけるムガル帝国の支配を決定づける重要な戦いとなりました。
ラージプート連合軍は、8万人から10万人の兵力を擁する大軍であったのに対し、バーブル軍は4万人から5万人程度と、再び数的に劣勢でした。 バーブルの兵士たちは、ラージプートの勇猛さに関する噂や、占星術師の不吉な予言によって士気を失っていました。 この危機的状況に際し、バーブルは卓越した指導力を発揮します。彼はイスラム教徒としての結束を訴え、自ら酒を断ち、兵士たちの前で感情のこもった演説を行って彼らを鼓舞しました。 この演説は兵士たちの心を動かし、彼らは勇敢に戦うことを誓いました。
戦いは、パーニーパットと同様に、バーブルの近代的な戦術と兵器が鍵となりました。 ラージプート軍が伝統的な突撃戦法でムガル軍の陣地に迫ると、バーブルは火縄銃と大砲による集中砲火でこれを迎え撃ちました。 銃声はラージプート軍の馬や象を驚かせ、混乱を引き起こしました。 ラーナー・サーンガーはムガル軍の中央突破が不可能と判断し、側面攻撃に切り替えましたが、ムガル軍の銃撃と矢の前に多大な犠牲者が出ました。
戦いの最中、ラーナー・サーンガー自身が負傷し、戦場から離脱せざるを得なくなったことで、ラージプート軍の士気は大きく低下しました。 さらに、連合軍に参加していたシルハディという首長が6,000の兵を率いてバーブル側に寝返るという裏切りも、戦況に決定的な影響を与えました。 指揮官を失い、内部から崩壊したラージプート連合軍は、最終的に敗走しました。
カーンワーの戦いでの勝利は、バーブルにとって計り知れない価値がありました。 これにより、北インドにおける最強のライバルが排除され、ムガル帝国の支配は確固たるものとなりました。 この勝利の後、バーブルは「ガーズィー」(イスラムの戦士)の称号を名乗り、その支配に宗教的な正当性を付与しました。

帝国の拡大と統治:チャンデーリーとガーガラ川の戦い

カーンワーの戦いでラージプート連合軍を破ったバーブルは、北インドにおける支配権をさらに強固なものにするため、軍事行動を続けました。彼の次の目標は、ラージプートのもう一つの拠点であり、マルワ地方の戦略的要衝であったチャンデーリーでした。
1528年、バーブルはチャンデーリーの支配者であったメーディニー・ラーイの軍と対峙しました。 チャンデーリーの戦いとして知られるこの戦闘で、バーブルは再び勝利を収め、マルワ地方の支配権を確保しました。 この勝利により、彼はラーナー・サーンガーが再起する可能性を断ち、ラージプート勢力に対する優位を決定的なものにしました。 チャンデーリーを征服した後、バーブルはアフガン人の反乱鎮圧へと焦点を移します。
ローディー朝の残党であるアフガン勢力は、依然としてバーブルの支配に対する脅威でした。イブラーヒーム・ローディーの弟であるマフムード・ローディーや、ベンガルのスルタン、ヌスラト・シャーに率いられたアフガン軍は、ビハール地方で再結集し、反撃の機会をうかがっていました。
1529年、バーブルは彼らにとって最後の大きな戦いとなるガーガラ川の戦いに臨みました。 この戦いは、ガンジス川の支流であるガーガラ川のほとりで行われ、バーブルはマフムード・ローディー率いるアフガン連合軍を打ち破りました。 この勝利により、北インドにおける大規模な抵抗勢力はほぼ一掃され、バーブルの権力は確固たるものとなりました。
一連の軍事的勝利を経て、バーブルは広大な帝国を築き上げました。その領土は、西はアフガニスタンのカブールから、東はビハールまで広がり、パンジャーブ、アグラ、アワド、グワーリヤル、そしてラージャスターンの一部を含む北インドの大部分を網羅していました。 彼はデリーを帝国の首都と定め、正式にインドにおけるムガル帝国を樹立しました。
統治において、バーブルは中央アジアとティムール朝の伝統に倣いました。彼は帝国の統治の中核に、トルコ系やモンゴル系の同胞を配置しました。 彼は自らを「対等な者たちの中の第一人者」とみなし、個人的かつ非公式な形で統治を行いました。 また、彼は平和と秩序を維持し、民衆を盗賊や地方領主の圧政から守ることに努めました。 彼の治世はわずか4年と短かったものの、その間に築かれた行政と軍事の基盤は、後のムガル帝国の繁栄の礎となったのです。

バーブルの人物像:戦士、詩人、そして庭園愛好家

バーブルは、単なる冷徹な征服者ではなく、多面的で魅力的な個性を持つ人物でした。 彼の生涯は常に戦いの中にありましたが、その一方で、芸術や自然を深く愛する繊細な感性も持ち合わせていました。
卓越した軍人として
バーブルは、大胆不敵な戦士であり、優れた軍事戦略家でした。 彼は剣術、弓術、馬術に長けており、自ら先陣を切って戦うことを厭いませんでした。 第一次パーニーパットの戦いやカーンワーの戦いで見せたように、彼は数的に劣勢な状況でも、革新的な戦術と火器の有効活用によって勝利を収める天才的な軍事指導者でした。 また、彼は兵士の心を掴む術にも長けていました。カーンワーの戦いの前に兵士たちの士気を高めた演説は、彼のカリスマ性と指導力を示す象徴的な逸話です。 彼の身体的な強靭さも伝説的で、両脇に人を抱えたまま城壁の上を走ったり、インドのいくつかの川を泳いで渡ったり、休憩なしで80マイルも馬に乗ることができたと伝えられています。
教養人、詩人、作家として
バーブルは、武人であると同時に、高い教養を持つ学者でもありました。 彼は母語であるチャガタイ・トルコ語のほか、ペルシャ語やアラビア語にも通じていました。 特に詩作の才能に恵まれ、トルコ詩の分野で高い評価を得ています。 彼の詩の多くは、後に民謡として親しまれるようになりました。
彼の文学的才能を最もよく示しているのが、自伝である『バーブル・ナーマ』です。 チャガタイ・トルコ語で書かれたこの回想録は、彼の波乱に満ちた生涯、戦いの記録、そして彼が出会った人々や土地の様子を、率直かつ生き生きとした筆致で描いています。 その簡潔で自然な文体は高く評価され、『バーブル・ナーマ』は「自叙伝文学の王子」と称されるほどの不朽の名作とされています。 この著作は、単なる個人の記録にとどまらず、16世紀初頭の中央アジアとインドの社会、文化、自然を知る上での第一級の歴史資料となっています。
自然と庭園の愛好家として
バーブルは自然を深く愛し、特に庭園造りに情熱を注ぎました。 彼は行く先々で庭園を造営し、美しい場所を見つけては仲間たちと酒宴を開くことを好みました。 彼の庭園は、ペルシャ様式の影響を受けた左右対称の幾何学的なデザイン(チャールバーグ)が特徴で、後のムガル庭園の様式の基礎を築きました。 故郷中央アジアの涼しい気候と豊かな自然を懐かしんだ彼は、インドの暑い気候の中に、故郷を思わせるような秩序と潤いのある空間を創り出そうとしました。アグラ、シークリー、ビヤーナ、ダウルプール、グワーリヤルなど、彼の領内の各地に多くの庭園や建築物が造られ、その建設には毎日多くの労働者や石工が従事していたと記録されています。
人間味あふれる側面
バーブルは、家族に対して深い愛情を持つ人物でした。 彼は従順な息子であり、情愛深い父、信頼できる友人、そして愛情深い夫であったと伝えられています。 息子フマーユーンに宛てた遺言の中で、「兄弟がたとえそれに値するとしても、彼らと争ってはならない」と諭している言葉は、彼の家族への思いやりをよく表しています。 彼の人間的な魅力は、モンゴルやトルコの支配者には珍しいものであり、その人柄を非常に興味深いものにしています。 多くの歴史家が、バーブルを東洋史において最も魅力的な人物の一人と評価しています。

晩年と死、そして遺産

インドでの支配を確立したバーブルでしたが、その治世は長くは続きませんでした。 パーニーパットの戦いからわずか4年後の1530年、彼は人生の終焉を迎えます。 彼の健康は1530年の3月から4月頃にかけて深刻に悪化し始めました。 その原因については、長年の飲酒と絶え間ない戦争による肉体的な消耗、そしてイブラーヒーム・ローディーの母親による毒殺の試みなどが挙げられています。
彼の死にまつわる最も有名な逸話は、息子フマーユーンへの自己犠牲的な愛情を示すものです。1530年、彼の長男で後継者であったフマーユーンが重病に倒れました。 息子の命が危ぶまれる中、バーブルは神に祈りを捧げ、息子の命の代わりに自らの命を差し出すことを申し出たと伝えられています。 伝説によれば、この祈りの後、フマーユーンは奇跡的に回復に向かい、それと入れ替わるようにバーブルの病状が悪化していったとされています。
死期が近いことを悟ったバーブルは、後継体制を万全にするための措置を講じました。 彼は宮廷の重臣たちを呼び集め、フマーユーンを正式な後継者として指名し、彼への忠誠を誓わせました。 そして、1530年12月26日、バーブルはアグラで47歳の生涯を閉じました。
彼の遺体は、当初アグラに埋葬されました。 しかし、彼の生前の願いは、愛した地カブールに葬られることでした。 その遺志を継いだ未亡人によって、彼の遺骸は1544年にカブールへ移され、彼自身が造営した庭園「バーグ・エ・バーブル(バーブルの庭)」に再埋葬されました。 この庭園は、ムガル帝国創始者の永眠の地として、また彼の不朽の遺産の象徴として、今日まで大切にされています。
バーブルの最大の遺産は、言うまでもなくムガル帝国の創設です。 彼が築いた帝国は、その後300年以上にわたってインド亜大陸の大部分を支配し、政治、経済、文化の各方面に計り知れない影響を与えました。 彼は火薬兵器を本格的に導入することでインドの戦争のあり方を変え、ペルシャ風の芸術、建築、庭園様式をもたらすことで、インド・ペルシャ文化が融合した豊かなムガル文化の基礎を築きました。 彼の治世は短かったものの、その軍事的才能と先見の明によって築かれた基盤の上に、アクバル大帝をはじめとする後継者たちが、壮麗な帝国を築き上げていくことになります。 バーブルの生涯は、逆境を乗り越えて偉大な帝国を築き上げた、不屈の精神の勝利の物語として、歴史に刻まれています。

バーブル・ナーマ:皇帝の回想録

バーブルの生涯と思想を理解する上で最も重要な資料が、彼自身が著した回想録『バーブル・ナーマ』(バーブルの書)です。 この自伝は、彼が話していたチャガタイ・トルコ語で書かれており、16世紀のイスラム世界における文学の傑作の一つと見なされています。 その価値は、単に歴史的な出来事を記録しているだけでなく、一人の支配者の内面、喜び、悲しみ、そして人間的な弱さまでもが率直に綴られている点にあります。
『バーブル・ナーマ』は、バーブルがフェルガナの王位を継いだ少年時代から始まり、中央アジアでの苦難に満ちた闘争、カブールでの拠点構築、そしてインド征服に至るまでの彼の人生の軌跡を詳細に記述しています。 彼は自身の勝利を誇張することなく、また敗北や過ちを隠すこともなく、客観的かつ冷静な視点で記録しています。 例えば、サマルカンドを失った際の絶望感や、兵士たちの士気を鼓舞するために奮闘する様子など、彼の感情の起伏が生き生きと伝わってきます。
この回想録の魅力は、軍事や政治に関する記述だけにとどまりません。バーブルは鋭い観察眼を持つナチュラリストでもあり、彼が訪れた土地の地理、気候、動植物、そして人々の習慣について、詳細かつ正確な記録を残しています。 インドの動植物に関する記述は特に有名で、マンゴーやバナナといった果物、象やサイといった動物の特徴を、まるで植物学者や動物学者のように細かく描写しています。彼はインドの暑さや埃っぽさに不満を漏らす一方で、その自然の豊かさには感嘆の念を示しています。
また、『バーブル・ナーマ』は、バーブル個人の人間性を深くうかがい知ることができる貴重な資料です。彼は自身の飲酒癖や、時には冷酷な決断を下さなければならなかったことについても率直に記しています。 家族や友人への愛情、詩や音楽への情熱、そして美しい庭園を造ることへの喜びなど、一人の人間としての彼の多面的な姿が浮かび上がってきます。
『バーブル・ナーマ』は、バーブルの孫であるアクバル帝の治世(1556-1605年)に、宮廷の公用語であったペルシャ語に翻訳されました。 これにより、この著作はより広い読者層に読まれるようになり、ムガル帝国の支配者たちの間で、自らの記録を残すという伝統の先駆けとなりました。その誠実さ、詳細さ、そして文学的な価値から、『バーブル・ナーマ』は歴史書としてだけでなく、世界文学の古典としても高く評価されており、「自叙伝文学の王子」という称号がバーブルに与えられています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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