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18_80 世界市場の形成とアジア諸国 / オスマン帝国

スレイマン=モスクとは わかりやすい世界史用語2334

著者名: ピアソラ
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スレイマン=モスクの建設

スレイマン=モスクは、オスマン帝国の第10代スルタンであるスレイマン1世の命により、帝国の首席建築家ミマール・シナンによって設計されたイスタンブールを代表する建造物です。 このモスクは単なる礼拝の場としてだけでなく、オスマン帝国の国力とスレイマン1世の権威を世界に示す象徴として、イスタンブールの七つの丘の一つである第三の丘に建設されました。 その建設は1550年に始まり、1557年に落成式が行われましたが、付属の複合施設(キュッリエ)全体が完成したのは1559年のことでした。



建設の背景と目的

スレイマン1世の治世(1520年~1566年)は、オスマン帝国が軍事的、経済的、そして文化的に最盛期を迎えた時代でした。 彼の父セリム1世が1517年にマムルーク朝を征服したことで、オスマン帝国はイスラム世界の大部分を支配下に置き、スレイマン1世はイスラムの指導者としての自身の役割を強く意識するようになりました。 彼はイスタンブールをイスラム文明の中心地に変えることを目指し、橋、宮殿、そして様々な慈善施設や社会施設を含む一連の壮大な建設計画を推進しました。
スレイマン=モスクの建設は、こうした背景の中で、スルタンの個人的な信仰心と帝国の威信を示すという二重の目的を持っていました。 スレイマン1世は、かつてビザンツ帝国が築いたキリスト教建築の最高傑作であるハギア・ソフィアに匹敵し、さらにはそれを超える壮麗なモスクを建設することを望んでいました。 彼は自身を「第二のソロモン」と見なすことがあり、エルサレムとイスタンブールでの建設プロジェクトには、その思想が反映されていると考えられています。 実際に、モスクの背後に建てられたスレイマン1世の霊廟は、エルサレムのソロモン神殿跡地に建てられた岩のドームを参照していると指摘されています。
また、このモスクの建設には、人口が増加し続ける首都イスタンブールにおいて、すべての信者を収容できる礼拝スペースが不足していたという実用的な必要性もありました。 スレイマン1世は、自身の治世の栄光をイスラムの栄光と結びつけ、後世に不朽の記念碑を残すことを意図していたのです。

建築家ミマール・シナンの役割

スレイマン=モスクの設計と建設を任されたのは、オスマン帝国史上最も偉大な建築家と称されるミマール・シナンです。 1490年頃にアナトリアのキリスト教徒の家庭に生まれたシナンは、デヴシルメ制度によって徴用され、イスラム教に改宗した後、イェニチェリ(常備歩兵軍団)の一員として軍務に就きました。 彼は軍事遠征の中で工兵として頭角を現し、要塞や橋、水道橋などの建設に携わることで、建築家および技術者としての卓越した技術を磨きました。
スレイマン1世は、皇太子メフメトのためにシナンが建設したシェフザーデ・モスク(1548年完成)に深く感銘を受け、自身の名を冠したモスクの設計をシナンに命じました。 シナンは当時50代後半から60代前半であり、建築家として円熟期に達していました。 彼はスレイマン=モスクを自身の「職人時代」の代表作と位置づけており、その後の最高傑作とされるセリミエ・モスク(エディルネ、1575年完成)へと至る重要な段階の作品と見なされています。
シナンは、単に壮大な建築物を造るだけでなく、構造、機能、そして美しさを完璧に調和させることを目指しました。 彼はビザンツ建築、特にハギア・ソフィアの構造を深く研究し、その影響を受けながらも、イスラムの礼拝様式に適した、広大で統一感のある内部空間を創造するという独自の建築様式を確立しました。 彼は空気の流れを計算して煤を一点に集める換気システムを設計したり、音響効果をテストするために漆喰の種類を研究したりするなど、細部に至るまで革新的な工夫を凝らしました。 シナンの天才的な手腕なくして、スレイマン=モスクの建設は成し得なかったと言えるでしょう。 彼はこのプロジェクトに深く関わり、その証として、自身の質素な霊廟を複合施設のすぐ外側の北東の角に建てています。

建設地の選定と準備

スレイマン=モスクの建設地として選ばれたのは、イスタンブールの第三の丘の頂上でした。 この場所は、かつてオスマン帝国の最初の宮殿である旧宮殿(エスキ・サライ)があった場所で、建設開始時にはまだ使用されていたため、取り壊す必要がありました。 この丘は金角湾を見下ろす市内で最も高い場所の一つであり、ガラタ地区やボスポラス海峡からもその壮大な姿を望むことができます。 この立地は、モスクを都市のランドマークとして際立たせ、オスマン帝国の権威を内外に示すための、建築的、政治的、そして思想的な意図を持った戦略的な選択でした。
建設地の地形は傾斜が多く、平坦ではなかったため、大規模な造成工事が必要でした。 シナンは、巨大な基礎構造物を構築して平らな地盤を作り出し、その上に建物を配置しました。 この基礎構造の内部にはヴォールト(アーチ型天井)の部屋が設けられ、様々な用途に利用されたと考えられています。
建設に必要な資材は、オスマン帝国の広大な領土の各地から集められました。 白い大理石はマルマラ島から、緑色の大理石はサウジアラビアから運ばれました。 また、イスタンブール市内や、テッサロニキ、イズニク、バールベックなどの古代遺跡から、斑岩や花崗岩の巨大な柱を含む様々な石材が再利用(スポリア)されました。 当時の観察者であるペトルス・ギリウスは、モスクの内部に使われる4本の巨大な斑岩の柱の1本がサイズに合わせて切り出される様子や、ヒッポドローム(古代ローマの競技場)から大理石の柱が運び出されるのを目撃したと記録しています。 このように帝国全土から最高級の資材を調達し、動員する能力は、オスマン帝国の強大な国力と兵站能力を物語っています。

建設工事の組織と労働力

スレイマン=モスクの建設は、オスマン帝国の国力を結集した一大国家プロジェクトでした。 建設には、7年以上の歳月と莫大な費用が投じられました。 記録によると、建設現場での総労働日数は260万日を超えたとされています。
労働力は多様な人々で構成されていました。 労働日数の約55%は自由身分の労働者、約40%はデヴシルメ制度で徴用された少年たち、そして5%以上が国が所有するガレー船の奴隷(ミリ・フォルサ)によって担われました。 また、労働者の約半数がキリスト教徒、半数がイスラム教徒であり、当時のオスマン帝国の宗教的な多様性を反映しています。 石工、煉瓦職人、鉄工、鉛鋳造工、ガラス職人、画家(ナッカシュ)など、資格を持つ熟練した職人の多くは、帝国各地からイスタンブールに派遣されました。 首席建築家シナンからの要請があれば、地方の長官やカーディー(裁判官)は、管轄内の腕の良い自由労働者をイスタンブールに送ることが求められました。 このように、建設は帝国全体の「総動員」ともいえる体制で、規律正しく進められました。 建設に携わった労働者の総数は、熟練工だけでも3,500人以上にのぼると推定されています。
建設の進捗と費用は、詳細な会計帳簿によって厳格に管理されていました。 最終的な建設費用は、マドラサ(神学校)の一部やスレイマン1世の妻ヒュッレム・スルタンの霊廟の建設費を含め、1559年に記録されています。 このような大規模なプロジェクトを効率的に管理・運営する官僚機構の存在も、オスマン帝国の成熟度を示しています。

モスク本体の建築構造と設計

スレイマン=モスクは、オスマン建築の古典期を代表する傑作であり、その設計は構造的な合理性と審美的な完成度を両立させています。 モスクの礼拝ホールは、長さ59メートル、幅58メートルのほぼ正方形の空間です。
ドームと支持構造

モスクの最も印象的な特徴は、その巨大な中央ドームです。 ドームの高さは地上から53メートル、直径は26.5メートルから27.5メートルで、高さのちょうど半分が直径という調和のとれた比率になっています。 この中央ドームは、4本の巨大な柱(「象の足」と呼ばれる)によって支えられています。 これらの柱は、イスラム教の最初の4人のカリフを象徴していると言われています。
ドームの設計は、ハギア・ソフィアの構造に倣っており、中央ドームはキブラ(メッカの方向)側と入口側の両方で半ドームによって支えられています。 これにより、内部空間は柱による遮りが最小限に抑えられ、広大で一体感のある空間が生まれています。 さらに、側廊はそれぞれ大きさの異なる5つの小ドームで覆われています。 中央ドームと小ドームの間には、多数の窓が設けられた大きなティンパヌム(アーチ下の壁面)があり、内部に豊富な光を取り入れています。 ドームの基部にある32個の窓も、ドームに軽快な印象を与え、内部を明るく照らす効果があります。
シナンは、ドーム、半ドーム、そして外部のバットレス(控え壁)を巧みに組み合わせることで、見る者の視線を建物の頂点にある中央ドームへと自然に導く外観を創り出しました。 この構造的な明快さは、建物の内部構成が外部からも容易に読み取れるという特徴を生み出しています。

内部空間と配置

礼拝ホールの内部は、意図的に抑制された装飾が施されており、広大で静謐な空間が強調されています。 モスクのワクフ(宗教寄進財団)の文書には、イスラムの預言者ムハンマドの伝統に従い、金や宝石による派手な装飾は避けたと明記されています。 スレイマン1世とシナンは、書道こそが最も重要な装飾形式であると考えていた可能性があります。
礼拝ホールのキブラ壁の中央には、メッカの方向を示すミフラーブがあります。 ミフラーブと、その隣に設置されたミンバル(説教壇)は、精巧に彫刻された白い大理石で作られています。 ミフラーブの両側には、青地に白の文字で書かれたコーランの章句が施されたイズニック・タイルがはめ込まれています。
内部空間の特筆すべき点として、音響効果の高さが挙げられます。 シナンは、ドーム内部で音が均一に響き渡るように、様々な工夫を凝らしたと言われています。また、換気システムも巧みに設計されており、数多くのオイルランプから出る煤が、中央入口の上の特定の部屋に集められるようになっています。 集められた煤は、インクの製造に再利用されました。
礼拝ホールの両側面には、2層構造のギャラリーが設けられています。 これらのギャラリーは、巨大な大理石の柱で支えられたティンパヌムの背後に位置しています。 また、シナンは、他の集中式プランの建物では見過ごされがちだった建物の四隅の空間を有効活用し、側面の入口を設けることで、空間に変化と機能性を与えました。

中庭とミナレット

イスタンブールの他の帝国のモスクと同様に、スレイマン=モスクの入口にも、中央に泉盤(シャーディルヴァン)を備えた前庭があります。 中庭は長方形で、大理石の板で舗装され、三方を低いドーム型のアーケード(ポルティコ)で囲まれています。 このアーケードを支える柱は、斑岩、花崗岩、大理石など様々な種類のものが使われています。
モスクには4本のミナレット(尖塔)があります。 これは、スレイマン1世がコンスタンティノープル征服後の4番目のスルタンであることを象徴しています。 礼拝ホールに隣接する2本のミナレットは高さが76メートルでそれぞれ3つのバルコニーを持ち、中庭の入口側にある2本のミナレットは高さ56メートルでそれぞれ2つのバルコニーを持っています。 バルコニーの総数が10であることは、スレイマン1世がオスマン帝国の第10代スルタンであることを示していると言われています。 スルタンによって寄進されたモスクのみが4本のミナレットを持つことを許されており、これはスレイマン=モスクの格式の高さを物語っています。 ミナレットは、ムカルナス(鍾乳石飾り)の彫刻が施されたコンソールで支えられたバルコニーと、幾何学模様が彫られた手すりを持ち、建物全体のシンメトリーを強調する役割を果たしています。

装飾と書道

スレイマン=モスクの内部装飾は、他の帝国のモスクに比べて抑制的ですが、その質は極めて高く、洗練された美しさを持っています。 装飾の主役は、建築そのものの構造美と、随所に施された見事な書道(カリグラフィー)です。
書道(カリグラフィー)

モスクを飾る碑文のほとんどは、アフメト・カラヒサーリーの弟子であり、当時の著名な書家であったハサン・チェレビーによって制作されました。 書体は、記念碑的な建築物に適した力強いスルス体が主に使用されています。
特に注目すべきは、モスクの北側入口の上部に掲げられたアラビア語の創設碑文です。 3枚の大理石パネルに刻まれたこの碑文は、スルタンの名前と称号、彼の系譜、そしてオスマン王朝の永続を祈る言葉で構成されています。 このテキストは、当時のシェイヒュルイスラーム(イスラム法の最高権威)であったエブッスード・エフェンディによって作成されました。
内部では、中央ドームの頂点や、ミフラーブ周辺のタイルパネル、アーチの壁面などに書道装飾が見られます。 ミフラーブの両側にあるタイルは、ロイヤルブルーの地に白い文字でコーランの一節が描かれており、ターコイズブルーの葉模様の縁取りが施されています。 また、アーチ型の壁には、ウスマーン・イブン・アッファーン(第3代正統カリフ)の名を記した金色のカリグラフィーが緑色の円形メダリオンの中に描かれているなど、様々なカリグラフィーが空間を荘厳に飾っています。

タイルとステンドグラス

装飾は控えめですが、キブラ壁にはめ込まれたイズニック・タイルは、その質の高さで知られています。 牡丹や菊、チューリップといった東アジアや中央アジア由来の花のモチーフが描かれたタイルは、楽園を象徴しています。 イズニック・タイルは、16世紀に最盛期を迎えたオスマン帝国を代表する芸術品であり、その鮮やかな色彩は、抑制された内装の中で効果的なアクセントとなっています。
キブラ壁には、オリジナルのステンドグラスも残されています。 これらのステンドグラスは、書家イブラヒム・サルホシュの作と伝えられており、色とりどりの光を内部空間にもたらします。

その他の装飾

木製の扉や窓のシャッターには、クルミ、黒檀、オリーブなどの木材が使われ、象牙や真珠母貝による精巧な象嵌細工が施されています。 また、アーチの迫石(せりいし)は、大理石を模して赤と白に塗り分けられています。
創建当初の塗装装飾の多くは、後の火災や地震による損傷、そして修復作業によって失われてしまいました。 現在の中央ドームの塗装は、19世紀にフォッサーティ兄弟によって行われた修復時のもので、オスマン・バロック様式を模したデザインとなっています。 20世紀の修復作業中に、創建当初の塗装の痕跡が発見され、シナンが当初は青色を試み、その後赤を基調とする色彩に変更した可能性が示唆されています。

キュッリエ(複合施設)

スレイマン=モスクは、単体の礼拝堂ではなく、キュッリエと呼ばれる広大な複合施設の中核をなす建物として設計されました。 キュッリエは、宗教的および文化的なニーズに応えるための様々な付属施設を備えた、都市の中の小都市ともいえる存在でした。 スレイマン・キュッリエは、イスタンブールにある帝国のモスク複合施設の中でも最大級の規模を誇ります。
複合施設には、以下の建物が含まれていました。
マドラサ(神学校): イスラム法の四大学派に捧げられた4つのスンニ派マドラサ、ハディース(預言者の言行録)研究のための高等学院(ダールルハディース)、そしてクルアーン学校が含まれていました。 これらは、オスマン帝国の最高学府としての役割を担っていました。
病院(ダリュッシファ): 医療学校の教員や学生が働く病院で、医療サービスを提供していました。
公共厨房(イマレット): 学生や複合施設の宿泊客に食事を提供し、周辺の貧しい人々に食料を配給するスープキッチンでした。
宿泊施設(タブハーネ): 旅人や訪問者のためのゲストハウスです。
隊商宿(キャラバンサライ): 隊商のための宿泊施設です。
ハンマーム(公衆浴場): 市民に公衆浴場サービスを提供すると同時に、複合施設の運営資金を生み出す収益施設でもありました。
小学校(スィブヤン・メクテビ): 子供たちのための初等教育機関です。
市場(チャルシュ): 複合施設の西側と東側の壁の下には、店舗が並ぶ市場が設けられていました。
これらの施設は、モスクと霊廟を囲む大きな庭園の周囲に、直角に交わる3本の通りに沿って整然と配置されていました。 このような幾何学的な都市計画は、15世紀後半から16世紀にかけてのオスマン帝国の複合施設の特徴です。 これらの建物の多くは、中庭を囲むようにドーム屋根の部屋が配置された、古典的なオスマン様式の構造をしています。

霊廟

モスクのキブラ壁の背後にある墓地には、スレイマン1世と、彼の最愛の妻ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)の霊廟が、それぞれ独立した八角形の建物として建てられています。 ヒュッレム・スルタンの霊廟は彼女が亡くなった1558年に、スレイマン1世の霊廟は彼の死後、息子のセリム2世の命により1566年から1568年にかけて建設されました。 スルタンの霊廟の場所は、モスクの計画段階からあらかじめ定められていたと考えられています。 これらの霊廟は、イズニック・タイルや塗装装飾で豪華に飾られており、複合施設の中でも特に装飾が豊かな建物です。

歴史の中での変遷と修復

スレイマン=モスクは、その長い歴史の中で、数々の災害に見舞われ、そのたびに修復が繰り返されてきました。
1660年の大火: 建設から約100年後、モスクはイスタンブールを襲った大火で深刻な被害を受けました。 その後、スルタン・メフメト4世によって修復されました。
1766年の地震: 地震により、ドームの一部が崩壊しました。 この時の修復作業は、シナンによる創建当初の装飾の残存部分にさらなる損傷を与えてしまいました。
19世紀の修復: 1858年から1859年にかけて、スイス出身のフォッサーティ兄弟によって大規模な内外の修復が行われました。 この時に、中庭に時計係の部屋(ムヴァッキトハーネ)が新設されるなど、新たな要素も加えられました。 現在見られる中央ドームの装飾も、この時のものです。
第一次世界大戦中の火災: 戦時中、モスクの中庭は武器庫として使用されていました。 その弾薬の一部が発火し、再び火災が発生、モスクは大きな被害を受けました。 この火災からの完全な修復が完了したのは、1956年のことでした。
20世紀以降の修復: 1961年から1967年にかけて、礼拝ホールの修復が行われ、19世紀の壁装飾が取り除かれ、その下の漆喰から創建当初の装飾が発見されました。 これらの装飾は部分的に復元され、16世紀のモスクの性格を取り戻す試みがなされました。
最も包括的な修復は、2007年から2010年にかけて行われました。 このプロジェクトでは、創建当初のモルタル、漆喰、装飾を可能な限り現地で強化・保存することに重点が置かれました。 損傷が激しい部分でも、安易な交換ではなく、強化とクリーニングによってオリジナルの状態を維持する努力が払われました。 また、以前の修復で加えられたセメントなどの不適切な材料は取り除かれ、砂岩ブロックなど、本来の構造に適した材料に置き換えられました。 この修復過程で、柱の根元から創建当初のイズニック・タイルが発見されたり、ドームからこれまで知られていなかった古典期の彫刻が発見されたりするなど、新たな発見もありました。
これらの度重なる修復の歴史そのものが、スレイマン=モスクの歴史の一部となっており、修復家たちは、創建時の姿を尊重しつつも、後世に加えられた変更も歴史的価値を持つものとして慎重に取り扱っています。

文化的・歴史的意義

スレイマン=モスクは、単なる建築物以上の深い意味を持つ存在です。
第一に、オスマン帝国最盛期の権力、富、そして技術力の象徴です。 スレイマン1世の治世の栄光を体現するこのモスクは、帝国の威信を世界に示すための記念碑でした。
第二に、建築家ミマール・シナンの才能が結集した、オスマン建築の頂点の一つです。 ハギア・ソフィアという偉大な先行建築に学びながらも、それを乗り越え、イスラム建築としての新たな高みに到達しようとする意欲的な試みであり、その後のオスマン建築に決定的な影響を与えました。
第三に、宗教施設であると同時に、教育、医療、福祉といった多様な機能を持つ社会的な中心地でした。 キュッリエという形態は、イスラム社会における宗教と日常生活の統合という理念を具現化したものです。
第四に、イスタンブールの都市景観を決定づける不可欠な要素です。 第三の丘の上にそびえ立つそのシルエットは、何世紀にもわたってイスタンブールの象徴として親しまれてきました。
1985年には、「イスタンブール歴史地域」の一部として、スレイマン=モスクとその周辺の保全地域がユネスコの世界遺産に登録されました。
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『世界史B 用語集』 山川出版社

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