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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / ムガル帝国の興隆と衰退

カーブルとは わかりやすい世界史用語2362

著者名: ピアソラ
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カーブルとは

16世紀初頭、中央アジアの歴史は、新たな帝国の誕生とその後の南アジアの運命を大きく変えることになる人物、ザヒルッディーン・ムハンマド・バーブルの登場によって、劇的な転換点を迎えました。ティムール朝の末裔として生まれながらも、故郷フェルガナを追われ、流浪の王子となったバーブルは、1504年にアフガニスタンのカーブルを占領し、そこを新たな活動の拠点としました。このカーブルの獲得は、バーブルにとって単なる一時的な避難場所の確保以上の意味を持ち、彼の野望をインドへと向けさせ、最終的にムガル帝国の礎を築くための戦略的な跳躍台となったのです。カーブルの地政学的な重要性、当時の政治・経済状況、そしてバーブル自身の卓越した指導力が組み合わさることで、この都市は彼のインド侵攻計画において不可欠な役割を果たしました。



中央アジアの政治情勢とバーブルのカーブル獲得

15世紀末から16世紀初頭にかけての中央アジアは、ティムール朝の衰退と、それに代わる新たな勢力の台頭によって、絶え間ない権力闘争が繰り広げられる混沌とした状況にありました。かつて広大な領域を支配したティムール帝国は、後継者たちの内紛によって分裂し、その権威は著しく失墜していました。この権力の真空地帯に強力な勢力として現れたのが、ムハンマド・シャイバーニー・ハーンに率いられたウズベク族です。彼らはティムール朝の諸都市を次々と攻略し、中央アジアにおける支配的な勢力としての地位を確立しつつありました。
このような激動の時代に、バーブルは1483年、ティムール朝の小国フェルガナの君主の子として生を受けました。 1494年にわずか12歳で父の跡を継いだ彼は、若くしてモンゴルのハーンや他のティムール朝の王子たち、そして反抗的な貴族たちとの厳しい権力争いに直面しました。 彼の最大の目標は、ティムール朝のかつての栄光の都サマルカンドを奪還することであり、実際に二度にわたってその占領に成功します。 しかし、シャイバーニー・ハーン率いるウズベクの圧倒的な軍事力の前に、その支配を維持することはできませんでした。 1501年のサマルカンドからの二度目の敗走は、バーブルにとって決定的な転機となります。 故郷フェルガナも失い、中央アジアにおける足場を完全に失った彼は、数年間の放浪生活を余儀なくされました。
この絶望的な状況の中で、バーブルは新たな活路を南に求めます。 彼の目に留まったのが、ヒンドゥークシュ山脈の南に位置するカーブルでした。当時のカーブルは、バーブルの叔父であるウルグ・ベク2世の死後、アルグーン朝のムキン・ベグが支配していましたが、その統治は安定しておらず、住民の支持も得られていませんでした。 1504年、バーブルはこの好機を捉え、雪に覆われたヒンドゥークシュ山脈を越えてカーブルへと進軍しました。 彼はほとんど抵抗を受けることなくこの都市を占領し、新たな王国を築くことに成功します。
カーブルの獲得は、バーブルにとって単なる領土の確保以上の意味を持っていました。中央アジアでの再起の望みを絶たれた彼にとって、カーブルは再起を図るための新たな拠点であり、将来の野望を実現するための基盤となりました。 ウズベクの脅威から地理的に隔てられているだけでなく、カーブルはインドへと続く戦略的な経路上に位置していました。 この地政学的な優位性が、バーブルの目を次第に南、すなわち富裕なインドへと向けさせることになったのです。 中央アジアの故郷を追われた流浪の王子は、カーブルという新たな舞台を得て、歴史を大きく動かす次なる一歩を踏み出す準備を始めたのでした。

戦略拠点としてのカーブルの地政学的価値

バーブルがインド侵攻の拠点としてカーブルを選んだのは、偶然ではありませんでした。この都市が持つ地政学的な価値は、彼の野望を実現する上で極めて重要でした。カーブルは、中央アジア、南アジア、そしてペルシャを結ぶ古代からの交通の要衝に位置しており、歴史を通じて「インドへの玄関口」として認識されてきました。 この戦略的な立地が、バーブルのインド征服計画においてカーブルを不可欠な存在にしたのです。
第一に、カーブルは地理的な防御拠点として優れていました。ヒンドゥークシュ山脈という自然の要害に囲まれたカーブルは、北からの脅威、特にバーブルを中央アジアから追い出したウズベク族のシャイバーニー・ハーンからの直接的な攻撃を防ぐ上で理想的な位置にありました。 バーブルはカーブルを確保することで、背後の安全を確保し、安心して南方のインドに目を向けることができたのです。
第二に、カーブルはインド亜大陸への侵攻ルートを確保する上で決定的な役割を果たしました。カーブルは、カイバル峠をはじめとするインドへ通じる主要な山岳路を占める位置にあります。 この地域を支配下に置くことは、インドへの軍事行動を自由に行うための前提条件でした。バーブルはカーブルから、1519年から1524年にかけて、ベーラ、シアールコート、ラホールなど、インド北部への小規模な遠征を繰り返し行いました。 これらの遠征は、来るべき本格的な侵攻のための偵察であり、ローディー朝の軍事力やインドの政治情勢を探る貴重な機会となりました。 カーブルという安定した基地があったからこそ、このような段階的な侵攻計画を実行することが可能だったのです。
第三に、カーブルは単なる軍事拠点ではなく、情報と資源が集まる中心地でもありました。中央アジアとインドを結ぶ交易路の結節点であるカーブルには、商人や旅行者が絶えず行き交い、インドの富や政治的な混乱に関する情報がもたらされました。 バーブルは『バーブル・ナーマ』の中で、インドには5つのムスリム国家と2つの非ムスリム国家が存在し、分裂状態にあると記しています。 また、当時のデリー・スルターン朝(ローディー朝)は内紛によって弱体化しており、パンジャーブ総督のダウラト・ハーン・ローディーやメーワール王国のラージプートの指導者ラナ・サンガといったインド内部の勢力から、現地の支配者であるイブラーヒーム・ローディーに対抗するための支援を求める誘いさえありました。 これらの情報は、バーブルにインド侵攻が実現可能であるとの確信を与え、彼の野心をさらに煽ることになりました。
このように、カーブルはバーブルにとって、ウズベクの脅威から身を守る盾であると同時に、インドを狙う矛を研ぐための工房でもありました。 アブル・ファズルが後に「ヒンドゥースタンへの二つの門」の一つと評したように、カーブルの戦略的な支配なくして、ムガル帝国の基礎が築かれることはなかったでしょう。 バーブルがこの地で過ごした約20年間は、単なる待機期間ではなく、インドという新たな舞台へ向かうための周到な準備期間だったのです。

バーブル統治下のカーブル:政治と統治

1504年にカーブルを掌握したバーブルは、単に都市を占領しただけでなく、そこを安定した統治基盤へと変えていく必要に迫られました。中央アジアで故郷を失い、流浪の身の上であった彼にとって、カーブルは新たな王国の首都であり、将来の遠征に向けた人材と資源を確保するための中心地でした。彼のカーブルにおける統治は、ティムール朝の伝統と現地の複雑な社会構造を融合させようとする、現実的かつ巧みなものでした。
バーブルが直面した最大の課題の一つは、カーブルとその周辺地域の多様な民族構成でした。 彼自身の回想録『バーブル・ナーマ』によれば、カーブル地方にはテュルク系、アラブ系、パシャイ人、パラジ人、タジク人、ビルキ人、そしてアフガン人など、多種多様な部族が混在していました。 これらの部族の多くは半自立的、あるいは完全に独立した状態にあり、中央からの統制は容易ではありませんでした。 バーブルは、これらの部族勢力に対して、武力による鎮圧と懐柔策を巧みに使い分けました。彼は反抗的な部族には軍事遠征を行い、その力を示威する一方で、忠誠を誓う部族長には地位や特権を認めることで、彼らを自らの支配体制に組み込んでいきました。この過程は決して平坦なものではなく、彼の統治期間中、反乱は絶えませんでした。 しかし、彼は粘り強くこれらの課題に対処し、徐々にカーブルにおける支配を固めていきました。
統治機構の面では、バーブルはティムール朝の行政システムを基盤としつつも、現地の状況に合わせた調整を加えました。彼は信頼できる部下や親族を知事や司令官として各地に配置し、地方の管理を委ねました。 例えば、息子のフマーユーンは、バーブルがインド遠征に赴いている間、カーブルの代理統治者を務めていました。 また、税収の確保は王国を維持するための急務でした。カーブルの歳入は、彼の野心的な計画を支えるには十分とは言えませんでした。 この財政的な制約が、彼にインドの富へと目を向けさせる大きな動機の一つとなったのです。 彼は、貴族たちへの歳入の割り当て(ワジフ)といった制度を用いて、財政の管理を行いました。
バーブルの統治者としての正統性を高める上で重要な出来事が、1507年に彼が「パーディシャー(皇帝)」の称号を採用したことです。 これは、ティムール朝の他の王子たちに対する優位性を示し、自身がティムール家の正統な後継者であることを宣言するものでした。 ヘラートのティムール朝政権がウズベクによって滅ぼされた後、バーブルはティムール朝で唯一残った君主となり、多くの王子たちが彼を頼ってカーブルに避難してきました。 これにより、カーブルはティムール朝の亡命政権の中心地としての性格を帯び、バーブルの権威はさらに高まりました。
バーブルのカーブル統治は、インド侵攻という壮大な目標に向けた基盤固めの時期でした。彼は、多様な部族が割拠する困難な環境の中で、軍事力と政治的手腕を駆使して支配を確立し、限定的ながらも行政・財政システムを整えました。このカーブルでの統治経験は、彼が後にインドで巨大な帝国を築き上げる上で、貴重な教訓と実践の場となったのです。

カーブルの経済的役割:交易の中心地として

16世紀初頭のカーブルは、単なる軍事的な要衝であるだけでなく、中央アジアと南アジアを結ぶ活気ある商業の中心地でもありました。その経済的な重要性は、バーブルがインド侵攻の準備を進める上で、資金源と戦略的物資の供給源として不可欠な役割を果たしました。
カーブルの経済的繁栄の根幹をなしていたのは、その地理的優位性に由来する中継貿易です。 古代のシルクロードの経路上に位置するカーブルは、ペルシャ、中央アジア、そしてインドという三大経済圏を結ぶ結節点でした。 北からは馬、毛皮、絹織物などが、南のインドからは香辛料、織物、藍、砂糖などが運ばれ、カーブルの市場で交換されました。 特に、中央アジア産の軍馬は、当時の戦争において極めて重要な戦略物資であり、カーブルを経由してインドの諸王国へ供給されていました。 バーブルはこの交易路を支配下に置くことで、莫大な関税収入を得るとともに、自軍の騎馬隊を強化するための馬を安定的に確保することができました。
バーブル自身の回想録『バーブル・ナーマ』にも、カーブルの商業的な活気が生き生きと描写されています。彼はカーブルを「ヒンドゥースタンとホラーサーンの間の商業拠点」と呼び、毎年7千、8千、あるいは1万頭もの馬がカーブルに持ち込まれ、インドからは1万5千から2万人の隊商が奴隷、織物、砂糖、香辛料などを運んでくると記しています。彼の記述によれば、カーブルの市場にはサマルカンドやブハラ、カシュガルといった中央アジアの都市だけでなく、遠くはアナトリアや中国からの商品までが集まっていたとされています。この国際的な交易ネットワークは、カーブルに富をもたらすだけでなく、様々な文化や情報が交差するるつぼとしての役割も果たしていました。
しかし、バーブルにとってカーブルの歳入だけでは、彼の野心的な軍事計画を完全に支えるには不十分でした。 彼は『バーブル・ナーマ』の中で、カーブル王国の歳入の低さについて不満を漏らしており、これが1505年に最初のインド遠征を行った動機の一つであったと記しています。 彼はカーブル周辺の部族から貢納を取り立てたり、インドへの小規模な襲撃を行ったりして収入の足しにしていましたが、恒久的な解決策にはなりませんでした。 インドの伝説的な富は、財政的な困難に直面していたバーブルにとって、抗いがたい魅力を持っていました。
要するに、バーブル統治下のカーブルは、活発な中継貿易によって経済的な繁栄を享受していました。この経済力は、バーブルが軍隊を維持し、インド侵攻の準備を進めるための基盤となりました。しかし同時に、カーブルの限定的な歳入は、彼をより豊かで広大な土地、すなわちインドへと目を向けさせる決定的な要因ともなったのです。カーブルの経済は、バーブルの野望を育む土壌であると同時に、その野望をさらに大きな舞台へと押し出す推進力でもあったと言えるでしょう。

カーブルの社会と文化:ティムール朝の遺産と庭園文化

バーブルが統治した時代のカーブルは、軍事と経済の拠点であると同時に、多様な文化が交錯する活気ある社会でもありました。バーブル自身が高度な教養を持つティムール朝の王子であったことから、彼の宮廷は中央アジアの洗練されたペルシャ・テュルク文化の中心となり、その影響は都市の様相にも深く刻み込まれました。
バーブルは、武人であると同時に、詩や文学を愛する文化人でもありました。 彼の母語であるチャガタイ・テュルク語で書かれた自伝『バーブル・ナーマ』は、イスラーム世界における自伝文学の最高傑作の一つと評価されており、当時の政治や軍事だけでなく、自然、社会、文化に対する彼の鋭い観察眼と繊細な感受性を伝えています。 彼の宮廷には、彼自身を含む詩人や学者、芸術家たちが集い、カーブルはティムール朝文化の避難所であり、その伝統が育まれる場所となりました。 バーブルが中央アジアの故郷、特にサマルカンドやヘラートといった文化都市に対して抱いていた郷愁は、カーブルの地で新たな文化の華を咲かせる原動力となったのです。
バーブルの文化的功績の中でも特に象徴的なのが、彼がカーブルに造営した数々の庭園です。 ティムール朝の君主たちは、楽園を模した幾何学的な庭園(ペルシャ語でチャハルバーグ)を造る伝統を持っており、それは権力と洗練の象徴でした。 バーブルもこの伝統を受け継ぎ、カーブルの気候と風土をこよなく愛し、市内の様々な場所に美しい庭園を築きました。 これらの庭園は、単なる憩いの場ではなく、宮廷の儀式や祝宴が催される政治的な空間でもありました。
その中でも最も有名なのが、現在「バーグ・エ・バーブル(バーブルの庭)」として知られる庭園です。 1528年頃に建設が命じられたこの庭園は、丘の斜面を利用した階段状の設計で、中央には水路が流れ、左右対称に木々や花々が植えられていました。 バーブルはこの庭園を深く愛し、自身の回想録にもその美しさを詳細に記述しています。 彼はインドの気候や風土に馴染めず、しばしばカーブルの涼しい気候や美しい自然、そして美味しい果物を懐かしみました。 彼のカーブルへの愛着は非常に強く、アグラで亡くなった後、その遺言に従って遺骸はカーブルに運ばれ、この愛した庭園に埋葬されました。
バーブルの庭園は、彼の死後も後継者であるムガル皇帝たちによって大切にされ、ジャハーンギールやシャー・ジャハーンの時代には、墓の周りに大理石のスクリーンやモスクが増築されるなど、さらなる整備が加えられました。 これらの庭園は、自然を人間の理想的な秩序のもとに再構成しようとするティムール朝の美学を体現しており、その様式は後のムガル建築、特にタージ・マハルに代表される壮麗な霊廟庭園の原型となりました。
バーブル時代のカーブル社会は、彼がもたらしたティムール朝の宮廷文化と、元々その土地に根付いていた多様な民族の文化が融合した、多層的なものでした。彼が築いた庭園は、故郷への郷愁と新たな王国への愛情が結実したものであり、カーブルが単なる軍事拠点ではなく、ムガル文化の揺りかごであったことを物語っています。

インド侵攻への準備:軍事力の強化と戦略

カーブルを拠点とした約20年間、バーブルはただ待機していたわけではありませんでした。彼はこの期間を利用して、来るべきインド侵攻に向け、軍事力の強化と戦略の練磨に余念がありませんでした。中央アジアでの数々の敗北から得た教訓と、カーブルという新たな環境が、彼の軍事思想を大きく発展させ、後のインドでの驚異的な成功の礎を築いたのです。
バーブルの軍事戦略の核心は、当時インドではまだ普及していなかった火薬兵器、すなわち火縄銃と大砲の導入にありました。 彼は中央アジアでの戦いを通じて、オスマン帝国やサファヴィー朝が用いる火器の有効性を目の当たりにしていました。 彼はオスマン帝国から軍事顧問を招き、砲兵隊の組織化と運用技術の習得に努めました。この新しいテクノロジーは、伝統的な騎兵と象軍に依存していたインドの軍隊に対して、圧倒的な破壊力をもたらすことになります。
火器の導入と並行して、バーブルは騎兵の機動力を最大限に活かすための戦術を考案しました。その代表的なものが「トゥルグマ」と呼ばれる包囲戦術です。 これは、軍を中央、右翼、左翼に分け、両翼の騎兵部隊が敵の側面や背後を高速で迂回し、包囲殲滅するというもので、中央アジアの遊牧民の伝統的な戦術を発展させたものでした。 彼はこの機動力あふれる騎兵戦術と、中央に配置した大砲や銃兵による防御陣地(「アラバ」と呼ばれる、荷車を鎖で連結して作る野戦築城)を組み合わせることで、攻守に優れた独自の戦闘教義を確立しました。
バーブルはカーブルを拠点に、これらの新戦術を訓練し、兵士たちに習熟させました。また、1519年から始まるインドへの複数回にわたる小規模な遠征は、単なる略奪や偵察だけでなく、これらの新戦術を実戦でテストし、改良するための貴重な機会でもありました。 彼はこれらの遠征を通じて、インドの地形や気候、そして敵であるローディー朝の軍隊の弱点を熟知していきました。
軍隊の構成も多様でした。バーブル自身の部隊は、彼に忠実なテュルク系やモンゴル系の兵士が中核をなしていましたが、彼はカーブル周辺の様々な部族、特にアフガン人の戦士たちも積極的に自軍に組み入れました。 彼の軍は小規模ながらも、高い士気と規律、そして君主への忠誠心で結ばれた精鋭部隊でした。
1525年、バーブルは満を持して最後のインド遠征を開始します。 彼の軍隊の規模は、イブラーヒーム・ローディーが動員した大軍に比べれば、はるかに小さいものでした。 『バーブル・ナーマ』によれば、彼の兵力はわずか1万2千人だったとされています。 しかし、この小規模な軍隊は、最新の火器と洗練された戦術、そして何よりもバーブル自身の卓越したリーダーシップによって、数で勝る敵を凌駕する力を秘めていました。カーブルで費やされた年月は、バーブルの軍隊を、単なる寄せ集めの集団から、近代的な戦闘機械へと変貌させたのです。1526年のパーニーパットの戦いにおける決定的勝利は、この周到な準備の必然的な結果でした。

ムガル帝国への序章としてカーブルが果たした役割

ザヒルッディーン・ムハンマド・バーブルがインド侵攻の拠点とした時代のカーブルは、彼の生涯と南アジアの歴史において、決定的な転換点となる極めて重要な役割を果たしました。中央アジアの故郷を追われた流浪の王子にとって、1504年のカーブル獲得は、単なる安住の地の確保にとどまらず、失われた王国に代わる新たな基盤を築き、壮大な野望を育むための揺りかごとなりました。
カーブルの地政学的な位置は、バーブルに二重の恩恵をもたらしました。ヒンドゥークシュ山脈という自然の障壁は、北方のウズベクの脅威から彼を守る盾となり、一方でインドへと通じるカイバル峠などの戦略的な回廊は、南への野望を実現するための矛となりました。 この安全な拠点から、バーブルはインドの政治情勢を注意深く観察し、ローディー朝の内紛という好機を見逃すことはありませんでした。
経済的に見れば、カーブルは中央アジアとインドを結ぶ交易路の要衝として繁栄しており、その富はバーブルの軍隊を維持するための重要な資金源となりました。 しかし、その歳入は彼の野心を完全に満たすには十分ではなく、むしろインドの莫大な富への渇望を掻き立てる要因ともなりました。
文化的側面では、バーブルはカーブルの地にティムール朝の洗練された宮廷文化を移植しました。彼自身が優れた文人であったことから、カーブルは文学と芸術の中心地となり、特に彼が造営した庭園は、故郷への郷愁と自然への愛情が結実したものでした。 バーブルがこよなく愛し、終の棲家として選んだこの街は、ムガル文化の原点ともいえる場所になったのです。
そして何よりも、カーブルはバーブルがインド征服という壮大な事業を成し遂げるための軍事的な実験室でした。 彼はこの地で、中央アジアでの敗北の教訓を活かし、オスマン帝国から導入した火器と、伝統的な騎馬戦術を融合させた革新的な軍事ドクトリンを完成させました。 「トゥルグマ」戦術や「アラバ」陣形といった彼の戦術的革新は、カーブルでの訓練と小規模な遠征を通じて磨き上げられ、1526年のパーニーパットの戦いでその真価を遺憾なく発揮しました。
バーブルがカーブルで過ごした22年間は、決して雌伏の時ではありませんでした。それは、政治的、経済的、軍事的、そして文化的なあらゆる側面において、ムガル帝国という壮大な建築物の基礎を築くための、不可欠な準備期間でした。 カーブルは、失意の王子が再起を図るための避難所であり、新たな帝国のはじまりであり、そしてそれを実現するための力を蓄えるための要塞でした。
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・カーブルとは わかりやすい世界史用語2362

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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