アッバース1世とは
アッバース1世、通称アッバース大王は、1588年から1629年にかけてペルシャを統治したサファヴィー朝第5代のシャーです。 彼はイラン史上最も偉大な統治者の一人と広く見なされており、その治世はサファヴィー朝の軍事的、政治的、経済的な力の頂点を画するものでした。 アッバースが王位に就いたとき、サファヴィー朝は深刻な危機に瀕していました。国内は、彼の母と兄を殺害したクズルバシュ軍の様々な派閥間の不和によって引き裂かれていました。 同時に、イランの宿敵であるオスマン帝国とウズベク族は、この政治的混乱に乗じて領土を奪い取りました。 このような困難な状況にもかかわらず、アッバースは一連の抜本的な改革と軍事作戦を通じて、サファヴィー朝を崩壊の淵から救い出し、前例のない繁栄と栄光の時代へと導きました。 彼の治世は、軍事力の近代化、中央集権体制の確立、経済の活性化、そして文化・芸術の目覚ましい発展によって特徴づけられます。
混乱の時代への誕生:アッバース1世の幼少期と即位前の状況
アッバース1世の治世がサファヴィー朝の絶頂期を象徴するものであるとすれば、彼の幼少期は、王朝が直面していた深刻な内外の危機を映し出す鏡のようなものでした。彼が王位に就くまでの道のりは決して平坦ではなく、むしろ絶え間ない権力闘争、裏切り、そして生命の危機に満ちていました。この 人格形成期の過酷な経験は、後の彼の性格、特に猜疑心の強い側面を形成し、彼の統治スタイルに深く影響を与えることになります。
1571年1月27日、アッバースはホラーサーン地方の主要都市ヘラートで生まれました。 彼は、サファヴィー朝第2代シャーであるタフマースブ1世の長男、ムハンマド・ホダーバンダと、マザンダラーン地方の支配者の娘であるハイールンニサー・ベーグム(「マフディ・ウリヤー」としても知られる)の三男でした。 父ムハンマド・ホダーバンダは、目の病気によりほぼ失明していたため、王位継承者としては不適格と見なされていました。 アッバースが生まれた当時、イランを統治していたのは祖父のタフマースブ1世でした。
タフマースブ1世が1576年に亡くなると、サファヴィー朝は深刻な後継者争いに突入し、国内は混乱に陥りました。 この権力闘争の末、アッバースの叔父にあたるイスマーイール2世が王位に就きます。しかし、イスマーイール2世の治世は、血なまぐさい粛清によって特徴づけられました。彼は自らの地位を脅かす可能性のある王族の男子を次々と殺害または失明させました。 ヘラートにいた幼いアッバースもその標的となり、イスマーイール2世は彼の殺害を命じました。 しかし、暗殺命令を伝える使者がヘラートに到着する直前に、イスマーイール2世自身がクズルバシュのアミール(部族長)たちによって暗殺されるという劇的な出来事が起こります。 この偶然の出来事によって、アッバースは九死に一生を得ました。もしヘラートの総督であったアリーコリー・ハーン・シャームルーが、命令の実行を可能な限り引き延ばしていなければ、彼は助からなかったでしょう。
イスマーイール2世の死後、アッバースの父であるムハンマド・ホダーバンダがシャーの座に就きました。 しかし、彼は温和で政治に関心が薄く、視力の問題もあって、強力な指導者ではありませんでした。 政権の実権は当初、彼の妻でありアッバースの母であるハイールンニサー・ベーグムによって握られました。 彼女は有能な政治家であり、オスマン帝国の侵攻に対して軍を動員するなど、事実上の統治者として振る舞いました。 しかし、彼女はアッバースよりも兄のハムザの昇進を優先し、アッバースにはあまり関心を示しませんでした。 さらに、彼女の強力な権力は、サファヴィー朝の軍事力の根幹をなすトルクメン系の部族連合であるクズルバシュの指導者たちの反感を買いました。 クズルバシュは、女性が政治を支配することに強く反発し、1579年7月、ついに彼女を絞殺するという凶行に及びました。
母の死により、ムハンマド・ホダーバンダ政権はさらに弱体化し、クズルバシュの諸派閥間の抗争が激化しました。 彼らは互いに覇権を争い、王族の王子たちを自らの野望を達成するための駒として利用しました。 アッバース自身も、6歳の時に後見人を殺害されるなど、幼い頃からクズルバシュの非情さと権力闘争の渦中に身を置いていました。 一方で、国内の混乱は、サファヴィー朝の二大外敵である西のオスマン帝国と東のウズベク族に絶好の機会を与えました。彼らはこの機に乗じてペルシャ領内に深く侵攻し、広大な領土を奪い取りました。
このような状況下で、1581年、アッバースがまだ10歳の時、ホラーサーン地方で彼を擁立する動きが起こります。 ヘラートを拠点とするクズルバシュの有力なアミール、アリーコリー・ハーン・シャームルー(かつてアッバースの命を救った人物)と、ムルシド・コリー・ハーン・ウスタージャルーが、弱体なムハンマド・ホダーバンダ政権に反旗を翻し、アッバースをホラーサーンの支配者として宣言したのです。 アッバースの名で貨幣が鋳造され、事実上の内戦状態に突入しました。 しかし、この反乱は、アッバース自身の意志というよりは、彼を担ぎ上げたクズルバシュの指導者たちの権力闘争の一環でした。
その後数年間、アッバースはホラーサーンでクズルバシュの有力者たちの庇護下にありましたが、実質的には彼らの傀儡でした。状況が大きく動いたのは1587年です。 この年、ウズベク族がホラーサーンに大規模な侵攻を開始しました。 この危機的状況を好機と捉えたのが、クズルバシュの指導者の一人、ムルシド・コリー・ハーンでした。 彼は、もはや無力なムハンマド・ホダーバンダを排除し、16歳のアッバースをシャーとして擁立することで、自らが帝国全体の実権を握ろうと画策しました。 ムルシド・コリー・ハーンは若きアッバースを伴って首都ガズヴィーンに進軍し、クーデターを成功させました。 父ムハンマド・ホダーバンダは抵抗することなく退位し、1588年10月1日、アッバースは正式にサファヴィー朝の第5代シャーとして即位しました。
しかし、即位当初のアッバースは、依然としてムルシド・コリー・ハーンの操り人形に過ぎませんでした。 帝国は崩壊の危機に瀕し、西からはオスマン帝国、東からはウズベク族が領土を蚕食し、国内ではクズルバシュの派閥が権力争いを繰り広げているという絶望的な状況でした。 この若きシャーが、自らを擁立した権力者の支配を脱し、真の統治者として国を再建していく道のりは、まさにこれから始まろうとしていたのです。彼の幼少期と即位に至るまでの経験は、彼に権力の本質と人間の非情さを教え込み、後の大胆かつ時には冷酷な改革者としてのアッバース大王を形作っていったと言えるでしょう。
権力基盤の確立:クズルバシュの抑制と新勢力の台頭
1588年に16歳で王位に就いたアッバース1世でしたが、その権力は名目上のものであり、実権は彼を擁立したクズルバシュの有力者、ムルシド・コリー・ハーンが掌握していました。 アッバースは、サファヴィー朝を建国以来支えてきた一方で、その強力な軍事力を背景に王権を脅かす存在となっていたクズルバシュの力をいかにして抑制し、シャーを中心とする中央集権体制を確立するかという、極めて困難な課題に直面していました。彼の治世初期における最大の目標は、自らを傀儡から真の君主へと変貌させることでした。
アッバースは、自分が単なる飾り物の王ではないことをすぐに示しました。彼はまず、自分を王位に就けたムルシド・コリー・ハーンの排除から着手します。ムルシドは自らを帝国の最高権力者とみなし、専横の限りを尽くしていましたが、アッバースは彼の支配を覆す機会を冷静にうかがっていました。そして1589年7月23日、アッバースは他のクズルバシュの指導者4人を巧みに操り、宴会の席でムルシドを暗殺させました。 この出来事は、アッバースがもはや誰かの操り人形ではなく、自らの意志で行動する冷徹な政治家であることを内外に示す象徴的な事件となりました。ムルシドの死によって、アッバースは初めてイランを自らの名実ともに統治する道を開いたのです。
しかし、一人の有力者を排除しただけでは、クズルバシュ全体の脅威が去ったわけではありません。クズルバシュは、サファヴィー朝の創始者イスマーイール1世を支えたトルクメン系の7つの部族連合であり、その軍事力は依然として王朝の根幹をなしていました。 彼らは長年にわたり地方の総督職を独占し、その土地と強い結びつきを持つことで、半ば独立した勢力を形成していました。 アッバースは、このクズルバシュの「軍事独占」を打破し、彼らの影響力を削ぐための抜本的な改革が必要であると認識していました。
その改革の核心となったのが、後に「第三勢力」と呼ばれる新しい社会階層の創設と登用です。 この構想は、祖父タフマースブ1世の時代に既に萌芽が見られましたが、アッバースはこれを大規模に、そして体系的に推し進めました。 彼は、カフカス地方(グルジア、チェルケス、アルメニアなど)からのキリスト教徒の捕虜や奴隷を大量にイラン内地に移住させ、イスラム教に改宗させた上で、彼らをシャーにのみ忠誠を誓うエリート層として育成しました。 この新しいエリート層は「ゴラーム」と呼ばれました。
ゴラーム制度の導入は、サファヴィー朝の権力構造に革命的な変化をもたらしました。 ゴラームは、イラン国内の部族的なしがらみや血縁関係から完全に切り離されていたため、彼らの忠誠心は唯一、シャーであるアッバース個人に向けられました。 アッバースは、これらのゴラームからなる常備軍を創設しました。この新しい軍隊は、王室の財源によって完全に賄われ、最新の火器で武装していました。 アッバースの治世だけで、グルジア人約13万人から20万人、チェルケス人多数、そしてアルメニア人約30万人がイランに移住させられたと推定されています。 この結果、タフマースブ1世の時代には数百人規模だったゴラーム軍は、アッバースの治世末期には1万5000人の精鋭騎兵を含む、総勢4万人のカフカス系ゴラームからなる一個師団にまで拡大しました。
この新しい常備軍の創設は、クズルバシュの力を相対的に低下させる上で絶大な効果を発揮しました。 アッバースは、もはや軍事力の供給をクズルバシュの部族騎兵だけに依存する必要がなくなったのです。 彼はさらに、クズルバシュの権力基盤を弱体化させるため、彼らが世襲的に支配してきた地方総督の地位を次々と剥奪し、後任に忠実なゴラームを任命しました。 また、クズルバシュの総督を頻繁に別の任地へ異動させることで、彼らが地域社会との間に築いてきた強固な結びつきを断ち切りました。
この政策の象徴的な例が、グルジア出身のゴラームであったアッラーヴェルディ・ハーンの台頭です。 彼は1595年にイランで最も裕福な州の一つであるファールス州の総督に任命され、その権力は1598年に全軍の最高司令官に就任したことで頂点に達しました。 クズルバシュではない、しかも元キリスト教徒の奴隷出身者が軍の最高位に就くことは、それまでのサファヴィー朝では考えられないことでした。これは、アッバースによる権力構造の再編がいかに徹底していたかを示しています。
アッバースはまた、クズルバシュの部族的な忠誠心に対抗するため、「シャーセヴァン(王を愛する者)」と呼ばれる新しい部族連合を組織しました。 これは、既存のクズルバシュ部族の枠を超えて、シャー個人に忠誠を誓う者たちを集めて作られた集団であり、クズルバシュの影響力を内側から切り崩す役割を果たしました。
これらの改革を通じて、アッバースはクズルバシュの力を巧みに抑制し、彼らを王朝の脅威から、国家に仕える一勢力へと変えていきました。彼はクズルバシュを完全に排除するのではなく、ゴラームという新しい勢力との間に権力の均衡を生み出すことで、シャーがその頂点に立つという、より強固で安定した中央集権体制を築き上げたのです。 この権力基盤の確立こそが、その後の軍事的成功、経済的繁栄、そして文化の開花を可能にするための不可欠な前提条件でした。
軍事改革と失地回復:オスマン帝国とウズベク族との戦い
アッバース1世が王位に就いた当時、サファヴィー朝は建国以来最大の領土的危機にありました。彼の父、ムハンマド・ホダーバンダの弱腰な治世の間に、西の宿敵オスマン帝国と東のウズベク族によって広大な領土が奪われていました。 オスマン帝国は、アゼルバイジャン、グルジア、シルヴァン、タブリーズといったサファヴィー朝発祥の地を含む北西部を占領し、ウズベク族は東部の重要な州であるホラーサーンを侵略していました。 アッバースにとって、失われた領土を回復し、国家の威信を取り戻すことは、権力基盤の確立と並行して進めなければならない最重要課題でした。しかし、そのためには、旧態依然としたサファヴィー軍を近代的な戦闘集団へと変革する必要がありました。
アッバースは、二正面での同時戦争は不可能であると冷静に判断しました。 そこで彼はまず、より強大な敵であるオスマン帝国との間に、一時的な和平を結ぶという苦渋の決断を下します。1590年、彼はオスマン帝国とイスタンブール条約を締結しました。 この条約は、サファヴィー朝にとって極めて屈辱的な内容であり、アゼルバイジャン、カラバフ、ギャンジャ、ダゲスタン、そして旧都タブリーズを含む北西部の広大な領土をオスマン帝国に割譲することを認めさせられました。 この屈辱的な和平によって、アッバースは西方の戦線から一時的に解放され、軍の再建と東方のウズベク族への反撃に集中するための貴重な時間を得ることができました。
アッバースの軍事改革は、多岐にわたり、かつ徹底していました。その中核をなしたのは、前章で述べたゴラーム制度の導入と、それに伴う常備軍の創設です。 彼は、シャーにのみ忠誠を誓うグルジア人、チェルケス人、アルメニア人からなるゴラーム兵士で構成された部隊を大幅に拡充しました。 これにより、従来のクズルバシュ部族騎兵への依存を減らし、より規律正しく、指揮系統の統一された軍隊を作り上げました。
さらに重要な改革は、火器の本格的な導入と、それらを専門に扱う部隊の創設でした。 アッバースは、イギリス人の冒険家であるロバート・シャーリーとその兄アンソニー・シャーリー兄弟の助言を得て、軍の近代化を推し進めました。 シャーリー兄弟は、ヨーロッパの最新の軍事技術、特に砲術に関する知識をもたらしました。 アッバースは、彼らの協力を得て、マスケット銃を装備した銃兵隊(トファンチー)、より大型の火器を扱う部隊(ジャザーイェルチー)、そして大砲を運用する砲兵隊(トゥープチー)を創設・拡充しました。 これにより、サファヴィー軍は、それまでの騎兵中心の戦術から、歩兵、騎兵、砲兵が連携する近代的な三兵戦術へと移行することが可能になりました。
約10年の歳月をかけて軍の再編と強化を成し遂げたアッバースは、ついに失地回復のための行動を開始します。 彼の最初の目標は、東方のウズベク族でした。1598年4月、アッバースは自ら軍を率いてホラーサーンに進軍し、ヘラート近郊でウズベク軍と激突しました。 この戦いで、改革されたサファヴィー軍はその真価を発揮し、ウズベク軍に決定的な勝利を収めました。 この勝利により、ホラーサーン全域がサファヴィー朝の支配下に戻り、東方の国境は安定しました。
東方の脅威を排除したアッバースは、満を持して西方のオスマン帝国に矛先を向けます。オスマン帝国がヨーロッパでのハプスブルク家との戦争に気を取られている隙を突き、1603年9月、アッバースは宣戦を布告し、オスマン・サファヴィー戦争(1603年-1618年)の火蓋が切られました。
サファヴィー軍の進撃は迅速でした。アッバースはまず、オスマン軍のイラン攻撃の拠点として計画されていたナハーヴァンドを奪還し、要塞を破壊しました。 そして1603年10月21日、1590年の条約で割譲された旧都タブリーズを奪回します。 この戦いでは、サファヴィー軍が初めて大砲を効果的に使用し、オスマンの占領に苦しんでいた市民は解放軍としてサファヴィー軍を熱狂的に歓迎しました。
アッバースの快進撃は続きます。1604年には南カフカスの大部分を制圧し、エレバンを包囲、陥落させました。 オスマン帝国は、1604年に反撃を試みますが、準備不足のオスマン軍はサファヴィー軍に敗北を喫します。 翌1605年11月、タブリーズ近郊のスーフィヤーンで行われた決戦で、アッバースは再びその卓越した軍事的才能を発揮します。 数で劣るサファヴィー軍を巧みに指揮し、オスマン軍の騎兵を誘い込んだ上で予備兵力を投入し、オスマン軍を壊滅的な敗北に追い込みました。 この戦いは、サファヴィー朝がオスマン帝国に対して野戦で収めた史上初の決定的勝利であり、両国の軍事バランスを大きく変えるものでした。
この勝利の後も、アッバースはギャンジャ(1606年)、シルヴァン(1606年)、グルジアなどを次々と奪回し、1590年の条約で失った領土のほとんどを取り戻しました。 度重なる敗北と国内の反乱に苦しんだオスマン帝国は、ついに和平を求めざるを得なくなりました。1612年、両国はナスフ・パシャ条約(第二次イスタンブール条約)を締結します。 この条約により、オスマン帝国は1590年以降に獲得した領土(アゼルバイジャン、グルジア、その他のカフカス地域)に対するサファヴィー朝の主権を認め、国境線は1555年のアマスィヤ条約で定められた線まで戻されることになりました。 その見返りとして、サファヴィー朝は毎年200荷の絹をオスマン帝国に送ることを約束しました。
その後、グルジアをめぐる対立から1616年に再び戦闘が再開されますが、これもサファヴィー軍の優位に進み、1618年のセラヴ条約でナスフ・パシャ条約の内容が再確認されました。ただし、サファヴィー朝が送る絹の量は半分の100荷に減額されました。
さらにアッバースは、オスマン帝国の内紛に乗じて、1623年にイラクへの侵攻を開始します。 彼はバグダードを占領し、シーア派の聖地であるナジャフやカルバラーを含むメソポタミアの大部分を支配下に置きました。 これにより、長年の宿敵オスマン帝国に対して完全な軍事的優位を確立し、サファヴィー朝の領土を最大にまで広げたのです。
アッバースの軍事的成功は、単に領土を回復しただけでなく、サファヴィー朝の国際的地位を飛躍的に高め、国民に自信と誇りを取り戻させました。彼の徹底した軍事改革と、それを駆使した卓越した戦略眼こそが、崩壊寸前だった帝国を救い、地域の覇者へと押し上げた原動力だったのです。
新首都イスファハーンの建設と文化の黄金時代
アッバース1世の治世は、軍事的な成功や政治的安定だけでなく、文化・芸術がかつてないほどの輝きを放った時代としても記憶されています。彼の最も永続的な遺産の一つが、新首都イスファハーンの建設です。 アッバースは、単に都市を建設したのではなく、サファヴィー朝の権威、経済力、そして文化的洗練を世界に示す壮大な舞台を創造しました。彼の庇護の下、イスファハーンは世界の驚異と称される都市へと変貌し、ペルシャ芸術は新たな高みに達しました。
1598年、ウズベク族に対する決定的な勝利を収めた後、アッバースは首都をガズヴィーンから、より国土の中央に位置するイスファハーンへ遷都することを決定しました。 この遷都には、いくつかの戦略的な理由がありました。第一に、イスファハーンはオスマン帝国やウズベク族の国境から遠く、より安全な位置にありました。 第二に、ペルシャ湾の交易路へのアクセスが容易であり、経済の中心地として理想的でした。 そして第三に、アッバースはこの新しいキャンバスに、彼自身のビジョンに基づいた、壮麗で機能的な帝国の中心を描き出そうとしたのです。
アッバースの都市計画の中心となったのが、「ナクシェ・ジャハーン広場(世界の肖像の広場)」、現在のイマーム広場です。 この広場は、長さ約560メートル、幅約160メートルという壮大なスケールを誇り、当時世界最大級の都市広場でした。広場は、ポロの競技場として、また軍事パレードや祝祭、公開市場の場としても機能し、市民生活の中心となりました。この広場を囲むように、アッバースはサファヴィー建築の最高傑作とされる建物を次々と建設しました。
広場の南側には、壮大な「シャー・モスク(マスジェデ・シャー、現在のイマーム・モスク)」がそびえ立っています。 青を基調とした精緻なタイルワークで覆われた巨大なドームとミナレットを持つこのモスクは、サファヴィー朝の宗教的権威と建築技術の粋を象徴しています。
東側には、アッバースの義父であるシェイフ・ロトフォッラーを祀るために建てられた、優美で繊細な「シェイフ・ロトフォッラー・モスク」があります。 このモスクは、一般的なモスクと異なりミナレットを持たず、そのクリーム色のドームは光の加減によってピンク色に変化することで知られています。内部のタイル装飾は息をのむほど美しく、ペルシャ・イスラム建築の宝石と称されています。
西側には、政治と行政の中心である「アーリー・カープー宮殿」が位置します。 この宮殿の高くそびえるテラスからは、広場全体を見渡すことができ、シャーはここからポロの試合や式典を観覧しました。宮殿の内部、特に「音楽室」と呼ばれる部屋は、音響効果を高めるために壁に施された精巧な壺形の透かし彫りで有名です。
広場の北側は、巨大な「ゲイサリーイェ・バザール」の入り口へと繋がっています。このバザールは、イスファハーンの経済的繁栄を支える大動脈であり、そのアーチ状の通路は数キロメートルにわたって続き、国内外から集まった様々な商品が取引されていました。
アッバースはまた、都市のインフラ整備にも力を注ぎました。ザーヤンデ川には、「スィー・オ・セ・ポル(33の橋)」や「ハージュー橋」といった、単なる交通路としてだけでなく、市民の憩いの場としても機能する美しい橋が架けられました。 広大な庭園「ハザール・ジャリーブ」や、多くのキャラバンサライ(隊商宿)、公衆浴場なども建設され、イスファハーンは機能性と美しさを兼ね備えた近代的な都市として発展しました。
アッバースの治世は、芸術のルネサンス期でもありました。 彼は芸術家、詩人、哲学者を厚く庇護し、イスファハーンには王立の工房が設立されました。 この工房では、レザー・アッバースィーのような著名な画家が活躍し、ペルシャ細密画(ミニアチュール)は新たな様式を生み出しました。 書道もまた、芸術の一分野として高く評価されました。
特にアッバースの時代に大きく発展したのが、絨毯と絹織物の生産です。 彼の庇護の下、絨毯織りは主要な産業となり、精巧で美しいペルシャ絨毯はヨーロッパの富裕な市民の家々を飾るようになりました。 また、絹の生産と販売は王室の独占事業とされ、ブロケード(錦織)やダマスク(紋織物)といった比類なき豪華さを持つ織物が生産されました。 これらの高級織物は、重要な輸出品として帝国の経済を潤しました。
アッバースがイスファハーンに築き上げた壮麗な都市と、彼が育んだ豊かな文化は、サファヴィー朝の権威と繁栄を世界に知らしめる最も雄弁な証となりました。「イスファハーンは世界の半分」という言葉が生まれたように、この都市は当時の人々にとって、まさに地上の楽園であり、文明の中心と見なされたのです。 アッバースの遺した建築物や芸術品は、数世紀を経た今もなお、イラン文化の象徴として輝きを放ち続けています。
経済改革と国際貿易の振興
アッバース1世は、軍事力と中央集権化が強固な経済基盤なしには維持できないことを深く理解していました。 彼の治世は、サファヴィー朝の経済を活性化させ、国際交易の舞台でペルシャを主要なプレイヤーへと押し上げるための、野心的かつ戦略的な経済改革によって特徴づけられます。アッバースは国内の生産基盤を強化し、交易路を整備・保護し、さらにはヨーロッパ諸国との直接的な外交・通商関係を積極的に築くことで、帝国の富を飛躍的に増大させました。
アッバースの経済政策の根幹をなしたのは、絹の生産と交易の王室独占でした。 絹は当時のペルシャにおける最も価値のある輸出品であり、アッバースはこの莫大な利益を生む産業を国家管理下に置くことで、安定した歳入源を確保しました。 この独占体制により、王室は軍事改革や大規模な建設事業に必要な資金を賄うことができたのです。
経済をさらに発展させるため、アッバースは商業的に優れた才能を持つアルメニア人コミュニティを積極的に活用しました。 1604年、彼はオスマン帝国との国境地帯における焦土作戦の一環として、アゼルバイジャンのジュルファ(Jolfa)に住む裕福なアルメニア商人たちを、新首都イスファハーン近郊に強制的に移住させました。 そして、彼らのために「新ジュルファ」と呼ばれる新しい町を建設しました。 これは単なる強制移住ではなく、高度な経済戦略でした。アッバースは新ジュルファのアルメニア人に対し、宗教的自由を保障し、教会を建てることを許可しただけでなく、無利子の貸付金を提供し、独自の市長を選出する権利を与えるなど、手厚い保護と特権を与えました。
この政策の狙いは、アルメニア人が持つ広範な国際交易ネットワークと商業的ノウハウを、サファヴィー朝の経済発展のために利用することでした。 期待通り、新ジュルファのアルメニア商人たちは、ペルシャの絹をロシアを経由してヨーロッパ市場へ、またインドや東南アジアへと輸送する上で中心的な役割を果たし、ペルシャ経済の国際化に大きく貢献しました。
アッバースはまた、国内の交易インフラの整備にも多大な努力を払いました。彼は、盗賊や地方の豪族による略奪行為を厳しく取り締まり、交易路の安全を確保しました。 さらに、主要な街道に沿って、数多くのキャラバンサライ(隊商宿)を建設しました。 これらのキャラバンサライは、単なる宿泊施設ではなく、商品の保管、取引、情報交換の場としても機能し、ペルシャ全土を結ぶ商業ネットワークの重要な結節点となりました。石畳で舗装された道路の建設も進められ、物資の輸送効率は大幅に向上しました。
アッバースの経済政策で特筆すべきは、ヨーロッパ諸国との直接的な外交・通商関係の構築に向けた積極的な姿勢です。 それまでのペルシャのヨーロッパとの交易は、主にオスマン帝国やヴェネツィア商人を介して行われており、仲介料によって利益が大きく削がれていました。アッバースは、このオスマン帝国による「経済的スクリーン」を打破し、ヨーロッパ諸国と直接取引することを目指しました。
この目的を達成するため、アッバースは共通の敵であるオスマン帝国に対抗するための同盟を模索するという外交戦略を用いました。 1598年、彼はイギリス人冒険家のシャーリー兄弟をヨーロッパへ派遣し、ローマ教皇、スペイン王、神聖ローマ皇帝、イギリス女王など、ヨーロッパの主要な君主たちとの接触を図りました。 この使節団の目的は、対オスマン軍事同盟の結成を働きかけると同時に、ペルシャとの直接交易のメリットを説くことでした。
この外交努力は、軍事同盟という点では具体的な成果を上げるには至りませんでしたが、通商関係の確立においては大きな成功を収めました。 ポルトガル、オランダ、イギリスといった海洋国家が、ペルシャ湾とインド洋における交易の覇権をめぐって競い合うようになります。 アッバースはこの競争を巧みに利用しました。特に重要な出来事が、1622年のホルムズ島奪回です。 ペルシャ湾の入り口に位置するホルムズ島は、1世紀以上にわたってポルトガルの支配下にあり、インド洋交易の重要な拠点でした。アッバースは、ポルトガルと対立していたイギリス東インド会社と協力し、イギリス艦隊の海上支援を得てホルムズ島をポルトガルから奪回しました。
ホルムズ島の奪回は、アッバースの経済戦略における画期的な出来事でした。これにより、ペルシャ湾の交易はサファヴィー朝の直接管理下に置かれることになり、それまでポルトガルに流れていた莫大な関税収入が国庫にもたらされるようになりました。 アッバースはホルムズ島に代わる新たな交易港として、対岸のガムルーンを整備し、自らの名にちなんで「バンダル・アッバース(アッバースの港)」と改名しました。 バンダル・アッバースは、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社(VOC)の商館が置かれ、ペルシャ湾における国際交易の中心地として急速に発展しました。
これらの包括的な経済改革の結果、サファヴィー朝の国庫は潤い、経済は前例のない活況を呈しました。 安定した歳入は、常備軍の維持、イスファハーンでの壮大な建設事業、そして芸術の庇護を可能にしました。アッバースは、軍事力と経済力が不可分であることを理解し、両者を巧みに連動させることで、サファヴィー朝をその黄金時代へと導いたのです。
宗教政策と社会:寛容と厳格さの二面性
アッバース1世の宗教政策と社会に対するアプローチは、彼の統治スタイルの特徴である実用主義と、時に見せる冷酷さが複雑に絡み合ったものでした。 サファヴィー朝は、その成立当初からシーア派イスラム教(十二イマーム派)を国教とし、その普及を王朝の正当性の根幹としていました。アッバースもこの基本路線を踏襲し、シーア派の熱心な信奉者として振る舞いました。彼はマシュハドにある第8代イマーム・アリー・レザーの聖廟を篤く信仰し、何度も徒歩で巡礼を行ったことで知られています。これは、彼の個人的な信仰心を示すと同時に、シーア派の守護者としてのシャーの役割を民衆にアピールする政治的なパフォーマンスでもありました。
しかし、その一方で、アッバースの宗教政策は、純粋な信仰心だけでなく、国家の安定と繁栄という極めて現実的な目標によって動かされていました。彼の非ムスリムに対する態度は、この実用主義的な側面を最もよく表しています。
前述の通り、アッバースは経済発展のためにアルメニア人キリスト教徒を積極的に活用しました。彼はイスファハーンに新ジュルファ地区を建設し、彼らに信仰の自由、独自の法廷、そして教会建設の権利を認めました。この寛容な政策は、アルメニア人商人の国際交易ネットワークをサファヴィー朝の経済に取り込むための戦略的な判断でした。同様に、彼はグルジア人やチェルケス人といったカフカス系のキリスト教徒を大量に登用し、彼らをイスラム教に改宗させた上で、軍や官僚機構の中核であるゴラームとしました。これは、クズルバシュの部族勢力を抑制し、シャーへの忠誠心が高いエリート層を創出するという政治的目的によるものでした。
また、アッバースはヨーロッパ諸国との関係構築のため、キリスト教宣教師の国内での活動を許可しました。アウグスティヌス会やカルメル会などのカトリック宣教師がイスファハーンに拠点を置き、布教活動を行いました。これは、共通の敵であるオスマン帝国に対抗するための外交カードとして、ヨーロッパのキリスト教国との連携を模索するアッバースの戦略の一環でした。
しかし、アッバースの寛容さは、常に国家の利益というフィルターを通して適用されるものであり、絶対的なものではありませんでした。彼の治世には、非ムスリムに対する厳しい弾圧が行われた事例も記録されています。特に、イラン国内に古くから存在するゾロアスター教徒やユダヤ教徒は、時に強制的な改宗の圧力にさらされました。1622年頃には、グルジア人キリスト教徒に対する大規模な弾圧も行われています。これは、グルジアがオスマン帝国側に寝返ることを防ぐための政治的な懲罰であり、アッバースの政策が、国家の安全保障が脅かされたと判断した場合には、容赦ないものに変わりうることを示しています。
スンニ派ムスリムに対する態度は、より一貫して厳しいものでした。サファヴィー朝の国教であるシーア派と対立するスンニ派は、潜在的な敵であるオスマン帝国と同じ宗派であり、国内の不安定要因と見なされていました。アッバースは、スンニ派のウラマー(法学者)や有力者を厳しく監視し、反抗的な動きには弾圧をもって応じました。
社会政策においては、アッバースは法と秩序の厳格な執行者でした。彼は国内の治安維持に非常に力を入れ、盗賊や追い剥ぎといった犯罪を徹底的に取り締まっていました。街道の安全が確保されたことは、商業の発展に大きく貢献しました。彼はしばしば身分を隠してお忍びで街を視察し、役人の不正や民衆の生活を自らの目で確かめたと伝えられています。不正を働いた役人に対しては、身分を問わず厳しい処罰を下しました。このような逸話は、彼が公正で民衆思いの君主であるというイメージを広めるのに役立ちましたが、同時に、彼の支配が絶対的であり、誰もが常に監視されているという恐怖感を植え付ける効果もありました。
アッバースの統治は、繁栄と安定をもたらす一方で、極めて権威主義的なものでした。彼の猜疑心の強さは有名であり、彼は自らの権力を脅かす可能性のある人物を容赦なく粛清しました。その対象は、政敵や反抗的な部族長だけでなく、実の息子たちにまで及びました。この猜疑心は、彼の治世の最大の悲劇と、サファヴィー朝の将来に暗い影を落とす原因を生み出すことになります。
総じて、アッバースの宗教・社会政策は、寛容と厳格、実用主義と冷酷さという二つの顔を持っていました。彼は、帝国の安定と繁栄という至上命題のためには、宗教的な寛容さを示すことも、非情な弾圧を行うことも厭わない、マキャベリズム的な統治者だったのです。
治世の影:猜疑心と後継者問題
アッバース1世の治世は、サファヴィー朝に前例のない栄光をもたらしましたが、その輝かしい成功の裏には、深い影が潜んでいました。その影とは、彼の性格の根幹をなす、異常なまでの猜疑心です。幼少期に経験した裏切りと権力闘争の記憶は、彼を生涯にわたって苛め続け、自らの権力に対するいかなる脅威にも過剰に反応する冷酷な独裁者へと変貌させました。この猜疑心は、最終的に彼の家族を標的とし、サファヴィー朝の将来を危うくする悲劇的な結末を招きました。
アッバースは、自らの権力を脅かす可能性のある者を徹底的に排除しました。その刃は、かつて彼を支えたクズルバシュの有力者たちや、反抗的な地方豪族に向けられましたが、やがて彼の最も身近な存在である息子たちにも向けられるようになります。アッバースは、自分が父ムハンマド・ホダーバンダに対して行ったように、いつか自分の息子が自分を裏切り、王位を簒奪するのではないかという恐怖に常に怯えていました。
彼の長男であり、皇太子であったムハンマド・バーキール・ミールザーは、有能で民衆からの人気も高い若者でした。しかし、その人気こそが、アッバースの猜疑心を煽る原因となりました。アッバースは、息子の周りに不穏な陰謀が渦巻いていると信じ込み、チェルケス人の有力者の一人に、皇太子が反乱を企てているという偽の情報を吹き込ませました。そして、この偽情報を信じたアッバースは、1615年、狩猟の最中に、そのチェルケス人に命じて息子を殺害させてしまいました。
しかし、後に息子が無実であったことを知ったアッバースは、深い後悔と悲しみに打ちひしがれます。彼は何日も食事を絶ち、喪服を着て過ごしたと伝えられています。しかし、彼がとった行動は、自らの過ちを悔い改めることではなく、さらなる血の報復でした。彼は、息子を殺害するよう命じたチェルケス人とその一族を皆殺しにし、さらに皇太子殺害の陰謀に関わったとされる多くの廷臣たちを処刑しました。この事件は、アッバースの精神が、権力への執着と猜疑心によっていかに蝕まれていたかを物語っています。
長男の死後、アッバースの猜疑心は残りの息子たちにも向けられました。彼は、二人の息子を失明させ、政治の世界から完全に隔離しました。これにより、彼らは王位を継承する資格を失いました。もう一人の息子は、父の怒りを恐れて早世してしまいます。その結果、アッバースが1629年に亡くなったとき、彼には王位を継承するにふさわしい息子が一人も残っていませんでした。
後継者がいなくなったことで、アッバースは苦渋の選択を迫られます。彼は、かつて自らが殺害した長男ムハンマド・バーキール・ミールザーの息子、すなわち彼の孫にあたるサム・ミールザーを後継者に指名しました。サム・ミールザーは、父の死後、ハレムの奥深くで女性たちに囲まれて育てられ、政治や軍事に関する教育を一切受けていませんでした。彼は外界から隔離され、酒と快楽に溺れる無気力な若者に成長していました。アッバースは、このような人物であれば、自分の権力を脅かすことはないだろうと考えたのかもしれません。
1629年1月19日、アッバース1世はマザンダラーンで亡くなりました。彼の死後、サム・ミールザーがサフィー1世として王位に就きました。しかし、帝王学を学ばず、統治者としての資質を全く欠いたサフィー1世の治世は、サファヴィー朝の衰退の始まりを告げるものでした。彼は祖父であるアッバースの冷酷さだけを受け継ぎ、有能な将軍や官僚、さらには王族を次々と粛清し、国力を著しく低下させました。
アッバースが築き上げた強力な中央集権体制と常備軍は、彼のような傑出した指導者がいて初めて機能するシステムでした。彼は、自らの権力を固めるためにクズルバシュの力を削ぎ、ゴラームという新しいエリート層を創設しましたが、それは同時に、シャー個人の能力に国家の運命が大きく左右される、脆弱な構造を生み出すことにもなりました。有能な後継者を自らの手で葬り去ったことで、アッバースは結果的に、自分が生涯をかけて築き上げた偉大な帝国の土台を、自ら掘り崩してしまったのです。
アッバース大王の治世は、サファヴィー朝の栄光の頂点であったと同時に、その後の長い衰退の序章でもありました。彼の猜疑心と後継者問題は、偉大な君主が犯した最大の過ちとして、イランの歴史に深く刻まれています。
アッバース1世の遺産と歴史的評価
アッバース1世、すなわちアッバース大王は、イラン史上において最も影響力のある偉大な君主の一人として、その名を不滅のものとしています。彼が1588年に王位を継承したとき、サファヴィー朝は内乱と外敵の侵攻によって崩壊の危機に瀕していました。しかし、41年間にわたる彼の治世の終わりには、帝国は軍事的、政治的、経済的、そして文化的な絶頂期を迎え、西アジアにおける不動の覇権を確立していました。
アッバースの功績は多岐にわたります。第一に、彼はサファヴィー朝の権力構造を根本から変革しました。王権を脅かす存在であったクズルバシュの部族勢力を巧みに抑制し、代わりにシャー個人に忠誠を誓うカフカス出身のゴラームを登用することで、強力な中央集権体制を確立しました。この「第三勢力」の創設は、サファヴィー朝の政治的安定に不可欠な基盤となりました。
第二に、彼は軍事改革を断行し、サファヴィー軍を近代的な戦闘集団へと生まれ変わらせました。火器を装備した常備軍の創設により、宿敵オスマン帝国とウズベク族に対して軍事的優位を確立し、父の代に失われた広大な領土をことごとく回復しました。特に、オスマン帝国から旧都タブリーズやシーア派の聖地であるイラクを奪回したことは、サファヴィー朝の威信を内外に示し、国民に誇りをもたらしました。
第三に、彼は先見の明のある経済政策によって、帝国の富を飛躍的に増大させました。絹交易の国家独占、アルメニア人商人の活用、交易路の安全確保とキャラバンサライ網の整備、そしてヨーロッパ諸国との直接交易の開始といった一連の政策は、ペルシャ経済を活性化させ、その後の繁栄の礎を築きました。
第四に、彼の治世はペルシャ文化の黄金時代として記憶されています。新首都イスファハーンに建設された壮麗なモスク、宮殿、広場は、サファヴィー建築の最高傑作として今日まで残り、「イスファハーンは世界の半分」と称えられるほどの繁栄を象徴しています。彼の庇護の下、細密画、絨毯、絹織物といった芸術・工芸もまた、新たな高みに達しました。
しかし、アッバースの遺産は、その輝かしい側面だけではありません。彼の統治は、冷酷な粛清と絶対的な権威主義によって支えられていました。そして、彼の性格の根幹にあった深い猜疑心は、自らの有能な息子たちを次々と死や失明に追い込むという、取り返しのつかない悲劇を引き起こしました。これにより、彼はサファヴィー朝から有能な後継者を奪い去り、結果として王朝の衰退を早める原因を自ら作り出してしまったのです。彼が築いた偉大な帝国は、彼の死後、指導者の資質を欠いた後継者たちの下で、ゆっくりと、しかし確実に崩壊への道をたどることになります。
このように、アッバース1世の歴史的評価は、光と影の二面性を持っています。彼は、崩壊寸前の国家を救い、前例のない繁栄と栄光をもたらした偉大な再建者であり、近代イランの基礎を築いた先見性のある改革者でした。その一方で、彼は自らの権力への執着から家族の悲劇を招き、王朝の将来に暗い影を落とした冷酷な独裁者でもありました。