軍政改革《サファヴィー朝》とは
サファヴィー朝の軍政改革は、16世紀末から17世紀初頭にかけて、第5代シャーであるアッバース1世(在位1588年-1629年)の治世下で断行された、国家の軍事構造を根本から変革した一連の施策です。この改革は、サファヴィー朝の創設以来、軍事力の根幹をなしてきたトルクメン系の部族連合であるクズルバシュの力を削ぎ、シャーへの忠誠心が高い常備軍を創設することを目的としていました。具体的には、カフカス地方出身のキリスト教徒をイスラム教に改宗させて育成した奴隷兵「ゴラーム」、銃火器で武装したマスケット銃兵「トファンチー」、そして砲兵「トプーチー」という三つの新しい部隊を設立し、これらを王室の財源から直接給与を支払う中央集権的な軍隊として組織しました。この改革により、サファヴィー朝は長年の宿敵であったオスマン帝国に対して軍事的に対抗しうる力を獲得し、失地回復を成し遂げるとともに、中央集権体制を確立して国家の黄金時代を築く礎となりました。
改革の歴史的背景:クズルバシュの台頭と葛藤
サファヴィー朝の軍政改革を理解するためには、改革以前の軍事体制と、それが抱えていた深刻な問題を把握することが不可欠です。1501年にイスマーイール1世によって建国されたサファヴィー朝は、その初期において、クズルバシュと呼ばれるトルクメン系のシーア派戦士たちの軍事力に全面的に依存していました。 クズルバシュは「赤い頭」を意味し、彼らがサファヴィー教団への忠誠の証として巻いていた特徴的な赤いターバンに由来します。 彼らはサファヴィー朝の建国とイランの征服において決定的な役割を果たし、その見返りとして広大な土地を与えられ、帝国内で絶大な権力と影響力を持つに至りました。
建国当初、イスマーイール1世とクズルバシュの関係は、宗教的なカリスマと軍事的な忠誠心によって固く結ばれていました。クズルバシュの部族長たちは、イスマーイールを単なる世俗的な君主としてではなく、シーア派の隠れイマームの代理人と見なし、彼に神聖な権威を認めていました。 この強固な主従関係が、サファヴィー軍の驚異的な戦闘力の源泉となっていました。しかし、この蜜月関係は長くは続きませんでした。1514年、サファヴィー朝は東アナトリアのチャルディラーンの平原で、宿敵であるスンニ派のオスマン帝国と激突します。このチャルディラーンの戦いは、サファヴィー朝の歴史における大きな転換点となりました。
オスマン軍は、当時最新鋭の兵器であった大砲やマスケット銃を装備した歩兵部隊(イェニチェリ)を擁しており、伝統的な騎兵を中心としたサファヴィー軍は、この火力戦の前に壊滅的な敗北を喫しました。 イスマーイール1世自身は辛くも戦場から脱出したものの、首都タブリーズは一時的にオスマン軍に占領され、サファヴィー朝はその威信を大きく損ないました。 この敗北は、サファヴィー朝の指導者たちに、火器の重要性と軍事技術の近代化が急務であることを痛感させました。 同時に、この敗北はイスマーイール1世の神聖なカリスマを揺るがし、彼とクズルバシュの関係にも亀裂を生じさせました。敗戦後、イスマーイール1世はクズルバシュの部族長たちが持つ強大な権力に不信感を抱くようになり、彼らを政権の中枢から遠ざけ、代わりにイラン系の官僚を登用する政策を試みました。
イスマーイール1世の後を継いだタフマースプ1世(在位1524年-1576年)の治世下では、クズルバシュの権力はさらに増大し、シャーの権威を脅かす存在となっていきました。タフマースプ1世は、チャルディラーンの戦いの教訓から、軍の近代化の必要性を認識していましたが、クズルバシュの部族長たちの抵抗に遭い、改革は遅々として進みませんでした。 クズルバシュは、自分たちの既得権益である騎兵中心の伝統的な軍事体制が揺らぐことを恐れ、火器部隊の導入に強く反対したのです。 しかし、タフマースプ1世は、クズルバシュの力を抑制するための布石を打ち始めます。彼は、カフカス地方への遠征で得たグルジア人やアルメニア人、チェルケス人などのキリスト教徒の捕虜をイスラム教に改宗させ、宮廷に仕えさせるようになりました。 これが、後にアッバース1世の改革で中心的な役割を果たすことになる「ゴラーム」部隊の起源となります。
タフマースプ1世の死後、サファヴィー朝は深刻な内乱期に突入します。クズルバシュの有力な部族長たちは、それぞれが王位継承争いに介入し、互いに覇権を争いました。シャーは彼らの傀儡と化し、国家は分裂の危機に瀕しました。 この混乱の中で、オスマン帝国は再びイランに侵攻し、アゼルバイジャンやグルジア、さらにはかつての首都タブリーズを含む広大な領土を奪い取りました。 東方からはウズベク族がホラーサーン地方に侵入し、国家は東西から挟撃されるという未曾有の国難に直面しました。
このような絶望的な状況の中で、1587年に16歳の若さで即位したのがアッバース1世でした。 彼は、幼少期からクズルバシュの部族間抗争の醜さや、彼らが国家にもたらす害悪を目の当たりにしてきました。 彼の母親はクズルバシュの指導者たちによって暗殺され、彼自身も権力闘争の渦中で命の危険に晒されながら育ちました。 アッバース1世は、この国難を乗り越え、強力な国家を再建するためには、クズルバシュの力を徹底的に排除し、シャーに絶対的な忠誠を誓う、近代的で中央集権的な軍隊を創設することが不可欠であると固く決意していました。彼の軍政改革は、単なる軍事組織の再編に留まらず、サファヴィー朝の国家構造そのものを変革しようとする、壮大な政治的プロジェクトの始まりだったのです。
改革の中核:新軍団の創設
アッバース1世の軍政改革の核心は、クズルバシュに代わる新たな軍事力の創出にありました。彼は、シャー個人への絶対的な忠誠心を持ち、王室の財源によって維持される常備軍を設立することを目指しました。この目的を達成するために、彼は三つの主要な部隊を創設しました。それは、ゴラーム(奴隷兵)、トファンチー(マスケット銃兵)、そしてトプーチー(砲兵)です。 これらの部隊は、それぞれ異なる出自と役割を持ちながらも、共通してシャーの権力を強化し、国家の中央集権化を推進する上で極めて重要な機能を果たしました。
ゴラーム:シャーに尽くす忠誠の剣
ゴラームは、アッバース1世の新しい軍隊の中核をなすエリート部隊でした。 この制度は、オスマン帝国のイェニチェリ制度に類似しており、カフカス地方(主にグルジア、アルメニア、チェルケス)から徴集されたキリスト教徒の若者たちをイスラム教に改宗させ、徹底的な軍事訓練と教育を施して育成したものです。 彼らは部族的な背景や血縁的なしがらみを持たず、その忠誠心は唯一、彼らを庇護し、高い地位と富を与えてくれるシャー個人に向けられました。 この点が、常に部族の利害を優先し、シャーの権威に反抗する傾向があったクズルバシュとの決定的な違いでした。
ゴラーム制度の基礎は、実はアッバース1世の祖父であるタフマースプ1世の時代に築かれていました。 タフマースプ1世は、カフカスへの遠征で得た捕虜を宮廷に仕えさせることで、クズルバシュへの対抗勢力を育成しようと試みていました。 しかし、この制度を本格的に国家の軍事力の根幹として制度化したのは、アッバース1世です。 彼は、ゴラームの数を大幅に増強し、タフマースプ時代には数百人程度だった規模を、最終的には4万人規模の軍団へと拡大しました。 このうち、1万5千人は高度に訓練された騎兵であり、残りは歩兵やその他の部隊を構成していました。
ゴラームは、最高の装備を与えられ、厳しい訓練を受けました。彼らは騎兵として伝統的な剣や槍も扱いましたが、同時にマスケット銃などの火器の扱いにも習熟していました。 これにより、彼らは機動力と火力を兼ね備えた、当時としては非常に近代的な兵士となりました。彼らは戦場ではしばしば中央に配置され、シャーの親衛隊として、また戦局を決定づける切り札として投入されました。
ゴラームの創設は、単に軍事的なバランスを変えるだけでなく、サファヴィー朝の社会構造にも大きな影響を与えました。アッバース1世は、有能なゴラームを軍の司令官だけでなく、州総督や政府の高官といった要職にも積極的に登用しました。 これにより、これまでクズルバシュの部族長たちが独占してきた政治的・経済的特権が、シャーに忠実な新しいエリート層へと移譲されていきました。1576年のタフマースプ1世の治世末期には、軍の司令官(アミール)114人のほとんどがクズルバシュでしたが、アッバース1世の治世末期の1629年には、司令官90人のうちクズルバシュはわずか25人にまで減少しました。 このようにして、アッバース1世はゴラームを新たな支配階級として確立し、クズルバシュの政治的影響力を根底から覆すことに成功したのです。
トファンチーとトプーチー:火力の近代化
アッバース1世は、ゴラーム部隊の創設と並行して、火器を専門に扱う部隊の育成にも力を注ぎました。チャルディラーンの戦いの苦い経験は、サファヴィー朝にとって火力の重要性を骨身にしみて理解させるものでした。 改革以前のサファヴィー軍は、火器の導入に消極的なクズルバシュの影響下で、火器の役割は限定的でした。 アッバース1世はこの状況を打破し、マスケット銃兵部隊「トファンチー」と砲兵部隊「トプーチー」を創設し、軍の近代化を加速させました。
トファンチーは、マスケット銃で武装した歩兵部隊であり、主にイラン人の農民や市民から徴募されました。 これは、軍事力を特定の部族に依存するのではなく、より広範な国民層に基盤を置こうとするアッバース1世の意図を反映しています。 トファンチーの創設は、サファヴィー軍の戦術に大きな変化をもたらしました。従来の騎兵による突撃一辺倒の戦術から、歩兵の銃撃によって敵の陣形を崩し、その上で騎兵が突撃するという、より柔軟で効果的な戦術の採用が可能になりました。トファンチー部隊の規模は、最終的に約1万2千人に達したとされています。
さらに、アッバース1世は、より大型で強力なマスケット銃を扱う精鋭部隊「ジャザーイェルチー」も創設しました。 この部隊が使用するマスケット銃は非常に重く、射撃の際には三脚を必要とするほどでしたが、その威力は絶大でした。 ジャザーイェルチーの兵士は、通常のサファヴィー軍の中から選抜されたエリートであり、近接戦闘では剣も用いるなど、高い戦闘能力を誇っていました。
一方、トプーチーは、大砲を運用する砲兵部隊です。 サファヴィー朝は、オスマン帝国やポルトガルから鹵獲した大砲や、ヨーロッパの技術を参考に独自に製造した大砲を装備していました。 アッバース1世の治世下で、トプーチー部隊は大幅に拡充され、約500門の大砲を運用する1万2千人規模の部隊にまで成長しました。 大砲は、攻城戦において城壁を破壊するために不可欠な兵器であり、また野戦においても敵の密集した部隊に対して大きな破壊力をもたらしました。トプーチー部隊の強化により、サファヴィー軍は、これまで苦手としていた要塞攻略能力を飛躍的に向上させ、オスマン帝国との戦争を有利に進めることができるようになりました。
これらの火器部隊は、ゴラーム部隊と同様に、王室の財庫から直接給与が支払われる常備軍として組織されました。 これにより、兵士たちはシャーへの忠誠心を高め、部族長の影響力から切り離されました。トファンチーとトプーチーの創設は、サファヴィー軍を伝統的な騎馬軍団から、歩兵、騎兵、砲兵が連携して戦う近代的な「火薬帝国」の軍隊へと変貌させる上で、決定的な役割を果たしたのです。
ヨーロッパからの支援と技術導入
アッバース1世の軍政改革は、彼の卓越した指導力と国内の資源だけで成し遂げられたわけではありません。ヨーロッパ、特にイングランドからの専門知識と技術の導入が、改革の成功に大きく貢献しました。 アッバース1世は、宿敵オスマン帝国に対抗するという共通の目的を持つヨーロッパ諸国との同盟を模索し、積極的に外交使節団を派遣しました。 この外交政策の一環として、彼の宮廷には多くのヨーロッパ人が訪れ、その中には軍事顧問として改革に深く関与した人物もいました。
その代表的な人物が、イングランド人のシャーリー兄弟、アンソニー・シャーリーとロバート・シャーリーです。 彼らは1598年にサファヴィー朝の宮廷に到着し、アッバース1世の歓待を受けました。 アッバース1世は彼らの軍事知識に感銘を受け、サファヴィー軍の再編成と近代化を彼らに託しました。 ロバート・シャーリーは特に、サファヴィー朝に長く留まり、軍の訓練や砲兵部隊の改革に尽力したとされています。 彼は、イングランド式の軍事教練を導入し、兵士たちの規律と戦闘技術の向上に貢献しました。
シャーリー兄弟の助言のもと、サファヴィー軍はゴラーム、トファンチー、トプーチーの三部隊からなる近代的な軍隊へと再編成されました。 ヨーロッパの軍事技術、特に大砲の鋳造技術や火薬の製造法なども、彼らを通じて伝えられたと考えられています。 実際に、サファヴィー朝が使用した大砲には、ポルトガルやオスマン帝国から鹵獲したものだけでなく、ヨーロッパのモデルを基に製造されたものも含まれていました。
アッバース1世は、シャーリー兄弟を単なる軍事顧問としてだけでなく、ヨーロッパ諸国への外交使節としても重用しました。 彼はロバート・シャーリーをヨーロッパに派遣し、神聖ローマ帝国皇帝やイングランド王、スペイン王などと対オスマン同盟を結ぶための交渉を行いました。 これらの外交努力が直接的な軍事同盟に結びつくことは多くありませんでしたが、ヨーロッパとの交流を通じて、最新の軍事情報や技術がサファヴィー朝にもたらされるという副次的な効果がありました。
また、アッバース1世は、イングランド東インド会社との関係も強化しました。 1622年には、イングランド艦隊の支援を受けて、ペルシャ湾の戦略的要衝であるホルムズ島をポルトガルから奪還することに成功しました。 この勝利は、サファヴィー朝がヨーロッパの海軍力と連携して軍事作戦を遂行できることを示し、その国際的な地位を大いに高めました。
このように、アッバース1世は、ヨーロッパの軍事専門家を積極的に登用し、彼らの知識と技術を活用することで、軍政改革を効率的に推進しました。 彼の開放的な対外政策と、実利を重んじる現実的な姿勢が、サファヴィー軍を西アジアで最も近代的な軍隊の一つへと変貌させる原動力となったのです。
改革の成果と影響
アッバース1世によって断行された一連の軍政改革は、サファヴィー朝に多岐にわたる深刻かつ長期的な影響を及ぼしました。その成果は単に軍事的な勝利に留まらず、政治、社会、経済の各側面にまで及び、サファヴィー朝の歴史の方向性を決定づけるものとなりました。
軍事的勝利と失地回復
軍政改革の最も直接的かつ目覚ましい成果は、軍事力の劇的な向上と、それによる対外戦争での勝利でした。 新しく編成されたゴラーム、トファンチー、トプーチーからなる近代的な常備軍は、かつてチャルディラーンで苦杯をなめさせられたオスマン帝国に対して、互角以上に戦う能力をサファヴィー朝にもたらしました。
アッバース1世は、即位当初、オスマン帝国との不利な講和条約を結ぶことを余儀なくされていましたが、軍の再編成が完了すると、満を持して反撃に転じました。 1603年、彼はオスマン帝国に対する大規模な攻撃を開始し、同年のうちにアゼルバイジャン、グルジア、そしてかつての首都タブリーズを奪還することに成功しました。 ヨーロッパでのハプスブルク家との戦争に気を取られていたオスマン帝国は、効果的な抵抗を示すことができませんでした。
改革されたサファヴィー軍の強さは、特に1605年のアゼルバイジャンにおけるオスマン軍の反撃を撃退した戦いや、1606年のシェマハとギャンジャの攻略などで遺憾なく発揮されました。 アッバース1世は、焦土作戦などの巧みな戦術と、近代化された軍隊の火力を組み合わせることで、数で勝るオスマン軍を何度も打ち破りました。 これらの勝利の結果、1612年にはサファヴィー朝に有利な内容の講和条約が結ばれ、タブリーズ奪還以降に獲得した領土の領有が認められました。
その後もサファヴィー朝とオスマン帝国の間では戦闘が続きましたが、アッバース1世は優位を保ち続けました。1616年から1618年にかけての戦争では、エレバンやアルダビールに侵攻してきたオスマン軍を撃退し、再び有利な条件で講和を結んでいます。 そして、彼の治世のハイライトの一つが、1623年から1624年にかけてのイラク遠征です。彼はオスマン帝国の内紛に乗じてイラクに侵攻し、バグダードを占領することに成功しました。 これにより、シーア派の聖地であるナジャフやカルバラーもサファヴィー朝の支配下に入り、サファヴィー朝の威信は最高潮に達しました。
東方では、長年の脅威であったウズベク族に対しても決定的な勝利を収めました。彼はウズベク族をホラーサーン地方から駆逐し、ヘラートを奪還して東方の国境を安定させました。 さらに、ペルシャ湾では、イングランド艦隊の助けを借りて、1622年にホルムズ島をポルトガルから奪還しました。
これらの輝かしい軍事的成功は、すべて軍政改革の賜物でした。アッバース1世は、改革によって創り上げた強力な軍事力を背景に、即位時に分裂と縮小の危機にあった帝国を再統一し、失われた領土をことごとく回復したのです。 彼の治世の終わりには、サファヴィー朝はイラン、イラク、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの一部を含む広大な領域を支配する、西アジア屈指の大国としての地位を確立しました。
中央集権体制の確立と王権の強化
軍政改革は、サファヴィー朝の政治構造に革命的な変化をもたらしました。その最大の目的であり、また最大の成果は、クズルバシュ部族連合の力を削ぎ、シャーを中心とする中央集権的な統治体制を確立することでした。
改革以前のサファヴィー朝は、実質的にはクズルバシュの有力部族長たちによる連合政権の様相を呈していました。 彼らは広大な領地を世襲的に支配し、独自の軍隊を保有し、しばしばシャーの命令にさえ公然と反抗しました。 アッバース1世は、この状況を打破するために、ゴラームというシャー個人にのみ忠誠を誓う新しいエリート層を創り出しました。
彼は、ゴラームを軍の司令官や州総督などの要職に任命することで、クズルバシュが独占していた権力の牙城を一つずつ切り崩していきました。 ゴラームは部族的な基盤を持たないため、その地位は完全にシャーの恩寵にかかっており、シャーに逆らうことは自らの破滅を意味しました。 また、アッバース1世は、クズルバシュの州総督を頻繁に転任させることで、彼らが任地のコミュニティと強い結びつきを持つことを妨げ、その勢力を弱体化させました。
さらに、新しい常備軍(ゴラーム、トファンチー、トプーチー)の維持費を王室の直轄領からの収入で賄う制度を確立したことも、中央集権化に大きく貢献しました。 これにより、シャーはクズルバシュ部族からの軍事・財政支援に依存する必要がなくなり、独立した権力基盤を確保することができました。彼は、クズルバシュが支配していた土地の一部を王室の直轄領に編入し、国家の財政基盤を強化しました。
これらの施策の結果、クズルバシュの力は劇的に低下しました。彼らは依然としてサファヴィー軍の一部を構成してはいましたが、もはや国家の政策を左右するほどの政治力を持つ存在ではなくなりました。 軍事指揮権と行政権はシャーの手に集中し、サファヴィー朝は名実ともに絶対君主制国家へと変貌を遂げたのです。この強固な中央集権体制の確立こそが、アッバース1世の治世における経済的繁栄や文化の開花を可能にした政治的基盤でした。 彼の軍政改革は、軍事組織の変革を通じて、国家の統治システムそのものを再構築する、壮大な国家改造事業だったと言えます。
改革の負の側面と帝国の衰退
アッバース1世の軍政改革は、サファヴィー朝に前例のない栄光と安定をもたらしましたが、その一方で、長期的には帝国の衰退を招くことになる負の遺産も残しました。彼が築き上げたシステムは、彼自身のような傑出した君主の存在を前提としており、その死後、システムに内在する脆弱性が徐々に露呈していくことになります。
改革の最大の功績であったクズルバシュの権力抑制は、皮肉にもサファヴィー朝の軍事的な基盤を脆弱化させる一因となりました。 クズルバシュは、確かに遠心的な勢力ではありましたが、同時にサファヴィー朝の建国を支え、長年にわたってその軍事力の根幹を担ってきた戦闘集団でもありました。 彼らは部族単位で強固な結束力を持ち、代々受け継がれてきた戦士としての誇りと伝統を持っていました。アッバース1世は彼らの政治力を削ぐことに成功しましたが、その過程で、彼らが持っていた軍事的な活力やダイナミズムをも損なってしまいました。
アッバース1世の後継者たちは、彼ほどのカリスマも統率力も持ち合わせていませんでした。 彼らは、改革によって確立されたゴラームを中心とする常備軍に安住し、かつて帝国を支えたクズルバシュの部族軍をますます軽んじるようになりました。 平和な時代が続くと、政府はクズルバシュに土地を与える代わりに、ゴラーム部隊を維持するための財源として、徴税請負制や官職売買といった不人気な政策を強化しました。 これにより、クズルバシュの不満はさらに高まり、国家への忠誠心は失われていきました。
また、アッバース1世が創設したゴラーム制度そのものも、問題を抱えていました。ゴラームはシャー個人への忠誠心によって成り立っていましたが、それは裏を返せば、無能なシャーの下では、彼らが国家全体の利益よりも自らの派閥の利益を優先する危険性をはらんでいることを意味していました。 アッバース1世の死後、ゴラームのエリートたちは宮廷内で権力闘争を繰り広げ、政治的な腐敗を招きました。
さらに、アッバース1世は、後継者問題において深刻な過ちを犯しました。彼は暗殺を極度に恐れるあまり、有能な息子たちを処刑したり、盲目にしたりして、後継者となりうる人物を自らの手で排除してしまいました。 その結果、彼の死後、王位を継いだのは、政治的な経験も能力も乏しい人物ばかりでした。 これらの無能な君主たちは、アッバース1世が築いた複雑な軍事・行政システムを維持することができず、帝国は徐々に内側から崩壊していきました。
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、サファヴィー朝の軍事力は著しく低下しました。アッバース1世の時代に頂点を極めた砲兵部隊は、彼の死後、事実上消滅してしまいました。 マスケット銃部隊も大きく拡大することはなく、18世紀半ばになっても、多くの兵士は依然として伝統的な武器を使用していました。 かつてオスマン帝国を震撼させた近代的な軍隊の面影は、もはやどこにもありませんでした。
中央政府の弱体化と軍事力の低下は、辺境地帯の離反を招きました。そして1722年、東方のアフガニスタンで反乱を起こしたギルザイ部族が、ミール・マフムード・ホータキーに率いられてイランに侵攻し、首都イスファハーンを包囲しました。 かつてあれほど強力であったサファヴィー軍は、この侵攻に対して有効な抵抗を示すことができず、首都は陥落し、最後の実権を持つシャーであったスルターン・フサインは退位を余儀なくされました。 これにより、サファヴィー朝は事実上崩壊し、イランは長い混乱の時代へと突入することになります。
アッバース1世の軍政改革は、短期的にはサファヴィー朝を絶頂期へと導きましたが、その成功の裏で、帝国の長期的な安定を支える軍事的・社会的な基盤を蝕んでいました。彼が残した中央集権システムは、彼の死後、硬直化し、外部からの脅威に対応する柔軟性を失っていきました。サファヴィー朝の栄光と悲劇は、偉大な改革が、その指導者の死後、いかにして負の遺産へと転化しうるかという歴史の教訓を示していると言えるでしょう。