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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

アンカラの戦いとは わかりやすい世界史用語2317

著者名: ピアソラ
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アンカラの戦いとは

アンカラの戦いは、1402年7月20日(一部の資料では7月28日)に、現在の中華人民共和国の首都アンカラ近郊のチュブク平原で、オスマン帝国のスルタン、バヤズィト1世とティムール朝の創始者であるティムールの間で繰り広げられた、世界史における極めて重要な軍事衝突です。 この戦いは、ティムール軍の圧倒的な勝利に終わり、オスマン帝国はスルタンが捕虜となるという未曾有の事態に直面し、その後11年間にわたる内乱、すなわちオスマンの空位時代へと突入しました。 この敗北は、当時破竹の勢いであったオスマン帝国の拡大を一時的に頓挫させ、帝国の構造そのものを揺るがすほどの壊滅的な打撃を与えました。
戦いに至る背景:二大勢力の衝突

14世紀末、西アジアと中央アジアの政治地図は、二人の卓越した軍事指導者の台頭によって大きく塗り替えられようとしていました。一人は、1389年にオスマン帝国のスルタンに即位したバヤズィト1世です。 彼は「稲妻」の異名を持つほど迅速かつ強力な軍事行動で知られ、バルカン半島とアナトリアの両方でオスマン帝国の領土を急速に拡大していました。 1396年のニコポリスの戦いでは、ヨーロッパのキリスト教諸国からなる十字軍を壊滅させ、その武威をヨーロッパ全土に轟かせました。 彼の治世下で、オスマン帝国はアナトリアの多くのトルコ系君侯国(ベイリク)を次々と併合し、地域の覇権を確立しつつありました。 しかし、この東方への拡大政策が、もう一人の強大な支配者、ティムールとの衝突を不可避なものとしました。
ティムールは、中央アジアのトランスオクシアナ出身のテュルク・モンゴル系の指導者であり、チンギス・カンの後継者を自任し、かつてのモンゴル帝国のような広大な帝国の再興を目指していました。 1370年頃に権力を掌握して以来、彼はペルシア、イラク、南ロシア、そしてインド北部へと遠征を繰り返し、その過程で数々の都市を征服し、大規模な破壊と虐殺を行いました。 彼の軍隊は、その残忍さと卓越した戦術で恐れられていました。
両者の対立が表面化したのは、アナトリア東部の領有権を巡る問題でした。バヤズィト1世によって領土を追われたアナトリアの君侯たちがティムールに庇護を求め、ティムールもまた、オスマン帝国の東方への膨張を自身の覇権に対する脅威と見なしていました。 ティムールに忠誠を誓う君侯に対し、バヤズィト1世が貢納を要求したことが、ティムールにとっては個人的な侮辱であり、開戦の直接的な引き金となったとされています。 1400年から1401年にかけて、ティムールはオスマン帝国領のシヴァスを攻略し、さらにマムルーク朝が支配するシリアの一部を制圧するなど、着実にアナトリアへの圧力を強めていきました。 当時、バヤズィト1世はビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲しており、キリスト教世界への攻勢を強めている最中でした。 しかし、東方からのティムールの脅威が増大するにつれて、彼はこの包囲を解き、アナトoliaへと軍を転進させざるを得なくなりました。
両軍の兵力と構成

アンカラの戦いに集結した両軍の兵力については、歴史的資料によって数字にばらつきがありますが、現代の歴史家はおおよその規模を推定しています。ティムール軍は約14万人で、その大半が騎兵であり、インド遠征で獲得した32頭の戦象も含まれていました。 彼の軍隊は、チャガタイ・ウルスの中核部隊に加え、ペルシア、インド、その他征服地から集められた多民族で構成されており、特に機動力に優れた騎馬弓兵がその強みでした。 ティムール軍は、軽装の騎馬弓兵による嫌がらせや消耗戦と、重装騎兵による突撃を組み合わせた戦術を得意としていました。
一方、オスマン軍の兵力は約8万5千人と推定されています。 軍の中心を成していたのは、スルタン直属の精鋭歩兵部隊であるイェニチェリでした。 その他、アナトリアのイスラム教徒の封臣や、バルカン半島のキリスト教徒の vassal(従属国)からの派遣部隊も含まれていました。 特に、セルビアの君主ステファン・ラザレヴィチが率いる重装騎兵部隊は、その勇猛さで知られていました。 しかし、オスマン軍には弱点も存在しました。軍の一部には、近年オスマン帝国に征服されたばかりのタタール人部隊が含まれており、彼らの忠誠心は盤石ではありませんでした。 また、アナトリアのトルコ系君侯国から徴兵された兵士たちも、かつての領主がティムール側に付いている状況で、戦意を維持することが困難でした。
戦いの経過:ティムールの巧妙な戦略

1402年の夏、ティムール軍がアナトリアに侵攻したという報を受け、バヤズィト1世はコンスタンティノープル包囲を中断し、灼熱の中、軍を東へと進軍させました。 バヤズィトは、ティムールが広大な平野での騎兵戦を好むと考え、アンカラ周辺での決戦を予測していました。 しかし、ティムールはバヤズィトの意表を突く巧妙な機動を見せます。彼はオスマン軍の進路を密かに南西に迂回し、オスマン軍の後方に回り込みました。 そして、オスマン軍が以前に野営していた場所を占拠し、彼らが残していったテントや水源を利用して休息を取りました。
ティムールはアンカラを包囲し、バヤズィト軍をおびき寄せました。 報せを聞いたバヤズィトは、長距離の強行軍で疲弊し、喉の渇きに苦しむ兵士たちを引き連れて、アンカラの救援のために引き返さざるを得ませんでした。 ティムールは、戦場となるチュブク平原で万全の態勢を整えていました。彼は防御的な陣形をとり、両翼に騎兵部隊を、中央には戦象を配置しました。 さらに、ティムールは戦術的に極めて重要な手を打ちます。彼は、戦場における唯一の水源であったチュブク川の流れを堰き止め、オスマン軍が水を得られないようにしたのです。 これにより、喉の渇きと疲労で極限状態にあったオスマン軍は、水を確保するために、ティムール軍が強固に守る中央部へ攻撃を仕掛ける以外に選択肢がなくなりました。
戦端はオスマン軍の総攻撃によって開かれました。 オスマン軍の右翼を担っていたステファン・ラザレヴィチ率いるセルビア重装騎兵は、その重厚な黒いプレートアーマーでティムール軍の矢を防ぎながら勇猛に戦い、ティムール軍の戦列を何度も突破する活躍を見せました。 その戦いぶりはティムール自身にも感銘を与え、「ライオンのように戦う」と評されたと伝えられています。 ステファンは、戦況の不利を悟り、バヤズィトに共に戦場から脱出するよう進言しましたが、バヤズィトはこれを拒否しました。
しかし、セルビア軍の奮戦も虚しく、戦いの趨勢はティムール側に傾いていきました。ティムール軍の騎馬弓兵が放つ無数の矢は、オスマン軍に多大な損害を与えました。 そして、オスマン軍にとって決定的な打撃となったのが、味方の裏切りでした。 オスマン軍の左翼を構成していたアナトリアのトルコ系兵士や、タタール人部隊が、次々とティムール側に寝返ったのです。 これは、彼らの元々の君主がティムール軍に参加していたことや、バヤズィト1世の中央集権的な政策に対する不満が背景にあったと考えられます。
味方の離反によって両翼が崩壊し、オスマン軍は組織的な抵抗が不可能な状態に陥りました。 バヤズィトは、残ったイェニチェリやセルビア兵と共に丘の上に陣取り、最後まで抵抗を続けましたが、もはや敗北は決定的でした。 最終的に、バヤズィトは数百騎の騎兵と共に戦場からの脱出を図りますが、ティムール軍の追撃を受け、山中で包囲されて捕虜となりました。 スルタンが敵の捕虜となるという、オスマン帝国の歴史上、前代未聞の屈辱的な出来事でした。
戦いの結果と影響

アンカラの戦いにおけるオスマン軍の敗北は、壊滅的なものでした。数万人の兵士が戦死または負傷し、スルタンであるバヤズィト1世自身が捕らえられました。 バヤズィトは捕虜となった後、ティムールによって黄金の籠に入れられて見世物にされたという逸話も残っていますが、その真偽については歴史家の間でも意見が分かれています。 確かなことは、彼が捕虜生活の中で1403年3月に亡くなったということです。
この戦いの勝利により、ティムールはアナトリアにおける覇権を確立しました。彼は戦後、エーゲ海沿岸まで進軍し、キリスト教騎士団の拠点であったスミルナ(現在のイズミル)を攻略しました。 また、ティムールはバヤズィトによって併合されていたアナトリアのトルコ系君侯国を復活させ、彼らを自身の封臣とすることで、オスマン帝国の勢力を削ぎ落としました。 しかし、ティムールの関心はアナトリアの恒久的な支配にはなく、彼の主な目的は中国遠征の前に西方の脅威を取り除くことでした。 そのため、アナトリアを略奪し、権威を示した後、1404年には首都サマルカンドへと帰還しました。 そして、翌1405年にティムールが中国遠征の途上で病死すると、彼が一代で築き上げた広大なティムール帝国は急速に衰退していくことになります。
一方、オスマン帝国にとって、アンカラの戦いの敗北は帝国の存亡を揺るがす大惨事でした。 スルタンの不在は深刻な権力の空白を生み、バヤズィトの息子たち、スレイマン、イーサ、メフメト、ムーサ(そして後にはムスタファも)の間で、帝国の支配権を巡る血で血を洗う内戦が勃発しました。 この約11年間(1402年〜1413年)にわたる内乱期は「オスマンの空位時代」として知られています。
オスマンの空位時代:兄弟間の争い

ティムールは、バヤズィトの息子たちを互いに対立させることでオスマン帝国を弱体化させることを狙い、彼らに帝国の異なる地域を統治する権限を与えました。 長男のスレイマン・チェレビは、アンカラの戦場から逃れ、帝国のヨーロッパ側領土(ルメリア)を確保し、エディルネを首都としました。 彼はビザンツ帝国や他のキリスト教勢力と同盟を結び、その地位を固めようとしました。 一方、アナトリアでは、イーサ・チェレビがブルサで、メフメト・チェレビがアマスィヤでそれぞれ独立した勢力を築きました。 ティムールに捕らえられていたムーサ・チェレビも後に解放され、内戦に加わります。
兄弟間の争いは、複雑な同盟関係と裏切りを伴いながら、アナトリアとバルカン半島全域で繰り広げられました。 まず、メフメトがイーサを破り、ブルサを占領します。 その後、スレイマンがアナトリアに侵攻しますが、ヨーロッパ側でムーサが反乱を起こしたため、撤退を余儀なくされます。 ムーサはスレイマンを破って殺害し、一時的にルメリアの支配者となりますが、その過激な政策は支持を失いました。 最終的に、メフメトはビザンツ帝国やセルビアなどの支援を得て、1413年にチャムルリの戦いでムーサを破り、彼を処刑しました。
この勝利により、メフメト1世として即位したメフメト・チェレビは、11年にわたる内乱に終止符を打ち、オスマン帝国を再統一することに成功しました。 アンカラでの壊滅的な敗北からわずか10年余りで帝国を立て直したことは、オスマン国家の強靭な基盤を示しています。メフメト1世とその息子であるムラト2世の治世下で、帝国は失われた領土を徐々に回復し、再び拡大の道を歩み始めました。
歴史的意義

アンカラの戦いは、いくつかの点で重要な歴史的意義を持っています。第一に、オスマン帝国の拡大を約半世紀遅らせたことです。 もしこの戦いがなければ、バヤズィト1世によるコンスタンティノープル攻略は、史実(1453年)よりも早く実現していた可能性が高いです。この敗北は、ビザンツ帝国に一時的な延命の機会を与えました。
第二に、オスマン帝国の国家構造の脆弱性と強靭性の両方を露呈させた点です。アナトリアのトルコ系君侯国の離反は、急速な拡大の裏にあった統合の不完全さを示しました。 しかし、その後の空位時代を乗り越え、帝国が再統一されたことは、イェニチェリ制度や官僚機構といった中央集権的な国家システムが、スルタン個人の不在という危機を乗り越えるだけの強さを持っていたことを証明しています。
第三に、ティムール帝国の限界を示した点です。ティムールは一代で広大な帝国を築き上げ、軍事的には無敗を誇りましたが、彼の帝国は征服と略奪に重きを置いており、恒久的な統治機構を確立するには至りませんでした。 そのため、彼の死後、帝国は急速に分裂・衰退しました。アンカラでの勝利はティムールの武威を最高潮に高めましたが、彼の帝国が永続する基盤とはなり得なかったのです。
結論として、アンカラの戦いは、15世紀初頭における二つの強大なテュルク系帝国の覇権をかけた激突であり、その結果はオスマン帝国を崩壊寸前にまで追い込みました。しかし、オスマン帝国はこの危機を乗り越えて復活し、その後、世界史上でも有数の大帝国へと発展していくことになります。この戦いは、オスマン帝国の歴史における大きな転換点であると同時に、ティムールという征服者の圧倒的な軍事力と、その帝国の儚さを示す象徴的な出来事として、歴史に深く刻まれています。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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