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18_80 アジア諸地域世界の繁栄と成熟 / トルコ・イラン世界の展開

十二イマーム派とは わかりやすい世界史用語2351

著者名: ピアソラ
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十二イマーム派とは

十二イマーム派は、シーア派イスラム教における最大の分派であり、全シーア派イスLラム教徒の約85%を占めています。 この名称は、預言者ムハンマドの神的に定められた後継者である十二人のイマームへの信仰に由来します。 十二イマーム派の信者は、最後のイマームであるムハンマド・アル・マフディーが「ガイバ(幽隠)」の状態にあり、終末の時に「待望されるマフディー」として、イエス・キリストと共に再臨し、地上に正義と平和を回復すると信じています。
十二イマーム派の信奉者は、イラン、イラク、アゼルバイジャンの人口の大多数を占め、バーレーンのイスラム教徒人口の約半数、そしてレバノン、インド、パキスタン、アフガニスタン、サウジアラビア、バングラデシュ、クウェート、オマーン、アラブ首長国連邦、カタールに相当数の少数派を形成しています。 イランは、十二イマーム派シーア派を国教とする唯一の国です。



十二イマーム派の神学的教義

十二イマーム派の神学は、イスラム教の基本的な信条を共有しつつも、イマーム職(イマーマ)の概念を中心に独自の教義体系を発展させてきました。 その教義の根幹をなすのは、「信仰の五つの根源(ウスール・アッディーン)」として知られる五つの信条です。 これらは、スンニ派の六信とは異なる構成要素を含み、十二イマーム派のアイデンティティを明確に示しています。
信仰の五つの根源(ウスール・アッディーン)

十二イマーム派の信仰の核心には、以下の五つの信条があります。
1. タウヒード(神の唯一性)
タウヒードは、神が唯一無二の存在であるというイスラム教の中心的な教義です。 十二イマーム派のタウヒード理解は、特に神の本質と属性の一体性を強調する点で特徴的です。
本質の唯一性(タウヒード・アッ・ザート): 神の本質は一つであり、比類なく、他のいかなるものとも比較できないと信じられています。 神は複数性を持つことなく、その存在において完全に単一です。
属性の唯一性(タウヒード・アッ・スィファート): 神の属性(知識、力、慈悲など)は、神の本質から分離したものではなく、本質そのものであるとされます。 これは、神の本質とは別に属性が存在すると考えると、神の完全な唯一性が損なわれるという考えに基づいています。
創造主としての唯一性(タウヒード・アル・ハーリキーヤ): 宇宙の唯一の創造主は神のみであるという信仰です。
主権における唯一性(タウヒード・アッ・ルブービーヤ): 宇宙を統治し、摂理を司るのは神のみであるという信仰です。
2. アドゥル(神の正義)
アドゥルは、神が本質的に公正であるという信条です。 十二イマーム派は、物事には本質的な善悪があり、神は人間に善を命じ、悪を禁じると考えます。 この教義は、人間の自由意志と責任の根拠となります。神は公正であるため、人間が自らの意志で行った行為に基づいて報奨や懲罰を与えるとされます。
3. ヌブッワ(預言者性)
ヌブッワは、神が人類を導くために預言者たちを遣わしたという信仰です。 アブラハム、モーセ、イエスを含め、ムハンマドが最後の預言者であると信じる点は、他のイスラム教徒と共通しています。 預言者は神からの啓示を受け、人々に神のメッセージを伝える役割を担います。
4. イマーマ(イマーム職)
イマーマは、十二イマーム派神学の最も特徴的な教義であり、その核心をなすものです。 これは、預言者ムハンマドの死後、ムスリム共同体の精神的および政治的指導権が、神によって定められた特定の人物、すなわちイマームに継承されるという信仰です。
イマームの役割: イマームは、単なる政治的指導者ではなく、神と人間との間の仲介者であり、神の導きを受ける特別な存在と見なされます。 彼らはシャリーア(イスラム法)を維持・解釈し、クルアーンの秘教的な意味を解き明かす能力を持つと信じられています。 イマームの言行は、ムスリム共同体が従うべき模範とされます。
イマームの資格: イマームは、神の命令(ナッス)によって選ばれなければならず、罪や誤りから完全に自由である「イスマ」(不可謬性)という特質を持つとされます。 また、彼らは神から与えられた特別な知識(イルム)と精神的な導き(ワラーヤ)を有すると信じられています。
十二人のイマーム: 十二イマーム派は、アリー・イブン・アビー・ターリブを初代イマームとし、彼の男系の子孫(ただし、フサインは兄ハサンの弟)が代々イマーム職を継承したと信じています。
5. ヤウム・アル・キヤーマ(復活の日)
これは、終末の日に全ての人間が肉体と魂と共に復活し、神による審判を受けるという信仰です。 この信条は、他のイスラム教徒と共通しています。

イマーマ(イマーム職)の概念

イマーマの概念は、十二イマーム派を他のイスラム教の宗派、特にスンニ派と区別する最も重要な教義です。 スンニ派が預言者ムハンマドの後継者を選挙(シューラー)によって選出されたカリフと見なすのに対し、十二イマーム派は、後継者は神の指名によって決まるべきであり、その地位は預言者の家族、特にアリーとその子孫に受け継がれると主張します。

イマームの神聖な地位

十二イマーム派の教義において、イマームは神によって選ばれた、罪を犯すことのない(マスーム)存在とされます。 彼らは神からの直接的な啓示を受ける預言者ではありませんが、神との密接な関係を通じて導きを受け、その導きを人々に伝えると信じられています。 この神聖な導きへの信仰は、神が人類を導きなしに放置することはないという思想に基づいています。 したがって、各時代には常に「時代のイマーム」が存在し、信仰と法に関する全ての事柄において神的に任命された権威者であるとされます。
イマームは、クルアーンの外面的な意味だけでなく、その内面的な、秘教的な意味を解釈する唯一の権威を持つと考えられています。 彼らの言葉と行動は「スンナ」の一部と見なされ、信徒が従うべき規範となります。 このため、イマームは預言者ムハンマドと同様に、誤りや罪から完全に自由でなければならないという「イスマ」(不可謬性)の教義が重要視されます。

後継者問題とシーア派の形成

預言者ムハンマドが632年に亡くなった後、後継者を誰にするかという問題がムスリム共同体を分裂させました。 一部の信徒は、ムハンマドの従兄弟であり娘婿であるアリー・イブン・アビー・ターリブが、ムハンマド自身によって後継者として指名されたと信じました。 彼らは、ガディール・フンムの出来事など、預言者が生前にアリーを後継者として示したとされる伝承を根拠とします。 これがシーア派(「アリーの党派」を意味する)の起源となりました。
一方、多数派は、共同体の有力者による合議によって後継者を選ぶべきだと考え、アブー・バクルを初代カリフとして選出しました。 これがスンニ派の始まりです。十二イマーム派は、アブー・バクル以降のカリフたちを正当な後継者とは認めず、アリーとその子孫である十二人のイマームのみが正統な指導者であると主張します。

十二人のイマーム

十二イマーム派が信じる十二人のイマームは、預言者ムハンマドの家系(アフル・アル・バイト)に連なる神的に定められた指導者たちです。 彼らは預言者の精神的・政治的後継者と見なされ、共同体を導くための特別な知識と権威を持つと信じられています。 イマームは、前のイマームからの指名(ナッス)によってその地位を継承しました。 例外は、3代目イマームのフサインが2代目イマームのハサンの弟であったことです。
以下は、十二人のイマームの略歴です。

アリー・イブン・アビー・ターリブ (在位:632年-661年)
預言者ムハンマドの従兄弟であり、娘ファーティマの夫。 イスラム教を最初に受け入れた男性の一人とされます。 彼のカリフとしての治世は、内乱によって特徴づけられました。 661年にクーファのモスクで暗殺されました。 彼の墓はイラクのナジャフにあり、シーア派の重要な巡礼地となっています。

ハサン・イブン・アリー (在位:661年)
アリーとファーティマの長男。 父の死後、短期間カリフの地位を主張しましたが、最終的にウマイヤ朝の創始者ムアーウィヤにその地位を譲りました。 その後はメディナで隠遁生活を送りました。 彼は毒殺されたと信じられています。

フサイン・イブン・アリー (在位:661年-680年)
アリーとファーティマの次男で、ハサンの弟。 兄の死後、ウマイヤ朝のカリフ、ヤズィード1世の支配に反旗を翻しました。680年、カルバラーの戦いで、少数の支持者と共にウマイヤ朝軍に包囲され、殉教しました。 彼の殉教は、シーア派の信仰とアイデンティティ形成において中心的な出来事となり、毎年アーシューラーの日に追悼されます。 彼の墓はイラクのカルバラーにあり、ナジャフと並ぶ最も重要な巡礼地の一つです。

アリー・ザイン・アル・アービディーン (在位:680年-713年)
フサインの息子で、カルバラーの悲劇の生存者の一人。 政治から距離を置き、祈りと精神的な指導に専念したことで知られ、「崇拝者たちの飾り」と称されました。

ムハンマド・アル・バーキル (在位:713年-732年)
アリー・ザイン・アル・アービディーンの息子。 彼はイスラム法の諸分野において広範な知識を持ち、「知識を切り開く者」として知られました。 多くの学者を育て、シーア派法学の基礎を築きました。

ジャアファル・アッ・サーディク (在位:732年-765年)
ムハンマド・アル・バーキルの息子。 彼は、イスラム法学、神学、科学など、多岐にわたる分野で卓越した学者でした。 彼の教えは非常に影響力が大きく、十二イマーム派の法学派は彼の名にちなんで「ジャアファリー法学派」と呼ばれています。 彼は政治的闘争から距離を置くよう信徒に促したとされます。

ムーサー・アル・カーズィム (在位:765年-799年)
ジャアファル・アッ・サーディクの息子。 アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ・ラシードの治世下で多くの時間を過ごし、迫害を受けました。 彼はバグダードの牢獄で亡くなったと伝えられています。

アリー・アッ・リダー (在位:799年-818年)
ムーサー・アル・カーズィムの息子。 アッバース朝のカリフ、アル・マアムーンによって後継者に指名されましたが、その地位に就く前に亡くなりました。 彼の死は毒殺であったと信じられています。彼の霊廟はイランのマシュハドにあり、イランで最も重要な巡礼地となっています。

ムハンマド・アッ・タキー (在位:818年-835年)
アリー・アッ・リダーの息子。 彼は若くしてイマームとなり、「敬虔な者(アッ・タキー)」や「寛大な者(アル・ジャワード)」といった称号で知られました。

アリー・アル・ハーディー (在位:835年-868年)
ムハンマド・アッ・タキーの息子。 彼はアッバース朝の監視下、イラクのサーマッラーに軟禁されました。 彼は「導く者(アル・ハーディー)」として知られ、困難な状況下でシーア派共同体を指導しました。

ハサン・アル・アスキャリー (在位:868年-874年)
アリー・アル・ハーディーの息子。 彼もまた、父と同様にサーマッラーで厳重な監視下に置かれ、若くして亡くなりました。 彼は、来るべきマフディーである息子の存在を信徒に知らせるという重要な役割を果たしました。

ムハンマド・アル・マフディー (生誕:869年)
ハサン・アル・アスキャリーの息子で、十二番目にして最後のイマーム。 彼は「待望される者(アル・ムンタザル)」、「時代の主(サーヒブ・アッ・ザマーン)」など、多くの称号で呼ばれます。 十二イマーム派の信者は、彼が父の死後、アッバース朝の迫害から逃れるために神の命令によって「ガイバ(幽隠)」の状態に入ったと信じています。 彼は今も生きており、終末の時に救世主(マフディー)として再臨し、世界に正義と公正をもたらすと信じられています。

ガイバ(幽隠)の概念

ガイバ、すなわち「幽隠」は、十二番目のイマーム、ムハンマド・アル・マフディーが公の場から姿を消し、神によって隠されている状態を指す、十二イマーム派の中心的な信仰です。 この教義は、イマームが不在に見える時代における共同体の指導体制と、終末論的な希望の源泉となっています。

小幽隠期(アル・ガイバ・アッ・スグラー)

874年から941年までの約70年間は、「小幽隠期」として知られています。 この期間、イマーム・マフディーは完全に姿を消したわけではなく、4人の連続した代理人(ヌッワーブ・アル・アルバア)を通じて信徒たちと連絡を取り続けていたと信じられています。 これらの代理人は、信徒からの質問をイマームに伝え、その回答や指示を共同体に伝達する役割を担いました。彼らは、イマームと信徒との間の重要な架け橋でした。

大幽隠期(アル・ガイバ・アル・クブラー)

941年、4番目の代理人であるアブー・アル・ハサン・アッ・サマッリーが亡くなる直前、彼はイマーム・マフディーからの手紙を受け取ったと伝えられています。 その手紙は、アッ・サマッリーの死を予言し、後継者を指名しないよう命じ、「完全な幽隠」、すなわち「大幽隠期」の始まりを告げるものでした。
この大幽隠期は941年から始まり、イマーム・マフディーが再臨するまで続くとされています。 この期間中、イマームを直接代表する代理人は存在しません。 しかし、十二イマーム派の信者は、イマームが物理的な身体を持って生き続けており、見えない形で人々の事柄や精神的な導きに関与していると信じています。 地球は神の最高の証明であるイマームなしでは存在し得ないという信念が、彼の奇跡的な延命を支える論拠となっています。
大幽隠期における指導者の不在は、シーア派共同体におけるウラマー(イスラム法学者)の役割を徐々に高めることにつながりました。 高位の法学者は、イマームの代理として共同体を導く責任を負うと見なされるようになり、これが「マルジャイーヤ」(最高権威)という制度の発展につながりました。

マフディーの再臨

十二イマーム派の信仰によれば、大幽隠期は、イマーム・マフディーが「約束されたマフディー」として再臨する時に終わりを迎えます。 彼の再臨は、世界が不正と圧制に満ちた後、神が定めた時に起こるとされています。 彼はイエス・キリストと共に現れ、悪を打ち破り、地上に神の王国を築き、正義と平和に満ちた世界を確立すると信じられています。 この終末論的な希望は、多くの困難に直面してきたシーア派の信徒にとって、忍耐と抵抗の精神的な支えとなってきました。

ジャアファリー法学派

ジャアファリー法学派は、十二イマーム派シーア派が従うイスラム法学(フィクフ)の学派であり、その名は6代目イマーム、ジャアファル・アッ・サーディクに由来します。 彼は、法学の分野で膨大な知識を持ち、多くの学者を育成したことで、その後のシーア派法学の発展に決定的な影響を与えました。

法源

ジャアファリー法学派は、スンニ派の四大学派とは異なる法源の優先順位と解釈方法を持っています。主な法源は以下の通りです。
クルアーン: イスラム教の聖典であり、最も重要な法源です。
スンナ: 預言者ムハンマドと、十二人のイマームの言行録(ハディース)を指します。スンニ派が預言者のスンナのみを法源とするのに対し、ジャアファリー法学派は、不可謬であるとされるイマームたちの言行も同等の権威を持つ法源と見なす点が大きな特徴です。
イジュマー(合意): シーア派の法学者たちの間での意見の一致を指しますが、その権威はイマームの意見を反映しているという前提に基づいています。
アクル(理性): 理性的な推論や判断も、法的な結論を導き出すための重要な道具と見なされます。

イジュティハード(法的推論)の役割

ジャアファリー法学派の顕著な特徴の一つは、「イジュティハード」の継続的な実践を重視する点です。 イジュティハードとは、法学者がクルアーンやスンナなどの法源から、新たな問題に対する法的判断を導き出すための知的努力を指します。スンニ派の一部では、主要な法学派が確立された後はイジュティハードの門は閉ざされたと見なされる傾向がありますが、シーア派では、大幽隠期にあるイマームに代わって、資格のある法学者(ムジュタヒド)が時代ごとの問題に対応するためにイジュティハードを実践し続ける必要があると考えられています。
このイジュティハードの実践は、ジャアファリー法学を時代や状況の変化に対応できる柔軟な法体系にしています。 特に、ウスーリー派として知られるジャアファリー法学の主流派は、法学原理(ウスール・アル・フィクフ)を用いて法源を体系的に解釈し、論理的な推論を通じて法的判断を下すことを強調します。
スンニ派法学との相違点

ジャアファリー法学派は、相続、宗教税(ザカートやフムス)、商取引、個人身分法(結婚、離婚など)のいくつかの点で、スンニ派の法学派と異なる見解を持っています。 例えば、一時的な契約に基づく結婚である「ムトア婚」を許可している点は、スンニ派との顕著な違いの一つです。
ジャアファリー法学派は、1959年にエジプトの権威あるスンニ派の教育機関であるアズハル大学によって、スンニ派の四大学派と並ぶ5番目のイスラム法学派として正式に認められました。 これは、宗派間の対話と理解を促進する上で重要な一歩と見なされています。

歴史的発展

十二イマーム派の歴史は、迫害と忍耐、そして政治的・宗教的アイデンティティの形成の物語です。初期のシーア派共同体は、スンニ派のカリフ政権下でしばしば抑圧の対象となりました。 特にウマイヤ朝とアッバース朝の時代には、多くのイマームが監視下に置かれ、投獄されたり、殺害されたりしたと信じられています。

サファヴィー朝とイランのシーア派化

十二イマーム派の歴史における最も重要な転換点の一つは、16世紀初頭のサファヴィー朝の台頭です。 サファヴィー朝の創始者であるイスマーイール1世は、1501年に十二イマーム派シーア派を帝国の国教と定めました。
当時、イランの人口の大多数はスンニ派でしたが、サファヴィー朝は積極的な改宗政策を推進しました。 スンニ派のウラマー(学者)は追放または処刑され、代わりにレバノンやイラクなどからシーア派の学者が招かれました。 彼らには土地や資金が与えられ、シーア派の教義を広めるための制度的基盤が築かれました。 この強制的な改宗政策は、時には暴力的な手段を伴いましたが、数世紀をかけてイランの宗教的景観を根本的に変え、イランをシーア派世界の中心地としました。
サファヴィー朝は、シーア派の信仰を国家のアイデンティティと結びつけ、隣接するスンニ派のオスマン帝国との対抗軸を明確にしました。 この宗教政策は、イランの国内的な結束と国民感情を強化する一方で、周辺のスンニ派国家との長期にわたる対立を引き起こしました。

マルジャイーヤ(最高権威)の役割

大幽隠期に入り、イマームが直接共同体を指導することができなくなったため、資格を持つ高位の法学者(ムジュタヒド)がその代理として共同体を導くという考え方が発展しました。 これが「マルジャイーヤ」(「帰依処」の意)と呼ばれる制度の基礎となります。
信徒は、日常生活や宗教儀礼に関する法的な問題について、自らが「模倣」する(タクリード)特定のマルジャア(最高権威者)の判断に従います。マルジャアは、イジュティハードを行う能力を持つと認められた最も学識深く敬虔な法学者の中から、信徒たちの評判によって自然に選ばれます。
マルジャイーヤは、特定の個人や機関によって中央集権的に任命されるものではなく、信徒からの自発的な支持と財政的な寄付(フムスなど)によって支えられる分散的な権威構造を持っています。この制度は、十二イマーム派シーア派が国家の統制から独立した宗教的権威を維持することを可能にしてきました。イラン・イスラム共和国のように、高位の法学者が国家の最高指導者となる体制(ヴェラーヤテ・ファキーフ、法学者の統治)も存在しますが、これはシーア派全体の中で唯一の政治思想というわけではありません。

儀礼と実践

十二イマーム派の信徒は、イスラム教の五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)を実践しますが、それに加えて、シーア派独自の儀礼や信仰実践が数多く存在します。 これらは、十二イマームへの深い敬愛と、彼らの苦難の歴史を記憶することに根ざしています。

アーシューラーの追悼儀礼

最も重要で感情的な儀礼の一つが、イスラム暦の最初の月であるムハッラム月に行われるアーシューラーの追悼です。 これは、3代目イマームであるフサイン・イブン・アリーが680年にカルバラーの戦いで殉教したことを記念するものです。
追悼期間中、信徒は黒い服を身に着け、フサインとその家族が経験した悲劇を追体験するための様々な儀式に参加します。これには、フサインの殉教の物語を語り聞かせる集会(マジリス)、悲しみを表現する詩の朗読、そして自らの胸を叩くなどの行為(ラトム)が含まれることがあります。これらの儀式は、フサインの自己犠牲と不正義への抵抗の精神を再確認し、信徒の信仰心を強める機会とされています。

ズィヤーラ(聖地巡礼)

メッカへのハッジ(大巡礼)に加えて、十二イマーム派の信徒は「ズィヤーラ」と呼ばれる聖地巡礼を非常に重視します。 ズィヤーラは、イマームやその家族、高名な聖人たちの墓廟を訪れることを指します。
主要な巡礼地には、以下のような場所があります。
イラク:
ナジャフ: 初代イマーム、アリー・イブン・アビー・ターリブの霊廟。
カルバラー: 3代目イマーム、フサイン・イブン・アリーの霊廟。
カーズィマイン(バグダード): 7代目イマーム、ムーサー・アル・カーズィムと9代目イマーム、ムハンマド・アッ・タキーの霊廟。
サーマッラー: 10代目イマーム、アリー・アル・ハーディーと11代目イマーム、ハサン・アル・アスキャリーの霊廟。また、12代目イマームが幽隠に入ったとされる場所もここにあります。
イラン:
マシュハド: 8代目イマーム、アリー・アッ・リダーの霊廟。イラン国内で最も神聖な場所とされています。
ゴム: アリー・アッ・リダーの姉妹であるファーティマ・アル・マアスーマの霊廟。ゴムはまた、シーア派神学研究の主要な中心地でもあります。
サウジアラビア:
メディナ: 預言者ムハンマドの墓のほか、ジャンナトゥル・バキー墓地には、2代目、4代目、5代目、6代目のイマームが埋葬されています。
ズィヤーラの目的は、神に祈りを捧げ、イマームへの敬意を表し、彼らを通じて神からの祝福(バラカート)と執り成し(シャファーア)を求めることです。 巡礼は、信徒がイマームとの精神的なつながりを再確認し、自らの信仰を深めるための重要な実践となっています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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