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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

レパントの海戦とは わかりやすい世界史用語2333

著者名: ピアソラ
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レパントの海戦とは

レパントの海戦は、16世紀のヨーロッパと地中海の歴史における極めて重要な転換点として位置づけられています。1571年10月7日、ギリシャ西岸のパトラス湾口に位置するレパント沖で、キリスト教国の連合艦隊である神聖同盟と、オスマン帝国の艦隊が激突しました。この海戦は、単なる軍事的な衝突に留まらず、当時の宗教的、政治的、そして文化的な対立が集約された象徴的な出来事でした。その規模において、古代ローマのアクティウムの海戦以来、地中海で繰り広げられた最大級の海戦であり、オールを用いるガレー船が主役となった最後の歴史的な大規模海戦としても知られています。この戦いの結果は、西ヨーロッパにおけるオスマン帝国の脅威に対する認識を大きく変え、キリスト教世界の士気を大いに高めることになりました。
この海戦の背景には、数十年間にわたるオスマン帝国とヨーロッパ諸国との間の緊張関係がありました。15世紀のコンスタンティノープル陥落以降、オスマン帝国はバルカン半島から北アフリカに至る広大な領域を支配下に置き、地中海の制海権を掌握していました。特に、スレイマン1世の治世下でその勢力は頂点に達し、ヨーロッパのキリスト教国にとってオスマン帝国の存在は深刻な脅威と認識されていました。オスマン艦隊による地中海沿岸のキリスト教徒支配地域への襲撃や、バルバリア海賊による私掠行為は後を絶たず、通商路の安全は常に脅かされていました。1570年、オスマン帝国がヴェネツィア共和国の重要な拠点であったキプロス島に侵攻したことは、この長年の対立を決定的なものとし、教皇ピウス5世の呼びかけによる神聖同盟の結成へと繋がりました。
神聖同盟は、教皇領、スペイン、ヴェネツィア共和国を中核とし、ジェノヴァ共和国、サヴォイア公国、マルタ騎士団など、イタリアの諸国家が参加する形で組織されました。この同盟は、宗教的な情熱と政治的な利害が複雑に絡み合ったものであり、参加国間の思惑の違いから結成は難航しました。しかし、キリスト教世界を守るという共通の目標の下、最終的には前例のない規模の連合艦隊が編成されることになります。艦隊の総司令官には、スペイン王フェリペ2世の異母弟であるドン・フアン・デ・アウストリアが任命されました。若く、しかし野心と才能に溢れる彼のリーダーシップは、多様な背景を持つ連合艦隊を一つにまとめる上で重要な役割を果たしました。
一方のオスマン帝国艦隊は、長年にわたる地中海での勝利に裏打ちされた自信に満ちていました。総司令官アリ・パシャの指揮の下、経験豊富な船員と強力な兵士を擁し、その規模においても神聖同盟艦隊に匹敵する、あるいはそれを上回るものでした。オスマン帝国側は、キプロス島を征服した勢いを駆って、キリスト教連合艦隊を完全に打ち破り、地中海における覇権を不動のものにしようと目論んでいました。
レパントの海戦は、これら二つの巨大な勢力が、地中海の未来を決めるために雌雄を決した戦いでした。その戦闘は凄惨を極め、数時間のうちに数万人の命が失われたと言われています。火器の集中使用や、大型ガレアス船の投入といった新しい戦術が試され、海戦の歴史における技術的な転換点ともなりました。



海戦に至る歴史的背景

レパントの海戦を理解するためには、16世紀の地中海世界が置かれていた複雑な状況を把握することが不可欠です。この時代、地中海は単なる地理的な空間ではなく、キリスト教ヨーロッパとイスラム教のオスマン帝国という二つの巨大な文明圏が直接的に接触し、競合する最前線でした。両者の関係は、宗教的な対立、政治的な覇権争い、そして経済的な利権の確保という三つの主要な要素によって規定されていました。
15世紀半ば、1453年のコンスタンティノープル陥落は、キリスト教世界に大きな衝撃を与えました。東ローマ帝国の滅亡は、オスマン帝国がヨーロッパへの本格的な進出を開始する象徴的な出来事となり、バルカン半島におけるその支配を決定的なものにしました。続く数十年間で、オスマン帝国はセルビア、ボスニア、アルバニアを次々と征服し、その領土をアドリア海の沿岸まで拡大させました。これにより、ヴェネツィア共和国やハプスブルク家といったキリスト教勢力は、オスマン帝国と直接国境を接することになり、両者の間には絶え間ない緊張状態が生まれました。
16世紀に入り、スレイマン1世(在位1520年-1566年)がオスマン帝国のスルタンに即位すると、帝国の拡大政策はさらに加速します。彼の治世はオスマン帝国の黄金時代とされ、陸上では1521年にベオグラードを、1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国軍を壊滅させ、ハンガリーの大部分を支配下に置きました。1529年には、帝国の軍勢はハプスブルク家の本拠地であるウィーンを包囲するに至ります。この第一次ウィーン包囲は失敗に終わりましたが、オスマン帝国の脅威がヨーロッパの中心部にまで及んでいることをキリスト教世界に痛感させる出来事でした。
海上においても、オスマン帝国の勢力拡大は目覚ましいものがありました。スレイマン1世は海軍力の増強に力を注ぎ、著名な提督であるバルバロス・ハイレッディン・パシャを艦隊の総司令官に任命しました。ハイレッディンは、もともと北アフリカのアルジェを拠点とするバルバリア海賊の首領でしたが、オスマン帝国に帰順し、その強力な海軍力を帝国の拡大のために用いました。彼の指揮の下、オスマン艦隊は地中海全域で活動を活発化させ、スペインやイタリア諸国の沿岸を頻繁に襲撃しました。1538年のプレヴェザの海戦では、ハイレッディン率いるオスマン艦隊が、アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン、ヴェネツィア、教皇領の連合艦隊に対して決定的な勝利を収めました。この勝利により、オスマン帝国は地中海中央部から東部にかけての制海権をほぼ完全に掌握し、その後数十年にわたり地中海の覇者として君臨することになります。
オスマン帝国の海洋進出は、地中海交易に大きく依存していたヴェネツィア共和国にとって特に深刻な脅威でした。ヴェネツィアは、レヴァント(東地中海地域)との香辛料や絹などの奢侈品交易によって莫大な富を築いていましたが、オスマン帝国の拡大に伴い、エーゲ海や東地中海に点在していた多くの植民地や交易拠点を次々と失っていきました。クレタ島やキプロス島といった大規模な領土は依然として保持していましたが、これらの拠点も常にオスマン帝国の圧力を受け続けることになります。
一方、西地中海ではスペイン・ハプスブルク家がオスマン帝国の主要な対抗勢力でした。神聖ローマ皇帝カール5世、そしてその後継者であるスペイン王フェリペ2世は、カトリック教会の守護者として、また広大な領土を持つ君主として、オスマン帝国の進出を食い止めることを自らの責務と考えていました。スペインは、北アフリカ沿岸にプレシディオと呼ばれる要塞拠点をいくつか保持していましたが、これらの拠点は常にオスマン帝国やその同盟者であるバルバリア海賊の攻撃に晒されていました。1560年のジェルバ島の戦いでは、スペインを中心とするキリスト教連合艦隊がオスマン艦隊に大敗を喫し、多くの艦船と兵士を失いました。この敗北は、プレヴェザの海戦と並んで、キリスト教世界におけるオスマン海軍への恐怖を増幅させる結果となりました。
しかし、1565年のマルタ包囲戦は、この流れに変化をもたらす契機となります。スレイマン1世は、地中海中央部の戦略的要衝であるマルタ島を占領し、キリスト教徒の海運を完全に麻痺させることを目的に、大規模な遠征軍を派遣しました。マルタ島を守る聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)は、数で圧倒的に劣りながらも、数ヶ月にわたる英雄的な防衛戦を繰り広げました。最終的に、シチリアからのスペインの援軍が到着したこともあり、オスマン軍は多大な損害を出して撤退を余儀なくされました。マルタ包囲戦の失敗は、オスマン帝国軍が不敗ではないことを証明し、キリスト教世界に大きな安堵と自信をもたらしました。
スレイマン1世が1566年に死去し、セリム2世が後を継ぐと、オスマン帝国の宮廷内では新たな対外政策を巡る議論が起こりました。大宰相ソコルル・メフメト・パシャは、帝国の財政再建と内政の安定を重視し、大規模な対外戦争には慎重な姿勢を示していました。彼は、ヴェネツィアとの平和的な関係を維持し、交易を通じて実利を得ることを望んでいました。しかし、宮廷内には、ララ・ムスタファ・パシャやピヤレ・パシャといった、軍事行動によってさらなる栄光と領土を求める強硬派も存在しました。
この状況下で、次なる征服目標として浮上したのが、ヴェネツィア領キプロス島でした。キプロス島は、東地中海の戦略的な位置にあり、エジプトやシリアへの航路を塞ぐ要衝でした。また、豊かな農産物やワインを産出する経済的に価値の高い島でもありました。強硬派は、キプロス島がキリスト教徒の海賊の拠点となっており、メッカへ向かう巡礼者を脅かしていると主張し、その征服を正当化しました。セリム2世自身も、父スレイマン1世のような偉大な征服者としての名声を得たいという願望を抱いており、最終的にキプロス侵攻を決断します。
1570年、オスマン帝国はヴェネツィアに対してキプロス島の割譲を要求し、ヴェネツィアがこれを拒否すると、同年7月に大規模な軍隊をキプロスに上陸させました。このオスマン帝国の侵略行為は、ヨーロッパのキリスト教諸国、特に教皇ピウス5世に強い危機感を抱かせました。ピウス5世は、ドミニコ会出身の厳格な改革派教皇であり、異端や異教徒との戦いに対して極めて情熱的な人物でした。彼は、オスマン帝国の脅威を単なる政治的・軍事的な問題としてではなく、キリスト教信仰そのものに対する脅威と捉え、ヨーロッパのキリスト教君主たちに団結してこれに対抗するよう強く呼びかけました。
ピウス5世の呼びかけは、直ちに広範な支持を得たわけではありませんでした。当時のヨーロッパは、宗教改革の余波でカトリックとプロテスタントの対立が激化しており、また各国はそれぞれ独自の政治的・経済的利害を抱えていました。フランスは、ハプスブルク家との対抗上、長年にわたりオスマン帝国と友好関係を維持しており、同盟への参加には消極的でした。神聖ローマ帝国(オーストリア・ハプスブルク家)は、ハンガリー方面でオスマン帝国と直接対峙しており、地中海での新たな戦争に戦力を割く余裕はありませんでした。
そのため、同盟の実現は、教皇領、スペイン、そして侵略の直接的な被害者であるヴェネツィアの三者の協力にかかっていました。しかし、この三者の間にも深刻な利害の対立が存在しました。ヴェネツィアの最大の関心事は、キプロスを救出し、東地中海における交易路を回復することでした。一方、スペイン王フェリペ2世は、キプロスよりも、自国の沿岸を脅かす北アフリカのバルバリア海賊の拠点を叩くことを優先したいと考えていました。また、スペインはヴェネツィアがオスマン帝国と単独で和平を結ぶのではないかと疑っており、ヴェネツィアはスペインがこの機に乗じて地中海における影響力を拡大しようとしているのではないかと警戒していました。
これらの複雑な交渉と相互不信を乗り越え、最終的に神聖同盟が正式に結成されたのは、1571年5月25日のことでした。この条約により、参加国は毎年一定数の艦船、兵士、資金を提供し、オスマン帝国に対して共同で攻勢作戦を行うことを約束しました。同盟の目標は、キプロスの解放だけでなく、北アフリカのチュニスやアルジェといった海賊拠点の奪回も含まれており、スペインとヴェネツィア双方の要求を反映した形となりました。
神聖同盟の結成交渉が進められている間にも、キプロスにおける戦況はヴェネツィアにとって絶望的なものとなっていました。1570年9月には、首都であるニコシアが9週間の包囲の末に陥落し、住民の多くが虐殺されるか奴隷にされました。残る最後の拠点であるファマグスタは、マルカントニオ・ブラガディンの指揮の下、頑強な抵抗を続けていましたが、兵糧も弾薬も尽きかけていました。神聖同盟艦隊の結成は急がれましたが、各国の艦隊が異なる港から出発し、シチリア島のメッシーナに集結するまでには夏が過ぎようとしていました。
1571年8月、ファマグスタはついにオスマン軍に降伏しました。降伏の際の協定では、守備隊と住民の安全な退去が保証されていましたが、オスマン側の司令官ララ・ムスタファ・パシャはこの協定を反故にし、司令官ブラガディンを残酷な方法で処刑し、他の将兵や住民も殺害または奴隷にしました。このファマグスタでの残虐行為のニュースは、メッシーナに集結していた神聖同盟艦隊に届くと、兵士たちの間にオスマン帝国に対する強い復讐心を燃え上がらせました。キプロスを救うという当初の目標は失われましたが、今や同盟の目的は、オスマン艦隊を捕捉し、これを徹底的に破壊することへと変わっていました。こうして、宗教的情熱、政治的野心、そして復讐心が入り混じった複雑な動機に突き動かされ、キリスト教連合艦隊は、歴史的な決戦の地、レパントへと向かうことになったのです。

両軍の戦力と編成

レパントの海戦における両軍の戦力は、16世紀の技術、兵站、そして国家の動員能力の集大成であり、その比較は海戦の帰趨を理解する上で極めて重要です。神聖同盟とオスマン帝国は、それぞれが当時利用可能な最大級の艦隊を編成し、地中海の覇権を賭けて対峙しました。両軍の艦船の種類、兵員の構成、武装、そして指揮系統には、それぞれ特徴があり、それらが複雑に絡み合って戦闘の結果に影響を与えました。
神聖同盟艦隊は、複数の国家からの派遣部隊で構成された連合軍でした。その中核を成したのは、スペイン、ヴェネツィア共和国、そして教皇領の艦隊です。これに加えて、ジェノヴァ共和国、サヴォイア公国、マルタ騎士団、トスカーナ大公国など、イタリアの小規模な国家も艦船を提供しました。最終的にシチリア島のメッシーナに集結した艦隊の総数は、ガレー船約200隻、ガレアス船6隻、その他輸送船などを含めると、合計で300隻近くに達したとされています。
艦船の種類において、神聖同盟が有していた特筆すべき戦力がガレアス船です。ガレアス船は、ヴェネツィアで開発された新型の大型艦船で、従来のガレー船と帆船の長所を組み合わせたものでした。全長はガレー船よりも長く、幅も広く、より多くの大砲を搭載することができました。通常のガレー船が船首に数門の大砲しか持たなかったのに対し、ガレアス船は船首楼や船尾楼だけでなく、船体の側面にも多数の重砲を装備していました。これにより、ガレアス船は前方だけでなく、横方向にも強力な火力を投射することができ、さながら海に浮かぶ要塞のような役割を果たすことが期待されていました。また、ガレー船と同様に多数の漕ぎ手を乗せており、風がない状況でも自力で航行することが可能でした。レパントの海戦に投入された6隻のガレアス船はすべてヴェネツィアのものであり、神聖同盟艦隊の切り札と見なされていました。
主力であるガレー船は、この時代の地中海における標準的な軍艦でした。細長い船体に多数の漕ぎ座が設けられ、漕ぎ手の力で推進されるため、風に左右されずに機動することができました。戦闘時には、船首に装備された衝角で敵船に体当たりしたり、船首の大砲で砲撃した後、敵船に乗り込んで白兵戦で決着をつけるのが主な戦術でした。神聖同盟のガレー船は、スペイン、ヴェネツィア、教皇領など、それぞれの国で建造されたため、細かな仕様には違いがありましたが、概ね同等の性能を有していました。
兵員の構成も、神聖同盟艦隊の重要な特徴でした。漕ぎ手(ガリオッティ)は、自由民の志願兵、給料で雇われた漕ぎ手、そして罪人や捕虜からなる漕ぎ刑囚が混在していました。特にヴェネツィアのガレー船では、自由民の漕ぎ手が多く、彼らは戦闘時には武器を取って戦うことも期待されていました。これに対し、スペインのガレー船では漕ぎ刑囚の割合が高かったと言われています。戦闘員としては、約28,000人から30,000人の兵士が乗船していました。これらの兵士は、火縄銃(アーキバス)やマスケット銃で武装した歩兵が中心で、特にスペインのテルシオに所属する兵士たちは、ヨーロッパで最も経験豊富で規律の取れた部隊として知られていました。彼らの持つ優れた射撃能力と白兵戦能力は、神聖同盟の大きな強みでした。
艦隊の総司令官には、スペイン王フェリペ2世の若き異母弟、ドン・フアン・デ・アウストリアが就任しました。当時24歳であった彼は、まだ大規模な海戦を指揮した経験はありませんでしたが、そのカリスマ性とリーダーシップは、多国籍軍である連合艦隊をまとめ上げる上で不可欠でした。彼の下には、各国の経験豊富な提督たちが補佐役として配置されました。ヴェネツィア艦隊は70代の老提督セバスティアーノ・ヴェニエル、教皇艦隊はマルカントニオ・コロンナ、ジェノヴァからの派遣部隊(実質的にはスペインの傭兵)はアンドレア・ドーリアの甥にあたるジョヴァンニ・アンドレア・ドーリアがそれぞれ指揮を執りました。これらの提督たちの間には、出身国の利害や個人的なライバル意識からくる対立もあり、ドン・フアンは彼らの意見を調整し、艦隊全体の意思決定を行うという難しい役割を担っていました。
一方、オスマン帝国艦隊も、神聖同盟に匹敵する、あるいはそれを上回る規模の戦力を有していました。その総数は、ガレー船や小型のガリオット船を含めて約250隻から300隻に達したと推定されています。オスマン艦隊の主力もまたガレー船であり、その基本的な構造や性能は神聖同盟側のものと大きく変わるものではありませんでした。しかし、オスマン帝国は帝国内の広大な森林資源と、イスタンブールをはじめとする各地の造船所における効率的な建造システムにより、短期間で多数の艦船を建造する能力を持っていました。
オスマン艦隊の兵員の構成は、神聖同盟とは異なる特徴を持っていました。漕ぎ手の大部分は、戦闘で捕らえられたキリスト教徒の捕虜や奴隷であり、彼らは過酷な条件下で強制的に働かされていました。この点は、戦闘中に彼らが反乱を起こす可能性を内包しており、オスマン側のアキレス腱となりました。戦闘員としては、イェニチェリと呼ばれるスルタン直属の精鋭歩兵部隊が中核を担っていました。イェニチェリは、幼少期から厳しい軍事訓練を受けた常備軍であり、その規律と戦闘能力はヨーロッパでも高く評価されていました。しかし、レパントの海戦に参加したイェニチェリの多くは火縄銃ではなく弓で武装しており、これは火器の性能において神聖同盟に劣る一因となりました。オスマン側も火縄銃を装備した兵士を乗せていましたが、その数と質において、スペイン兵を中心とする神聖同盟の銃兵には及ばなかったと考えられています。総兵力は約25,000人の兵士と、数万人の漕ぎ手から構成されていました。
オスマン艦隊の総司令官は、ミュエッジンザーデ・アリ・パシャでした。彼はスルタン・セリム2世のお気に入りの臣下でしたが、海軍での経験は乏しく、その指揮能力は未知数でした。彼を補佐する提督として、エジプト総督のメフメト・シロッコや、アルジェの太守(ベイラーベイ)であり、バルバリア海賊として名を馳せたウルグ・アリ(ウルッチ・アリ、またはキリッチ・アリ・パシャとも呼ばれる)といった経験豊富な海の猛者たちがいました。特にウルグ・アリは、プレヴェザの海戦やジェルバ島の戦いにも参加した歴戦の提督であり、その戦術眼は神聖同盟側からも警戒されていました。
両軍の武装を比較すると、神聖同盟側にいくつかの優位点が見られます。第一に、大砲の数と質です。神聖同盟の艦船、特にヴェネツィアのガレー船とガレアス船は、オスマン側の艦船よりも多くの、そしておそらくはより高品質な大砲を搭載していました。全体として、神聖同盟側は約1,800門の大砲を装備していたのに対し、オスマン側は約750門であったと推定されています。この火力の差は、遠距離での砲撃戦において神聖同盟に有利に働く可能性がありました。
第二に、兵士の個人装備です。前述の通り、神聖同盟側の兵士は火縄銃やマスケット銃といった火器で広く武装していました。これらの銃は、オスマン兵が多用した合成弓に比べて、威力、射程、そして鎧を貫通する能力において優れていました。弓は連射速度では勝っていましたが、密集した船上での戦闘においては、一発の威力が大きい火器の方が効果的でした。また、神聖同盟の兵士の多くは、胸当てや兜といった防具を着用しており、矢や剣による攻撃に対してより高い防御力を持っていました。
艦隊の編成において、ドン・フアンはメッシーナでの軍事会議を経て、艦隊を四つの主要な分隊に分けることを決定しました。中央隊はドン・フアン自身が率いる62隻のガレー船で構成され、彼の旗艦「レアル」がその中心にありました。左翼隊はヴェネツィア提督アゴスティーノ・バルバリーゴが指揮する53隻のガレー船、右翼隊はジェノヴァ提督ジョヴァンニ・アンドレア・ドーリアが指揮する53隻のガレー船が担当しました。そして、予備隊として、スペインのサンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサンが率いる30隻のガレー船が中央隊の後方に配置されました。この予備隊の存在は、戦況に応じて柔軟に支援を送ることを可能にする重要な戦術的判断でした。さらに、最も特徴的な配置として、6隻のガレアス船のうち4隻が、中央隊と両翼隊の前面約1マイル(約1.6キロメートル)の位置に、2隻ずつ分かれて配置されました。これは、敵艦隊の突撃をその強力な火力で破砕し、陣形を混乱させることを狙ったものでした。
オスマン艦隊も同様に、中央、右翼、左翼の三つの主要な分隊に分かれていました。中央隊は総司令官アリ・パシャが自ら率い、彼の旗艦「スルタナ」がその中心にありました。右翼(キリスト教連合軍から見て左翼)はウルグ・アリが、左翼(キリスト教連合軍から見て右翼)はメフメト・シロッコがそれぞれ指揮を執りました。オスマン側も小規模な予備隊を後方に配置していましたが、その規模は神聖同盟のサンタ・クルス侯爵の予備隊ほど大きくはありませんでした。オスマン艦隊は、神聖同盟のガレアス船のような特別な艦船は保有しておらず、伝統的なガレー船を中心とした横隊陣形で決戦に臨みました。
このように、レパントの海戦に臨んだ両軍は、艦船の数や兵員の総数においてはほぼ互角でしたが、その質と構成には明確な違いがありました。神聖同盟は、ガレアス船による火力支援、優れた火器で武装した兵士、そして強力な予備隊という戦術的な利点を有していました。一方、オスマン艦隊は、長年の勝利によって培われた自信と、ウルグ・アリのような経験豊富な提督の存在、そして兵士たちの士気の高さという強みを持っていました。これらの要素が、実際の戦闘においてどのように作用したのかが、次の焦点となります。

海戦の経過

1571年10月7日の夜明け、ギリシャ西岸のパトラス湾、レパント(現在のナフパクトス)の港から出撃したオスマン帝国艦隊と、イオニア海のケファロニア島から南下してきた神聖同盟艦隊は、湾の入り口付近で互いの姿を視認しました。両艦隊は、それぞれ広大な横隊を組み、決戦に向けて最後の準備を整えました。この日の天候は穏やかで、風はほとんどなく、ガレー船による海戦には理想的な条件でした。当初はオスマン側に有利な風が吹いていましたが、戦闘が始まる直前に風向きが変わり、神聖同盟側に有利になったと伝えられています。これは、キリスト教側にとっては神の加護のしるしと受け取られました。
神聖同盟艦隊の総司令官ドン・フアン・デ・アウストリアは、戦闘開始に先立ち、小型のフリゲート艦に乗って艦隊の戦列を巡りました。彼は、各国の兵士たちにカトリックの信仰のために戦うことの意義を説き、十字架を高く掲げて彼らを鼓舞しました。彼の若々しい情熱とカリスマ的な演説は、多国籍軍の兵士たちの士気を大いに高め、彼らを一つの目的の下に結束させました。また、ドン・フアンは、艦隊内のすべてのガレー船にいるキリスト教徒の漕ぎ刑囚を解放し、彼らに武器を与えて戦うことを命じました。この措置は、彼らの忠誠心を確保し、貴重な戦力を増強する効果がありました。
戦闘は正午少し前に始まりました。神聖同盟の戦術計画通り、戦列の前面に配置されていた4隻のガレアス船が、最初にオスマン艦隊に対して砲火を開きました。オスマン艦隊は、この巨大な船から放たれる予期せぬ方向からの猛烈な砲撃に不意を突かれました。ガレアス船の側面に取り付けられた多数の大砲は、密集して進撃してくるオスマンのガレー船の列に壊滅的な打撃を与え、複数の船を撃沈または大破させました。この先制攻撃により、オスマン艦隊の前衛は混乱に陥り、その陣形は大きく乱れました。しかし、オスマン艦隊の主力は、この障害を乗り越えて前進を続け、両軍の主力が直接激突する全面的な戦闘へと突入しました。
海戦は、中央、北翼(神聖同盟の左翼)、南翼(神聖同盟の右翼)の三つの主要な戦域で同時に進行しました。
北翼では、ヴェネツィア提督アゴスティーノ・バルバリーゴが率いる神聖同盟左翼と、エジプト総督メフメト・シロッコが率いるオスマン右翼が対峙しました。シロッコは、経験豊富な提督であり、神聖同盟艦隊の戦列と海岸線の間のわずかな隙間を突いて、背後に回り込もうとする巧みな機動を見せました。この動きにより、バルバリーゴの艦隊は一時的に包囲される危険に陥りました。両翼の艦船は激しい白兵戦を繰り広げ、ヴェネツィアの旗艦はオスマンのガレー船数隻に包囲されました。この激戦の最中、提督バルバリーゴは、兜の面頬を上げて指揮を執っていたところ、目に矢を受けて致命傷を負いました。しかし、ヴェネツィア兵たちは提督の負傷にも屈せず、頑強に抵抗を続けました。やがて、後方から駆けつけたヴェネツィアのガレー船の支援もあり、神聖同盟左翼はオスマン側の包囲を打ち破り、反撃に転じました。最終的に、シロッコ自身も負傷して捕らえられ、オスマン右翼は壊滅状態となりました。
中央戦域では、海戦全体の帰趨を決する最も熾烈な戦闘が繰り広げられました。ドン・フアン・デ・アウストリアの旗艦「レアル」と、オスマン帝国艦隊総司令官アリ・パシャの旗艦「スルタナ」が、互いを目標として真正面から激突しました。「レアル」は衝角で「スルタナ」の船首を粉砕し、両船は鉤綱で繋がれて固定されました。これを合図に、両旗艦の甲板は、血で血を洗う白兵戦の舞台となりました。スペインのテルシオ兵と、オスマンのイェニチェリという、両軍の最も精鋭な兵士たちが、互いの船に乗り込み、剣、斧、そして火縄銃を手に死闘を繰り広げました。戦闘は一進一退を続け、「レアル」の甲板は二度にわたってオスマン兵に制圧されかけましたが、その都度、スペイン兵は必死の反撃で敵を押し返しました。
この危機的な状況を救ったのが、予備隊を率いるサンタ・クルス侯爵アルバロ・デ・バサンと、教皇艦隊司令官マルカントニオ・コロンナでした。彼らは、ドン・フアンの旗艦が危機に陥っているのを見て、直ちに麾下のガレー船を率いて救援に駆けつけました。コロンナの旗艦は「レアル」の側面に、サンタ・クルス侯爵の艦船は「スルタナ」の背後に回り込み、オスマンの旗艦を集中攻撃しました。三隻の神聖同盟の艦船から精鋭部隊が次々と「スルタナ」に乗り込み、数的優位を確立しました。激しい戦闘の末、ついに総司令官アリ・パシャは戦死し、彼の首は槍の先に掲げられました。そして、オスマン帝国の象徴である緑色の巨大な軍旗が降ろされ、代わりにキリスト教の十字架の旗が掲げられました。総司令官の死と旗艦の陥落は、オスマン中央艦隊の兵士たちの士気を完全に打ち砕きました。指揮系統を失った彼らは次々と降伏するか、あるいは逃走を図りましたが、その多くは神聖同盟のガレー船によって捕獲または撃沈されました。
一方、南翼では、神聖同盟右翼を率いるジェノヴァ提督ジョヴァンニ・アンドレア・ドーリアと、オスマン左翼を率いるアルジェ太守ウルグ・アリとの間で、複雑な駆け引きが展開されていました。ウルグ・アリは、当代随一の海将と名高い人物であり、ドーリアの艦隊が戦列を南に広げ、中央隊との間に隙間を生じさせたのを見逃しませんでした。彼は、この隙を突いて神聖同盟の中央隊の側背を攻撃しようと、大胆な機動を開始しました。ドーリアがなぜこのような動きをしたのかについては、歴史家の間でも議論が分かれています。ウルグ・アリの機転に引きずられたという説、意図的に彼を誘い出そうとしたという説、あるいは単に慎重になりすぎて敵との直接対決を避けようとしたという説などがあります。
理由はどうであれ、ウルグ・アリの艦隊の一部は、神聖同盟の中央隊の後方に回り込むことに成功しました。彼は、マルタ騎士団のガレー船を含む数隻のキリスト教艦船を奇襲し、これらを拿捕しました。マルタ騎士団の旗艦は制圧され、その軍旗はウルグ・アリによって奪われました。この瞬間は、オスマン側にとってこの海戦で唯一の戦術的勝利と言えるものでした。しかし、この成功も長くは続きませんでした。中央戦域での勝利を確実にしたサンタ・クルス侯爵の予備隊が、今度は南翼の危機を救うために転進してきたのです。強力な予備隊の出現を見て、ウルグ・アリは自らが包囲される危険を察知しました。彼は、これ以上の戦闘は無益と判断し、拿捕したマルタ騎士団の軍旗を曳きながら、麾下の約30隻から40隻の艦船を率いて戦場から巧みに離脱しました。彼が率いた部隊は、この日、唯一組織的に戦場を離脱できた唯一のオスマン部隊となりました。
午後4時頃には、海戦の趨勢は完全に決しました。オスマン艦隊の中央と右翼は完全に崩壊し、数百隻のガレー船が神聖同盟によって拿捕されるか、撃沈・焼失しました。南翼でウルグ・アリが率いた部隊のみが戦場からの脱出に成功しましたが、艦隊全体としては壊滅的な敗北を喫したことは明らかでした。海には、破壊された船の残骸、折れたマストやオール、そして数えきれないほどの死者や負傷者が浮かび、凄惨な光景が広がっていました。
この日の戦闘で、神聖同盟側は約7,500人から8,000人の兵士と船員が戦死し、約15,000人が負傷したと推定されています。艦船の損失は比較的軽微で、沈没したガレー船は十数隻程度でした。しかし、多くの船が激しい戦闘によって損傷を受けていました。
一方、オスマン側の損害は甚大でした。戦死者・溺死者は20,000人から30,000人に上ると考えられています。拿捕されたガレー船は約170隻から190隻に及び、さらに数十隻が撃沈されました。捕虜となったオスマン兵も数千人に達しました。そして、この勝利がもたらした最も大きな人道的成果の一つは、オスマンのガレー船で漕ぎ手として強制的に働かされていた約12,000人から15,000人のキリスト教徒奴隷が解放されたことでした。彼らの解放の知らせは、神聖同盟の兵士たちの間で大きな歓声をもって迎えられました。
レパントの海戦は、その規模と激しさにおいて、古代ローマ時代以来、地中海で繰り広げられた最大の海戦でした。わずか数時間の戦闘で、両軍合わせて数万人の命が失われ、地中海の覇権を巡る長年の争いに一つの大きな区切りがつけられたのです。神聖同盟の勝利は、ガレアス船による効果的な火力支援、火器で武装した兵士の優位性、そしてサンタ・クルス侯爵が率いる予備隊の時宜を得た投入といった、戦術的な要因の組み合わせによってもたらされたものでした。この日、パトラス湾に沈んだ夕日は、オスマン帝国の海軍力が不敗であるという神話の終わりを告げていました。

海戦がもたらした影響と歴史的意義

レパントの海戦における神聖同盟の圧倒的な勝利は、ヨーロッパのキリスト教世界に計り知れないほどの衝撃と歓喜をもたらしました。何十年にもわたって、地中海沿岸の人々を恐怖に陥れてきたオスマン海軍が、決定的に打ち破られたというニュースは、瞬く間にヨーロッパ全土に広まりました。この勝利は、単なる軍事的な成功以上の、深い象徴的な意味を持っていました。それは、キリスト教世界が団結すれば、無敵とさえ思われたオスマン帝国の脅威に打ち勝つことができるという証明であり、マルタ包囲戦の防衛成功に続く、大きな自信の源泉となりました。
勝利の知らせがローマに届くと、教皇ピウス5世は、この勝利を聖母マリアの取りなしによる奇跡であるとし、10月7日を「勝利の聖母の祝日」として定めました。この祝日は後に「ロザリオの聖母の祝日」と改称され、今日でもカトリック教会で祝われています。ヨーロッパ各地の都市では、祝祭、パレード、感謝のミサが盛大に行われ、勝利を称える詩、絵画、音楽が数多く制作されました。ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットといったルネサンスの巨匠たちが、この海戦を主題とする壮大な絵画を描き、その栄光を後世に伝えました。これらの芸術作品は、レパントの海戦を、善が悪に、キリスト教がイスラムに打ち勝ったという、宗教的・文明的な闘争のクライマックスとして描き出し、そのイメージを人々の心に深く刻み込む役割を果たしました。
軍事的な観点から見ると、レパントの海戦は、海戦の歴史における一つの転換点として位置づけられます。まず、この海戦は、オールを主動力とするガレー船が大規模に用いられた最後の主要な海戦となりました。戦闘において、ヴェネツィアのガレアス船がその強力な火力でオスマン艦隊の陣形を崩壊させたことは、大砲の重要性を明確に示しました。これ以降、海軍の戦術と思想は、衝角による体当たりや移乗攻撃(白兵戦)を主体とする伝統的なガレー船の戦い方から、次第に遠距離からの砲撃戦を重視する方向へとシフトしていきます。17世紀以降、地中海においても、大西洋で主流となっていた帆走の戦列艦が徐々にガレー船に取って代わるようになり、海軍技術の新たな時代が幕を開けました。
また、この海戦は、火器で武装した歩兵の有効性を証明しました。神聖同盟側のスペイン兵らが用いた火縄銃は、オスマン側の弓矢に対して射程と威力で優越しており、白兵戦に移行する前の段階で敵に大きな損害を与えることができました。この経験は、陸上だけでなく海上においても、火器の配備が戦闘の帰趨を左右する重要な要素であることを示唆するものでした。
しかし、レパントの海戦がもたらした戦略的な影響は、その劇的な勝利のイメージほど決定的ではありませんでした。神聖同盟は、この歴史的な勝利を戦略的な成果に結びつけることができませんでした。海戦後、季節は冬に近づいており、艦隊はさらなる作戦行動をとることなく、それぞれの港に引き揚げていきました。同盟内では、次の目標を巡って再び意見の対立が生じました。ヴェネツィアは失われたキプロス島を奪還するための遠征を望みましたが、スペインのフェリペ2世は依然として北アフリカのチュニス攻略を優先しました。
この間、オスマン帝国はその驚異的な国力と回復力を見せつけました。大宰相ソコルル・メフメト・パシャの指揮の下、イスタンブールの造船所は冬の間にフル稼働し、わずか半年余りでレパントで失われたのとほぼ同数の新しいガレー船を建造しました。ソコルルはヴェネツィアの使節に対して、「お前たちが我々の艦隊を打ち破ったことは、我々の顎髭を剃ったようなものだ。剃られた髭は前よりも強く生えてくる。だが、我々がお前たちからキプロスを奪ったことは、お前たちの腕を切り落としたようなものだ。切り落とされた腕は二度と生えてはこない」と語ったと伝えられています。この言葉は、オスマン帝国が海戦の敗北を一時的な後退としか見なしていなかったことを示しています。
実際に、1572年の夏には、ウルグ・アリ(この功績によりキリッチ・アリ・パシャと改名され、艦隊総司令官に就任)が再建されたオスマン艦隊を率いて再び東地中海に出撃しました。神聖同盟艦隊もこれに対峙しましたが、両者の間で決定的な戦闘は起こりませんでした。神聖同盟内の不和は解消されず、ヴェネツィアは単独でオスマン帝国と戦い続けることの困難さを痛感していました。その結果、1573年3月、ヴェネツィアはオスマン帝国と単独で講和条約を締結しました。この条約で、ヴェネツィアはキプロス島の喪失を正式に認め、さらに多額の賠償金を支払うことに同意しました。レパントで血を流して勝利を得たにもかかわらず、その最大の当事者であったヴェネツィアが、結局は敗北に近い形で戦争を終結させたという事実は、この海戦の戦略的限界を象徴しています。
スペインはその後、1573年にドン・フアン率いる艦隊でチュニスを占領しますが、翌1574年にはキリッチ・アリ・パシャ率いるオスマン軍がこれを奪回し、スペインの北アフリカにおける影響力は大きく後退しました。この後、スペインはネーデルラントの反乱という、より喫緊の問題に直面することになり、地中海への関心を低下させていきます。オスマン帝国もまた、東方でサファヴィー朝ペルシアとの戦争が再燃したため、西地中海への大規模な遠征を行う余裕を失いました。こうして、1570年代の終わりまでには、スペインとオスマン帝国の間には、暗黙の休戦状態が成立しました。
では、レパントの海戦の真の歴史的意義は何だったのでしょうか。それは、オスマン帝国の西地中海へのこれ以上の拡大を阻止し、地中海における勢力均衡を確立した点にあります。レパント以前、オスマン帝国は地中海で攻勢を続け、キリスト教世界は常に守勢に立たされていました。しかし、レパントでの大敗北により、オスマン帝国はその海軍力の限界を露呈し、地中海全域を支配するという野望を事実上断念せざるを得なくなりました。これ以降、オスマン帝国の海軍の活動範囲は、主に東地中海と黒海に限定されるようになります。西地中海は、スペインとイタリア諸国の勢力圏として安定し、キリスト教徒の通商路の安全は以前よりも確保されるようになりました。バルバリア海賊による私掠行為は依然として続きましたが、国家規模での大規模な海洋侵攻の脅威は大幅に減少しました。
長期的に見れば、レパントの海戦は、地中海世界の中心が、東から西へ、そしてやがては大西洋へと移っていく大きな歴史的潮流の中の一つの出来事と見なすことができます。ヴェネツィアはキプロスを失い、レヴァント交易の衰退は決定的となりました。スペインは、この勝利によって一時的にその威信を高めましたが、その関心と富の源泉は、すでに新大陸アメリカへと向かっていました。レパントの海戦は、ガレー船と地中海が世界の中心であった時代が終わりを告げ、大航海時代と大西洋経済の時代が本格的に到来することを告げる出来事だったのかもしれません。
レパントの海戦は、1571年10月7日に起こった、16世紀の地中海史における画期的な出来事です。この海戦は、教皇ピウス5世の提唱によって結成された神聖同盟の連合艦隊と、当時地中海の覇権を握っていたオスマン帝国の艦隊との間で繰り広げられた、歴史上最大級の海戦の一つでした。その結果は、単に軍事的な勝敗を超えて、当時の政治、宗教、文化に深く、そして永続的な影響を及ぼしました。
この海戦の根底には、数十年にわたるキリスト教ヨーロッパとオスマン帝国との間の地政学的な緊張がありました。15世紀のコンスタンティノープル陥落以来、東ヨーロッパと地中海で拡大を続けてきたオスマン帝国は、スレイマン1世の治世にその絶頂期を迎え、ヨーロッパ諸国にとって深刻な脅威となっていました。1570年のオスマン帝国によるヴェネツィア領キプロスへの侵攻は、この対立を決定的なものとし、スペイン、ヴェネツィア、教皇領を中心とする神聖同盟の結成を促しました。この同盟は、参加国間の利害の不一致という困難を乗り越え、キリスト教世界を防衛するという共通の目的の下に、前例のない規模の艦隊を編成しました。
戦闘は、両軍合わせて500隻近いガレー船と数万人の兵士が投入される壮絶なものとなりました。ドン・フアン・デ・アウストリアの若々しいリーダーシップの下、神聖同盟艦隊はいくつかの重要な優位性を活かして勝利を収めました。ヴェネツィアが開発した新型艦船ガレアス船は、その圧倒的な火力でオスマン艦隊の陣形を戦闘開始直後に混乱させ、戦いの主導権を握る上で決定的な役割を果たしました。また、火縄銃で武装したスペインのテルシオ兵をはじめとする神聖同盟の兵士たちは、弓を主武装とするオスマンのイェニチェリ兵に対して、装備の面で優位に立っていました。さらに、サンタ・クルス侯爵が率いる予備隊の存在と、その戦況に応じた的確な投入は、中央での旗艦同士の激戦や、南翼での危機的状況を打開する上で極めて重要な戦術的要素となりました。
この勝利がもたらした最も直接的な結果は、オスマン帝国海軍の不敗神話の崩壊でした。プレヴェザの海戦やジェルバ島の戦いでの勝利以来、地中海で無敵を誇ってきたオスマン艦隊が、一日の戦闘でほぼ壊滅したという事実は、ヨーロッパ全土に大きな安堵と自信をもたらしました。この勝利は、宗教的な熱狂とともに受け止められ、数多くの芸術作品や文学の題材となり、キリスト教世界の文化的アイデンティティを強化する上で大きな役割を果たしました。
しかし、その戦略的な成果は、勝利の華々しさに比べて限定的でした。神聖同盟は、内紛のためにこの軍事的成功を政治的な利益に転換することができず、ヴェネツィアは翌々年にキプロスの喪失を認める屈辱的な単独講和を結びました。オスマン帝国は、その驚異的な国力をもって短期間で艦隊を再建し、地中海東部における支配を維持しました。
それにもかかわらず、レパントの海戦の長期的な歴史的意義は極めて大きいものがあります。この海戦は、オスマン帝国の西方への海洋進出に終止符を打ち、地中海におけるキリスト教勢力とイスラム勢力の間の勢力均衡を事実上確定させました。これ以降、オスマン帝国の関心は内政や東方へと移り、西地中海への大規模な攻勢が行われることはなくなりました。これにより、イタリア半島やスペイン沿岸への脅威は減少し、西地中海の航行の安全性が高まりました。
また、レパントの海戦は、海戦術の歴史における転換点でもありました。ガレー船が主役となった最後の大会戦であり、大砲の火力が勝敗を決する上で重要な役割を果たしたことは、来るべき帆走戦列艦の時代を予感させるものでした。
レパントの海戦は、オスマン帝国の拡大を食い止め、ヨーロッパの自己認識を新たにし、地中海世界の力学を恒久的に変えた、世界史における重要な分岐点でした。それは、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げる、壮大で悲劇的な、そして決定的な瞬間だったのです。
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・レパントの海戦とは わかりやすい世界史用語2333

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『世界史B 用語集』 山川出版社

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