メフメト2世とは
15世紀という、帝国が興隆し、古代の秩序が崩壊する時代において、歴史の潮流を永遠に変えることになる一人の人物が登場します。その名はメフメト2世、オスマン帝国のスルタンです。彼は後に「征服者」として知られるようになり、その野心、軍事的才能、そして知性は、彼が生きた時代だけでなく、その後の数世紀にもわたって深い影響を及ぼしました。メフメト2世の物語は、単なる一人の統治者の伝記ではなく、中世から近世への移行期における権力、文化、そして文明の変容を描いた壮大な叙事詩です。彼の治世は、ビザンツ帝国の最終的な終焉とオスマン帝国の地中海世界における支配的な勢力としての台頭を画するものでした。
メフメト2世は、1432年3月30日、当時のオスマン帝国の首都であったエディルネで生まれました。 彼の父は、経験豊富で敬虔なスルタン、ムラト2世であり、母は出自が完全には明らかでないヒューマ・ハトゥンという名の女性でした。 メフメトはムラト2世の四男であり、彼の幼少期は、将来の統治者としての厳しい訓練と教育に費やされました。オスマン帝国の慣習に従い、彼は幼い頃から統治の経験を積むために地方の総督として派遣されました。 11歳の時、彼は二人の顧問と共にアマスィヤに送られ、その地を治めることになります。 この期間は、彼が単に管理能力を養うだけでなく、多様な文化や思想に触れる機会ともなりました。父ムラト2世は、息子が最高の教育を受けられるよう、当代一流の学者たちを彼の家庭教師として付けました。 このイスラム教育は、メフメトの精神を形成し、彼のイスラム教徒としての信念を強固にする上で大きな影響を与えました。 彼はトルコ語、アラビア語、ペルシャ語、ギリシャ語、ラテン語など、複数の言語に堪能であったと言われています。 このような広範な教育は、彼にイスラム世界だけでなく、西洋の歴史や文化に対する深い理解を与え、後の彼の政策決定や世界観に大きな影響を及ぼすことになります。
メフメト2世の治世は、二つの期間に分かれています。 最初の治世は、彼がわずか12歳だった1444年8月に始まります。 父ムラト2世がハンガリーとの和平協定を結んだ後、突如として退位し、幼い息子にスルタンの位を譲ったのです。 この早熟な即位は、オスマン帝国の内外に大きな衝撃を与えました。 ヨーロッパのキリスト教国、特にハンガリー、教皇庁、ヴェネツィア、そしてビザンツ帝国は、この若きスルタンの経験不足を好機と捉え、新たな十字軍を結成しました。 国内においても、宮廷内では大宰相チャンダルル・ハリル・パシャと、メフメトを擁護するザガノス・パシャやシハベディン・パシャとの間で激しい権力闘争が繰り広げられました。
この危機的状況の中、十字軍はドナウ川を渡り、オスマン領内に侵攻しました。 1444年11月10日、ヴァルナの戦いでオスマン軍はムラト2世の指揮の下、十字軍に決定的な勝利を収めます。 この戦いの後もメフメトはスルタンの位に留まりましたが、国内の混乱は収まりませんでした。 大宰相チャンダルルはイェニチェリの反乱を画策し、1446年5月、ムラト2世を再びスルタンの座に呼び戻しました。 こうしてメフメトの最初の治世は終わりを告げ、彼は再びマニサの知事として送られることになります。 しかし、この経験は彼にとって屈辱であると同時に、貴重な教訓となりました。彼は権力の本質、宮廷内の陰謀、そして軍事戦略の重要性を痛感し、再び玉座に就く日を待ちながら、来るべき時に備えて知識と経験を蓄積していったのです。この雌伏の期間が、後の偉大な「征服者」メフメト2世を形作ることになる重要な礎となったのです。
最初の治世と雌伏の時
1444年、オスマン帝国の政治情勢は劇的な転換点を迎えました。スルタン・ムラト2世は、長年にわたるバルカン半島での戦争と国内の統治に疲弊し、精神的な安寧を求めていました。彼はハンガリー王国との間にセゲドの和約を結び、10年間の休戦を確保すると、驚くべき決断を下します。それは、自らの退位と、わずか12歳の息子メフメトへのスルタン位の譲渡でした。 1444年の夏、エディルネの宮廷で、少年メフメトはオスマン帝国第7代スルタンとして即位しました。 この前代未聞の出来事は、帝国のエリート層や周辺諸国に大きな動揺をもたらしました。
若きスルタンの治世は、当初から内外の危機に直面していました。 宮廷内では、古くからの名門貴族の利益を代表し、慎重な外交政策を志向する大宰相チャンダルル・ハリル・パシャと、メフメトの家庭教師であり、より積極的な拡大政策を支持するザガノス・パシャやシハベディン・パシャとの間で、深刻な対立が生じていました。 チャンダルルは、この若きスルタンの統治能力に懐疑的であり、ムラト2世の復位を望んでいました。一方、ザガノスらは、メフメトこそが帝国の未来を担うべき君主であると信じ、彼の権威を確立しようと努めました。この対立は、帝国の政策決定に混乱をもたらし、若きスルタンの立場を不安定なものにしました。
外部の脅威は、さらに深刻でした。オスマン帝国のスルタンが少年であるという報せは、ヨーロッパのキリスト教世界に絶好の機会と映りました。 教皇エウゲニウス4世の代理人である枢機卿ジュリアン・チェザリーニは、ハンガリー王ヴワディスワフ3世に対し、イスラム教徒との誓いを破ることは裏切りには当たらないと説得し、セゲドの和約を破棄させました。 こうして、ハンガリー、ポーランド、ワラキア、そして教皇庁やヴェネツィアの支援を受けた新たな十字軍が結成され、オスマン領内への侵攻を開始したのです。
十字軍の脅威が迫る中、エディルネの宮廷はパニックに陥りました。 この危機に際して、若きメフメトが父ムラト2世に宛てて送ったとされる有名な手紙があります。「もしあなたがスルタンであるならば、来てあなたの軍隊を率いなさい。もし私がスルタンであるならば、私はあなたに来て私の軍隊を率いることを命じます」。 この逸話は、メフメトの早熟な決断力と権威を示唆するものとして語り継がれていますが、一部の歴史家は、実際には大宰相チャンダルルがムラト2世の復帰を画策した結果であると考えています。 いずれにせよ、国家の危機を前にして、経験豊富なムラト2世が再び軍の指揮を執る必要がありました。
1444年11月10日、黒海沿岸のヴァルナ近郊で、ムラト2世率いるオスマン軍と、ヴワディスワフ3世およびハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュが率いる十字軍が激突しました。 ヴァルナの戦いは、オスマン軍の圧倒的な勝利に終わりました。 十字軍は壊滅的な打撃を受け、ヴワディスワフ3世と枢機卿チェザリーニは戦死しました。この勝利は、バルカン半島におけるオスマン帝国の支配を確固たるものにし、ヨーロッパの十字軍運動に大きな打撃を与えました。
ヴァルナでの勝利の後、ムラト2世は一旦マニサに引退しましたが、メフメトはスルタンとしてエディルネに留まりました。 しかし、宮廷内の権力闘争は依然として続いていました。ザガノス・パシャらは、若きスルタンにコンスタンティノープル攻略を唆しましたが、これはあまりにも野心的で時期尚早な計画でした。 大宰相チャンダルルは、この状況を巧みに利用し、首都の守備隊であるイェニチェリの間で不満を煽り、反乱を引き起こしました。 1446年5月、チャンダルルの要請を受けたムラト2世はエディルネに戻り、再びスルタンの座に就きました。 メフメトはスルタンの称号を保持したまま、再びマニサの知事として派遣されることになりました。
この最初の治世の失敗は、メフメトにとって大きな屈辱でしたが、同時に彼の政治家としての成長を促す重要な試練となりました。彼は、大宰相の権力の大きさ、イェニチェリの重要性、そして宮廷内の複雑な人間関係を身をもって学びました。マニサでの雌伏の期間、彼は統治者としての自分自身を省み、再び権力の座に就く日に備えました。彼は、ザガノス・パシャら信頼できる側近と共に、将来の計画、特に彼の生涯をかけた目標となるコンスタンティノープル攻略の構想を練り続けたのです。この時期の経験と学習が、彼が1451年に再びスルタンとして即位した際に、より成熟し、決断力のある指導者として行動するための基盤を築いたことは間違いありません。彼は、父の死を静かに待ちながら、歴史の舞台に再び登場するその時を虎視眈眈と狙っていたのです。
二度目の即位と権力基盤の確立
1451年2月3日、スルタン・ムラト2世がエディルネで逝去しました。 この報せは、封印された書簡によってマニサにいたメフメトのもとへ届けられました。 父の死を知ったメフメトは、権力の空白が引き起こすであろう混乱や反乱を未然に防ぐため、迅速に行動しました。彼は側近たちに「私を愛する者は、我に従え」と宣言し、馬に跨って首都エディルネへと急行したと言われています。 1451年2月18日、エディルネに到着したメフメトは、19歳で正式にオスマン帝国スルタンとして二度目の即位を果たしました。
彼の二度目の治世の始まりは、最初の治世の時とは全く異なっていました。もはや彼は、他人の意のままに操られる無力な少年ではありませんでした。マニサでの数年間の経験は、彼を冷徹で計算高い、そして断固たる意志を持つ君主に変えていました。彼の心は、ただ一つの壮大な目標、すなわちビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの征服という野望に満ちていました。
即位直後、メフメトは自らの権威を内外に示すための行動を開始します。即位に際して慣例となっていたイェニチェリへの下賜金の支払いが遅れたことに対し、不満を漏らして威嚇的な態度をとったイェニチェリの兵士たちを、彼は厳しく処罰しました。 これは、軍隊、特に帝国の精鋭部隊であるイェニチェリに対して、誰が真の支配者であるかを明確に示すための断固たる措置でした。しかし同時に、彼はイェニチェリが将来の征服計画に不可欠な戦力であることを理解しており、彼らの組織を強化し、忠誠心を確保することにも努めました。
次にメフメトが直面したのは、アナトリアにおけるカラマン侯国の脅威でした。ムラト2世の死に乗じて、カラマン侯イブラヒム2世はオスマン領に侵攻し、反乱を扇動しました。 メフメトは即位後最初の軍事行動として、自ら軍を率いてカラマン侯国へと向かいました。 この遠征は成功を収め、カラマン侯国を打ち破り、アナトリアにおけるオスマン帝国の支配権を再確認しました。 この迅速かつ決定的な勝利は、メフメトの軍事指導者としての能力を帝国の内外に証明するものでした。
しかし、メフメトがアナトリアで戦っている間、ビザンツ帝国は彼にとって看過できない行動に出ます。ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世は、オスマン帝国の王位継承権を主張するオルハンという人物をコンスタンティノープルで擁しており、彼を解放すると脅迫することで、メフメトを牽制しようと試みたのです。 これは、オスマン帝国の内政に干渉し、その安定を脅かす行為であり、メフメトにとってコンスタンティノープル攻略の決意をさらに固めさせる口実となりました。
権力基盤を固める上で、メフメトは父の代からの重臣たちの処遇にも細心の注意を払いました。特に、最初の治世で彼を退位に追い込んだ大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは、依然として宮廷内で絶大な影響力を持っていました。 メフメトは、コンスタンティノープル攻略という自らの大望にチャンダルルが反対することを知っていましたが、すぐには彼を排除しませんでした。彼は、来るべき大事業のために帝国の全ての力を結集する必要性を理解しており、慎重に時機を待ったのです。彼は、チャンダルルのような旧来の貴族勢力の影響力を徐々に削ぎながら、ザガノス・パシャのような自らに忠実な新しい人材を登用し、政権の中枢を確実に掌握していきました。
このように、メフメト2世は二度目の即位からコンスタンティノープル攻略に至るまでの短い期間に、軍事、内政の両面で驚くべき手腕を発揮しました。彼はイェニチェリを掌握し、アナトリアの脅威を排除し、そしてビザンツ帝国の挑戦を逆手にとって自らの大義名分としました。彼の行動は全て、一つの目標、すなわちローマ帝国の後継者たるビザンツ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルを自らの帝国の首都とするという壮大な計画に向けられていたのです。帝国の権力基盤を盤石にしたメフメトは、いよいよその生涯をかけた大事業に着手する準備を整えました。
コンスタンティノープル攻略:準備
1451年に再びスルタンの座に就いたメフメト2世の心は、ただ一つの強迫観念にも似た野望に支配されていました。それは、千年の歴史を誇るビザンツ帝国の首都、コンスタンティノープルの征服です。 この都市は、イスラム世界にとって長年の悲願であり、預言者ムハンマドがその征服者を称賛したという伝承によって神聖視されていました。 メフメトにとって、コンスタンティノープル攻略は単なる軍事的な勝利以上の意味を持っていました。それは、彼自身の権威を絶対的なものにし、オスマン帝国を世界帝国の地位へと引き上げ、そして彼自身がアレクサンドロス大王やローマ皇帝の系譜に連なる偉大な支配者であることを証明するための試金石でした。
ヨーロッパとビザンツ帝国は、メフメトの最初の短い治世の記憶から、当初はこの若きスルタンの計画を深刻に受け止めていませんでした。 しかし、メフメトは周到かつ大胆な準備を秘密裏に進めていました。彼の計画は、軍事、外交、技術のあらゆる側面を網羅する壮大なものでした。
まず、彼はオスマン海軍の強化に全力を注ぎました。 コンスタンティノープルが三方を海に囲まれた難攻不落の要塞であることを熟知していた彼は、制海権の確保が包囲成功の不可欠な条件であると理解していました。ガリポリの海軍基地では、多数の新しい軍艦が建造され、既存の艦隊も近代化されました。
外交面では、メフメトは敵を孤立させ、味方を確保するために巧みな駆け引きを展開しました。彼は、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの海洋都市国家と、彼らの商業的利益を保証する条約を更新し、中立を保たせようとしました。ハンガリーとは休戦協定を結び、バルカン半島からの脅威を一時的に取り除きました。彼は、来るべき大包囲戦において、ヨーロッパからの大規模な援軍がビザンツ帝国に到達するのを防ぐことに細心の注意を払ったのです。
しかし、メフメトの準備の中で最も画期的で、そして最も決定的な意味を持ったのは、巨大な大砲の製造でした。当時、火薬と大砲は戦争の様相を大きく変えつつありましたが、メフメトはこれを最大限に活用しようと考えました。彼は、ハンガリー人の技術者ウルバンを雇い入れました。ウルバンは当初ビザンツ皇帝に自らの技術を売り込みましたが、皇帝には彼を雇うだけの十分な資金がありませんでした。 メフメトはウルバンを破格の待遇で迎え入れ、彼に前代未聞の巨大な大砲の製造を命じました。エディルネで製造されたこの大砲は、後に「バシリカ」と呼ばれ、長さ8メートル以上、重さ18トンにも及び、約540キログラムの石弾を1.6キロメートル以上も先まで飛ばすことができたと伝えられています。この巨大な兵器は、コンスタンティノープルの伝説的なテオドシウスの城壁を粉砕するために特別に設計されたものでした。
そして、1452年、メフメトはコンスタンティノープル包囲の最も大胆かつ戦略的な布石を打ちます。それは、ボスポラス海峡のヨーロッパ側、コンスタンティノープルの城壁からわずか数キロの地点に、新たな要塞を建設することでした。 この要塞は、わずか4ヶ月という驚異的な速さで建設され、「ルメリ・ヒサル(ヨーロッパの城)」と名付けられました。 海峡の対岸、アジア側にはすでに彼の祖父バヤズィト1世が建設したアナドル・ヒサル(アナトリアの城)があり、この二つの要塞によって、オスマン帝国はボスポラス海峡を完全に封鎖することが可能になりました。これにより、黒海からコンスタンティノープルへ向かうジェノヴァなどの船団からの補給や援軍を遮断することができるようになったのです。 ルメリ・ヒサルの建設は、ビザンツ帝国に対する明確な敵対行為であり、戦争の開始を告げる狼煙でした。建設のために古い教会の石材が使われたことに抗議したコンスタンティノープルの住民が捕らえられ、殺害されるという事件も起こりました。
1453年の春までに、メフメトの準備は完了しました。 西洋の史料によれば10万人から13万人、現代の研究では6万人から8万人 とも見積もられる大軍が、エディルネからコンスタンティノープルへと進軍を開始しました。この軍隊には、帝国の精鋭歩兵であるイェニチェリ部隊、騎兵、そしてウルバンの巨大な大砲を含む最新鋭の攻城兵器が含まれていました。1453年4月2日、オスマン軍の先鋒がコンスタンティノープルの城壁の前に姿を現し、4月6日にはメフメト自身が本隊を率いて到着、歴史上最も有名で、そして最も決定的な包囲戦の一つが、その幕を開けたのです。
コンスタンティノープルの陥落
1453年4月6日、オスマン帝国のスルタン、メフメト2世率いる大軍が、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの前に布陣し、歴史の転換点となる包囲戦が始まりました。 一方のオスマン軍は、最新の研究によれば約8万人の兵士と、ウルバンの巨大な大砲を含む最新鋭の攻城兵器、そしてボスポラス海峡とマルマラ海を制圧する大艦隊を擁していました。 対するコンスタンティノープルの守備隊は、皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスが率いるわずか7,000人から10,000人程度の兵力しかなく、その中にはジェノヴァやヴェネツィアからの傭兵や義勇兵も含まれていました。 兵力差は圧倒的であり、都市の運命は、千年にわたってその難攻不落ぶりを誇ってきたテオドシウスの城壁にかかっていました。
メフメトは、陸側の城壁、特に最も脆弱と見られる聖ロマノス門周辺に攻撃を集中させる作戦を立てました。 包囲戦が始まると、オスマン軍の大砲、とりわけウルバンの巨大な「バシリカ砲」が轟音と共に火を噴き始めました。その破壊力は凄まじく、千年の風雪に耐えてきた城壁も、この絶え間ない砲撃によって徐々に崩れ始めました。しかし、ビザンツの守備隊は驚くべき粘り強さを見せ、夜間に城壁の損傷箇所を必死に修復し、オスマン軍の度重なる突撃を撃退し続けました。
包囲戦における最も劇的な出来事の一つは、オスマン艦隊の金角湾への進入でした。金角湾の入り口は、ビザンツ側によって巨大な鉄の鎖で封鎖されており、オスマン艦隊は湾内に入ることができませんでした。 この状況を打開するため、メフメトは前代未聞の作戦を思いつきます。彼は、油を塗った木の道をガラタの丘の背後に敷かせ、数十隻の船を陸路で丘を越えさせて金角湾内に運び込んだのです。 1453年4月22日、金角湾内に突如としてオスマン艦隊が出現した時、ビザンツ側の衝撃と士気の低下は計り知れないものでした。 これにより、コンスタンティノープルは完全に包囲され、海からの補給路も断たれてしまいました。
包囲が長引くにつれ、双方の消耗は激しくなりました。オスマン軍内でも士気の低下が見られ始め、大宰相チャンダルル・ハリル・パシャは再び包囲の断念を主張しました。しかし、メフメトの決意は揺るぎませんでした。彼は、ザガノス・パシャの強硬な進言を支持し、総攻撃の準備を命じました。5月22日の月食や、その後の嵐、霧といった不吉な兆候は、守備側の恐怖を煽りましたが、同時にメフメト自身にも焦りをもたらしたかもしれません。
そして運命の日、1453年5月29日の未明、オスマン軍の総攻撃が開始されました。 イスラム教の礼拝の呼びかけであるアザーン、軍楽隊の太鼓とトランペットの轟き、そして兵士たちの鬨の声が夜明け前の闇を切り裂きました。 オスマン軍は、不正規兵、アナトリア兵、そして最後に精鋭部隊であるイェニチェリという波状攻撃を仕掛けました。最初の二波は、決死の覚悟で戦う守備隊によって撃退されました。 しかし、三波目の攻撃を担った約3,000人のイェニチェリ部隊が、城壁の破壊された箇所に殺到しました。
戦闘の最中、ジェノヴァ人傭兵隊長ジョヴァンニ・ジュスティニアーニが負傷し、戦線を離脱するという決定的な出来事が起こります。 彼の離脱は守備隊の混乱と士気の崩壊を招きました。そしてついに、ケルコポルタと呼ばれる小さな門が、誰かの不注意によって開いたままになっているのをオスマン兵が発見し、そこから城内へとなだれ込みました。ほぼ時を同じくして、イェニチェリ部隊も城壁の突破に成功しました。皇帝コンスタンティノス11世は、紫の帝衣を脱ぎ捨て、一兵士として乱戦の中に飛び込み、壮絶な最期を遂げたと伝えられています。
城壁が破られると、市街戦は長くは続きませんでした。オスマン軍は市内に流れ込み、メフメトが事前に約束していた3日間の略奪が始まりました。兵士たちは財宝を求めて教会、修道院、民家を襲い、多くの市民が殺害されるか、奴隷として捕らえられました。世界で最も壮麗な教会の一つであったハギア・ソフィア大聖堂も例外ではなく、多くの避難民でごった返す中、兵士たちによって略奪され、冒涜されました。
5月29日の午後、メフメト2世は白馬に乗り、行列を従えて荘厳にコンスタンティノープルに入城しました。彼はまずハギア・ソフィア大聖堂へと向かい、その壮麗さに感嘆したと言われています。そして、彼はこの偉大な建築物をイスラム教のモスクに転用することを宣言し、その場で最初の金曜礼拝が行われました。これは、コンスタンティノープルがキリスト教世界の中心から、イスラム世界の新たな中心へと生まれ変わったことを象徴する出来事でした。
コンスタンティノープルの陥落は、単なる一都市の征服ではありませんでした。それは、1000年以上続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の完全な滅亡を意味し、中世の終わりと近世の始まりを告げる画期的な出来事でした。 オスマン帝国は、ヨーロッパとアジアを結ぶ戦略的要衝を手に入れ、地中海東部における支配的な勢力としての地位を確立しました。そして、メフメト2世は、この偉業によって「ファーティフ(征服者)」という栄誉ある称号を手にし、その名を歴史に不滅のものとして刻み込んだのです。
帝国の拡大:バルカン半島
コンスタンティノープルの征服という空前の偉業を成し遂げたメフメト2世は、その栄光に満足することなく、すぐさま次なる目標へと視線を向けました。彼の野心は、オスマン帝国をヨーロッパとアジアにまたがる真の世界帝国へと変貌させることにありました。 コンスタンティノープル陥落後の彼の軍事行動は、主に二つの方向に向けられました。一つはバルカン半島における支配の確立と拡大、もう一つはアナトリアにおけるオスマンの権威の完全な統一です。
コンスタンティノープル陥落後の最初の主要な遠征は、セルビアに向けられました。 セルビア専制公国は、1389年のコソヴォの戦い以来、断続的にオスマン帝国の属国となっていましたが、専制公ジュラジ・ブランコヴィッチは貢納を拒否し、オスマン帝国の宿敵であるハンガリー王国と同盟を結んでいました。 メフメトはこれを口実に、1454年にセルビアへの遠征を開始しました。オスマン軍はセルビアの要塞を次々と攻略しましたが、ハンガリーの将軍フニャディ・ヤーノシュ率いる救援軍の接近を知り、一時撤退します。 1455年には再び遠征を行い、重要な鉱山都市ノヴォ・ブルドを占領しました。 そして1459年、スメデレヴォ要塞が陥落し、セルビア専制公国は完全にオスマン帝国に併合されました。 これにより、オスマン帝国の国境はハンガリーと直接接することになります。
セルビア征服の過程で、メフメトは人生における数少ない大きな敗北の一つを経験します。1456年、彼はハンガリーへの進撃路を確保するため、戦略的要衝であるベオグラードの包囲に取り掛かりました。 大規模な砲撃と、ドナウ川の艦隊を動員した大掛かりな作戦でしたが、フニャディ・ヤーノシュの巧みな防衛と、十字軍の士気に燃える救援部隊の前に、オスマン軍は多大な損害を出して敗走を余儀なくされました。 スルタン自身もこの戦いで負傷したと言われています。ベオグラードでの敗北は、メフメトにとって大きな屈辱でしたが、彼の征服意欲を削ぐことはありませんでした。この敗北は、ハンガリーのオスマン帝国による征服を70年間遅らせることになります。
次にメフメトが目を向けたのは、ギリシャ南部のペロポネソス半島に存在したビザンツ帝国の残存勢力、モレアス専制公国でした。 この地は、ビザンツ最後の皇帝コンスタンティノス11世の二人の弟、デメトリオスとソマスによって共同統治されていましたが、彼らは互いに争い、オスマン帝国への貢納も怠っていました。 メフメトはこの内紛と貢納の不履行を口実に、1458年に最初の遠征を行いました。 この遠征で半島の大部分を制圧し、1460年の二度目の遠征で首都ミストラスを含む残りの領土も併合しました。 これにより、ビザンツ帝国の政治的実体は地上から完全に姿を消すことになります。
バルカン半島におけるメフメトの最も手ごわい敵の一人が、ワラキア公ヴラド3世、通称「串刺し公ドラキュラ」でした。 ヴラドはかつてオスマン宮廷で人質として育ち、メフメトの支援によってワラキア公の地位に就きましたが、やがてオスマン帝国への貢納を拒否し、ドナウ川を越えてオスマン領に侵攻、残虐な行為を行いました。 1462年、メフメトは自ら大軍を率いてワラキアに侵攻しました。 ヴラドはゲリラ戦術と焦土作戦で抵抗し、特に夜間にオスマン軍の陣営を奇襲した「トゥルゴヴィシュテの夜襲」は有名です。しかし、圧倒的な兵力差の前にヴラドはハンガリーへの逃亡を余儀なくされ、メフメトは弟のラドゥを新たなワラキア公として据え、この地域への宗主権を再確認しました。
もう一人の難敵は、アルバニアの指導者スカンデルベグでした。スカンデルベグもまた、かつてオスマン宮廷で育ち、イスラム教に改宗して軍人として活躍しましたが、後に故郷に戻ってキリスト教に復帰し、オスマン帝国に対する反乱を率いました。彼はアルバニアの山岳地帯を巧みに利用し、20年以上にわたってオスマン軍の侵攻を何度も撃退しました。メフメトは1466年に自ら軍を率いてアルバニアに遠征し、クルヤ城を包囲しましたが、攻略することはできませんでした。 スカンデルベグは1468年に病死しますが、アルバニアの抵抗はその後も続きました。最終的にアルバニアが完全にオスマン帝国の支配下に入るのは、1478年のことでした。
さらに、メフメトはボスニア王国にも侵攻し、1463年にこれを征服、併合しました。 これにより、オスマン帝国の支配はアドリア海沿岸にまで及び、ヴェネツィア共和国との直接的な対立が避けられなくなりました。これらのバルカン半島における一連の征服活動を通じて、メフメト2世はコンスタンティノープルからドナウ川、そしてアドリア海に至る広大な領域をオスマン帝国の直接統治下に置き、帝国のヨーロッパにおける版図を飛躍的に拡大させたのです。
帝国の拡大:アナトリアと黒海
バルカン半島での征服と並行して、メフメト2世はアナトリア(小アジア)と黒海沿岸地域におけるオスマン帝国の支配権を完全に確立することにも力を注ぎました。彼の目標は、アナトリアを再統一し、この地域に残存するビザンツ系の国家や独立したテュルク系の君侯国(ベイリク)をすべてオスマンの旗の下に統合することでした。
コンスタンティノープル陥落後、メフメトが最初に取り組んだのは、黒海南岸に残る最後のビザンツ系国家、トレビゾンド帝国の征服でした。 トレビゾンド帝国は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領の際に、ビザンツ皇族コムネノス家によって建国された亡命政権でした。この国は、コンスタンティノープル陥落後も独立を保ち、東アナトリアのテュルク系国家である白羊朝(アク・コユンル)と同盟を結ぶなどして、オスマン帝国に対抗しようとしていました。メフメトにとって、トレビゾンド帝国はローマ帝国の最後の残滓であり、また白羊朝との連携の拠点となる可能性のある危険な存在でした。
1461年、メフメトは陸と海から大規模な軍を率いてトレビゾンド遠征を開始しました。陸軍はアナトリアを横断し、海軍は黒海を進みました。白羊朝の君主ウズン・ハサンは、姻戚関係にあったトレビゾンド帝国を支援しようとしましたが、オスマン軍の圧倒的な力の前に直接対決を避けざるを得ませんでした。孤立無援となったトレビゾンド皇帝ダヴィド・コムネノスは、長期の包囲戦を戦うことなく降伏を決断しました。1461年8月15日、メフメトは戦わずしてトレビゾンド市に入城し、ここに250年以上続いたトレビゾンド帝国は滅亡しました。これにより、ローマ帝国の系譜を引く最後のギリシャ人国家が歴史から姿を消し、黒海南岸全域がオスマン帝国の支配下に入りました。
次にメフメトは、アナトリア中部に勢力を保っていたテュルク系の君侯国、特にカラマン侯国とイスフェンディヤール侯国(ジャンダル侯国)の完全な併合に乗り出しました。カラマン侯国は、アナトリアにおけるオスマン帝国の最も執拗なライバルであり、長年にわたってオスマン帝国の背後を脅かしてきました。メフメトは父ムラト2世の代から続くこの問題を最終的に解決することを決意します。1466年、彼はカラマン侯国に侵攻し、首都コンヤとカラマンを占領しました。カラマン侯国の抵抗はその後も散発的に続きますが、1474年までにはその領土の大部分がオスマン帝国の州として併合され、アナトリアにおけるテュルク系の主要な対抗勢力は消滅しました。
また、黒海沿岸のシノプを拠点としていたイスフェンディヤール侯国も、1461年のトレビゾンド遠征の際に併合されました。これにより、オスマン帝国はアナトリアの黒海沿岸のほぼ全域を支配下に置くことになります。
アナトリアにおけるメフメトの最大の挑戦は、東方に勢力を拡大していた白羊朝との対決でした。ウズン・ハサン率いる白羊朝は、イラン、イラク、東アナトリアを支配する強大な国家であり、ヴェネツィア共和国と反オスマン同盟を結び、オスマン帝国を東西から挟撃しようと画策していました。ウズン・ハサンは、オスマン帝国が併合したカラマン侯国の領土返還を要求し、オスマン領への侵攻を開始しました。
1473年、メフメトは白羊朝との決戦のため、自ら大軍を率いて東アナトリアへと進軍しました。両軍は、ユーフラテス川上流のオトゥルクベリで激突しました。オトゥルクベリの戦いは、メフメト2世の治世における最も重要な戦いの一つとなりました。白羊朝の軍隊は伝統的なテュルク系の騎兵を主力としていましたが、メフメト率いるオスマン軍は、火縄銃や大砲を装備したイェニチェリ部隊を中核に据えていました。この戦いは、火器の優劣が勝敗を決定づける時代の到来を告げるものでした。オスマン軍の圧倒的な火力の前に白羊朝の騎兵は壊滅的な打撃を受け、ウズン・ハサンは敗走しました。この勝利により、オスマン帝国は東方からの脅威を完全に退け、アナトリア全域における支配を不動のものとしました。白羊朝は、この敗北から立ち直ることができず、やがて衰退していくことになります。
さらにメフメトは、黒海の制海権を完全に掌握するため、黒海北岸のクリミア半島に目を向けました。この地域は、ジェノヴァ共和国の植民都市と、モンゴル帝国の後継国家の一つであるクリミア・ハン国によって支配されていました。1475年、メフメトはゲディク・アフメト・パシャ率いる大艦隊をクリミア半島に派遣しました。オスマン軍は、カッファ(現在のフェオドシヤ)をはじめとするジェノヴァの主要な拠点を次々と攻略しました。そして、クリミア・ハン国をオスマン帝国の保護国としました。これにより、黒海は事実上オスマン帝国の内海(オスマンの湖)となり、黒海を通じた交易路は完全に帝国の管理下に置かれることになりました。これは、ヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの海洋都市国家にとって大きな打撃となりました。
これらのアナトリアと黒海地域における一連の征服活動を通じて、メフメト2世は、かつてのセルジューク朝やビザンツ帝国のアナトリア領をはるかに凌ぐ広大な領域を統一しました。彼は、帝国の東方と北方の国境を安定させ、アナトリアを帝国の確固たる心臓部へと変貌させたのです。これにより、オスマン帝国はバルカンとアナトリアという二つの大陸にまたがる強固な基盤を持つ、名実ともに世界帝国としての地位を確立しました。
ヴェネツィアとの戦争とイタリア遠征
メフメト2世の膨張政策は、必然的に地中海東部の覇権を握っていたヴェネツィア共和国との全面的な衝突を引き起こしました。ヴェネツィアは、レバント貿易によって莫大な富を築き上げた海洋帝国であり、ギリシャやエーゲ海に多くの植民地や交易拠点を持っていました。オスマン帝国のバルカン半島とアナトリアへの拡大は、ヴェネツィアの商業的利益と安全保障を直接的に脅かすものでした。
両国の緊張は、コンスタンティノープル陥落直後から高まっていましたが、決定的な対立は1463年に始まりました。アテネのオスマン帝国総督の奴隷がヴェネツィア領のコロニに逃げ込むという些細な事件が引き金となり、長年にわたるオスマン・ヴェネツィア戦争(1463年-1479年)が勃発しました。この戦争は、ギリシャ本土、ペロポネソス半島、エーゲ海の島々、そしてアルバニアを舞台に、16年間にわたって繰り広げられました。
戦争の初期、ヴェネツィアはハンガリー王マーチャーシュ1世やアルバニアの英雄スカンデルベグと同盟を結び、オスマン帝国に対抗しました。ヴェネツィア海軍は、ダーダネルス海峡を封鎖しようと試みましたが、決定的な成功を収めることはできませんでした。陸上では、オスマン軍がペロポネソス半島のヴェネツィア拠点を次々と攻撃し、占領していきました。
戦争における転換点の一つは、1470年のネグロポンテ(現在のエヴィア島)攻略でした。ネグロポンテは、エーゲ海におけるヴェネツィアの最も重要かつ堅固な拠点でした。メフメト2世は自ら大軍を率いてこの島を包囲しました。オスマン軍は、海上に舟橋を架けて本土から軍隊を送り込み、激しい戦いの末にネグロポンテを陥落させました。この敗北はヴェネツィアに大きな衝撃を与え、戦争の趨勢がオスマン側に傾いていることを明確に示しました。
その後も、アルバニアではスカンデルベグの死後も続く抵抗の支援や、白羊朝のウズン・ハサンとの連携など、ヴェネツィアは外交と軍事の両面で抵抗を続けました。しかし、オスマン帝国の圧倒的な国力の前に、ヴェネツィアは徐々に消耗していきました。1477年には、オスマン軍がヴェネツィア本国の北東フリウリ地方にまで侵攻し、イゾンツォ川に達しました。ヴェネツィア市民は、サン・マルコ広場の鐘楼からオスマン軍の焚く篝火を見ることができたと言われ、その恐怖は頂点に達しました。
長期にわたる戦争に疲弊したヴェネツィアは、ついに和平を求めることを決断します。1479年1月25日、コンスタンティノープル条約が締結され、16年間の戦争は終結しました。この条約により、ヴェネツィアはネグロポンテ、レムノス島、そしてアルバニアのシュコドラといった重要な拠点をオスマン帝国に割譲し、多額の賠償金を支払うことに同意しました。その見返りとして、ヴェネツィアはコンスタンティノープルに代表(バイロ)を置き、オスマン領内での貿易を継続する権利をかろうじて維持しました。この戦争の結果、オスマン帝国はエーゲ海における支配権を確立し、ヴェネツィアの海洋帝国としての力は大きく削がれることになりました。
ヴェネツィアとの戦争を有利な条件で終結させたメフメト2世の野心は、さらに西へと向かいました。彼の最終的な目標は、かつてのローマ帝国のように、イタリア半島、そしてローマそのものを征服することであったと言われています。彼は、自分自身をローマ皇帝の後継者と見なしており、旧帝国の首都であるローマを自らの支配下に置くことは、その正統性を完成させるための最後の仕上げだと考えていました。
1480年、メフメトはこの壮大な計画の第一歩として、大宰相ゲディク・アフメト・パシャ率いる大艦隊をイタリア南部へと派遣しました。オスマン軍の最初の目標は、当時ナポリ王国の一部であったイオニア海に浮かぶ島々、特に聖ヨハネ騎士団が守るロドス島でした。しかし、ロドス島の包囲は騎士団の頑強な抵抗の前に失敗に終わります。
ロドス攻略に失敗したゲディク・アフメト・パシャは、艦隊をイタリア半島本体へと向け、1480年8月11日、アプリア地方の港町オトラントに上陸し、これを占領しました。オトラントの占領は、イタリア全土、そしてヨーロッパのキリスト教世界に激震を走らせました。教皇シクストゥス4世はローマからの避難を検討し、イタリア諸国に団結してオスマンの脅威に立ち向かうよう呼びかけ、新たな十字軍を提唱しました。オスマン軍はオトラントを拠点として、周辺地域への襲撃を開始し、イタリア半島征服の橋頭堡を築こうとしました。オトラントの占領中、大司教を含む多くの市民がイスラム教への改宗を拒否して殺害されたと伝えられており、これは後に「オトラントの殉教者」としてカトリック教会によって列聖されています。
オスマン軍は、翌1481年の春にはさらなる大規模な援軍を送り込み、イタリア侵攻を本格化させる計画でした。メフメト自身が、新たな遠征の準備を進めていました。しかし、このイタリア侵攻計画は、彼の突然の死によって中断されることになります。メフメト2世の死後、彼の息子たちの間で後継者争いが勃発し、イタリアに駐留していたオスマン軍は孤立しました。1481年9月10日、オトラントのオスマン守備隊は、ナポリ王国と教皇軍の連合軍に降伏し、イタリアから撤退しました。
もしメフメト2世が生きていれば、イタリアの歴史、ひいてはヨーロッパの歴史が大きく変わっていた可能性は否定できません。彼のイタリア遠征は未完に終わりましたが、その野望の壮大さと、ヨーロッパに与えた衝撃の大きさは、彼が「征服者」と呼ばれるにふさわしい人物であったことを物語っています。
統治と帝国の再編
メフメト2世は、単なる偉大な軍事指導者、征服者であっただけではありません。彼は同時に、オスマン帝国を中央集権化された官僚制国家へと変貌させた、卓越した統治者であり、改革者でもありました。彼の治世において、帝国の法制度、行政機構、そして社会構造は大きく再編され、その後の数世紀にわたるオスマン帝国の繁栄の基礎が築かれました。
コンスタンティノープルを征服した後、メフメトが最初に取り組んだ課題の一つは、荒廃したこの大都市を帝国の新たな首都として再建し、繁栄させることでした。彼は、帝国の各地から、トルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人など、様々な民族や宗教の人々を強制移住させたり、あるいは税の免除などの特権を与えて移住を奨励したりして、都市の人口回復に努めました。彼は、ギリシャ正教会の総主教座を復活させ、ゲンナディオス・スコラリオスを総主教に任命しました。また、アルメニア総主教座やユダヤ教の首席ラビをコンスタンティノープルに設置し、これらの非イスラム教徒の共同体(ミッレト)に、それぞれの宗教法に基づいて内部の事柄を処理する自治権を与えました。このミッレト制は、オスマン帝国の多文化・多宗教社会を統治する上で極めて重要な役割を果たしました。
メフメトはまた、首都に壮大な建築物を次々と建設しました。彼は、征服の象徴としてハギア・ソフィアをモスクに改修しただけでなく、ファーティフ・モスク(征服者のモスク)を中心とする大規模な複合施設(キュッリエ)を建設させました。この施設には、モスクの他に、神学校(メドレセ)、図書館、病院、市場などが含まれており、首都の宗教的、学術的、そして商業的な中心地となりました。さらに、彼は帝国の行政の中心地として、トプカプ宮殿の建設を開始しました。この広大な宮殿は、その後約400年にわたってオスマン帝国のスルタンたちの居城であり、政治の中枢となりました。
メフメト2世の最も重要な功績の一つは、帝国の法典を編纂したことです。彼は、二つの法典、「カーヌーン・ナーメ」を発布しました。一つ目は行政と刑法に関するもので、二つ目は国家の組織と儀礼に関するものです。これらの法典は、イスラム法(シャリーア)を補完する世俗法(カーヌーン)であり、スルタンの絶対的な権威を法的に確立するものでした。特に有名なのは、国家の安定のためにスルタンが自らの兄弟を処刑することを合法化した「兄弟殺しの法」です。これは、帝国の分裂や内乱を防ぐための冷徹な措置であり、スルタンの権力が何よりも優先されるという彼の政治哲学を象徴しています。
行政面では、メフメトは中央集権化を強力に推し進めました。彼は、コンスタンティノープル陥落直後、長年彼の政策に反対してきた大宰相チャンダルル・ハリル・パシャを処刑しました。これは、古くからのトルコ系貴族勢力の影響力を排除し、スルタンに絶対的な忠誠を誓う「デヴシルメ」出身者を政権の中枢に登用するという彼の明確な意志表示でした。デヴシルメとは、バルカン半島のキリスト教徒の少年たちを徴集し、イスラム教に改宗させて、宮廷や軍隊で教育・訓練する制度です。彼らはスルタン個人の奴隷(クル)であり、家柄や血縁にとらわれず、能力のみでのし上がることができました。メフメトは、大宰相をはじめとする政府高官の多くをこのデヴシルメ出身者で固めることで、スルタンへの権力集中を図り、貴族層の台頭を抑え込みました。
経済政策においても、メフメトは帝国の財政基盤を強化するための改革を行いました。彼は、大規模な検地を実施して税収の増加を図り、また、多くの土地を国有化してティマール制(軍事奉仕と引き換えに徴税権を与える制度)を再編しました。さらに、彼は貨幣の改鋳を頻繁に行い、通貨の価値を調整することで政府の収入を確保しようとしましたが、これは時に商人や民衆の不満を引き起こす原因ともなりました。
メフメト2世の統治は、絶対君主制の確立と国家機構の合理化を目指したものでした。彼は、征服によって拡大した広大な領土を効率的に支配するために、官僚制度を整備し、法を定め、スルタンの権威を神格化するほどの高みへと引き上げました。彼が築き上げた中央集権的な帝国システムは、その後のオスマン帝国の統治の基本モデルとなり、帝国の長期にわたる安定と繁栄を支えることになったのです。
文化と学問のパトロン
メフメト2世は、冷徹な征服者であり、有能な統治者であったと同時に、ルネサンス君主さながらの知的好奇心と芸術への深い造詣を持つ、稀有な文化人でもありました。彼の宮廷は、イスラム世界とキリスト教世界の学者、芸術家、詩人たちが集う国際的な文化の中心地となり、彼のパトロネージュの下で、オスマン文化は新たな黄金時代を迎えました。
メフメト自身が、高度な教育を受けた知識人でした。彼はトルコ語、ペルシャ語、アラビア語に堪能で、イスラム神学、法学、詩文に深い知識を持っていました。さらに、ギリシャ語、ラテン語、セルビア語も理解したと言われています。彼は、古代ギリシャ・ローマの歴史と文化に強い関心を抱いており、特にアレクサンドロス大王やローマ皇帝の英雄伝を愛読していました。彼は、自分自身をこれらの偉大な征服者の後継者と位置づけており、コンスタンティノープル征服も、ローマ帝国の遺産を受け継ぐという意識に強く動機づけられていました。
コンスタンティノープルを征服した後、彼はビザンツ帝国が残した多くの書物や芸術品を保護し、収集しました。彼は、ギリシャ人の学者にプトレマイオスの『地理学』をアラビア語に翻訳させ、また、ビザンツの歴史家クリトヴォウロスに自身の治世の記録を書かせました。彼の宮廷には、ペルシャやアラブの詩人、歴史家、科学者だけでなく、イタリアからも多くの人文主義者や芸術家が招かれました。
特に有名なのは、ヴェネツィアの画家ジェンティーレ・ベッリーニとの交流です。オスマン・ヴェネツィア戦争の終結後、和平の証として、ヴェネツィア政府は当代随一の肖像画家であったベッリーニをコンスタンティノープルに派遣しました。ベッリーニは1479年から1481年にかけてオスマン宮廷に滞在し、メフメト2世の有名な肖像画を描きました。この肖像画は、西洋の写実的な技法と、東洋的な君主の威厳を見事に融合させた傑作として知られています。ベッリーニは他にも、宮殿の壁画などを制作し、西洋ルネサンスの芸術様式をオスマン宮廷に伝えました。メフメトは、ベッリーニに加えて、コスタンツォ・ダ・フェラーラという別のイタリア人芸術家にも自身の肖像メダルを制作させています。イスラム教では偶像崇拝が禁じられているにもかかわらず、彼が自らの肖像画やメダルを制作させたことは、彼の型にはまらない性格と、西洋文化に対する開かれた姿勢を物語っています。
メフメトは、学問の振興にも情熱を注ぎました。彼は、ファーティフ・モスクの複合施設内に「サフヌ・セマーン」と呼ばれる8つの高等神学校(メドレセ)を設立しました。これらの学校は、イスラム世界の最高学府として設計され、神学、法学、天文学、数学、医学など、幅広い学問が教えられました。彼は、当代一流の学者を帝国の内外から招聘し、教授として迎えました。その中には、有名な天文学者であり数学者であったアリ・クシュチュも含まれています。アリ・クシュチュは、白羊朝のウズン・ハサンのもとからオスマン宮廷に移り、コンスタンティノープルの天文台の設立に貢献しました。
メフメトの知的好奇心は、特定の宗教や文化に限定されるものではありませんでした。彼は、イスラム教の学者たちと神学論争を交わす一方で、ギリシャ正教会の総主教ゲンナディオスとキリスト教の教義について議論し、イタリアの人文主義者たちと古代哲学について語り合いました。彼の図書館には、アラビア語やペルシャ語の写本だけでなく、ギリシャ語やラテン語の古典も数多く収蔵されていたと言われています。
このように、メフメト2世は、軍事力によって異なる文明を征服するだけでなく、それらの文明が持つ知識や芸術を積極的に吸収し、融合させようとしました。彼の宮廷は、東洋と西洋、イスラムとキリスト教の文化が交差したるつぼであり、そこから生まれた新しいオスマン・ルネサンスとも呼べる文化は、帝国のアイデンティティを豊かにし、その後のオスマン芸術や学問の発展に大きな影響を与えました。彼は、力と知性を兼ね備えた、まさにルネサンス的な万能人(ウオモ・ウニヴェルサーレ)の一典型であったと言えるでしょう。
死と遺産
1481年の春、メフメト2世は新たな遠征の準備を進めていました。その最終的な目的地は明らかにされておらず、ロドス島への再度の攻撃、イタリア侵攻の本格化、あるいはマムルーク朝が支配するエジプトへの遠征など、様々な憶測を呼んでいました。彼は、自ら軍の先頭に立ち、コンスタンティノープルからアナトリアへと渡りました。しかし、マルテペ近郊のフンキャル・チャユル(皇帝の牧草地)と呼ばれる場所で陣を張っていた際、突如として体調を崩しました。
彼の病状は急速に悪化し、激しい腹痛と嘔吐に苦しみました。侍医たちはあらゆる治療を試みましたが、効果はありませんでした。そして1481年5月3日、メフメト2世は49歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。彼の突然の死の原因については、長年の痛風の悪化や、消化器系の病気など、自然死であったとする説が有力ですが、毒殺されたという説も根強く残っています。毒殺説の背後には、彼の急進的な中央集権化政策や財政改革に不満を抱いていた勢力、あるいはヴェネツィアのような外国勢力の陰謀があったのではないかと囁かれています。真相は歴史の闇の中ですが、彼の死がオスマン帝国の内外に計り知れない衝撃を与えたことは間違いありません。
メフメト2世の死は、直ちに後継者争いを引き起こしました。彼には二人の息子がいました。長男のバヤズィトはアマスィヤの知事を務めており、次男のジェムはコンヤの知事を務めていました。大宰相カラマンル・メフメト・パシャは、メフメト2世の改革路線を継承するジェムを支持していましたが、首都のイェニチェリ部隊は、より穏健な政策を期待してバヤズィトを支持しました。イェニチェリは反乱を起こして大宰相を殺害し、バヤズィトが首都に到着するのを待ちました。バヤズィトはスルタン(バヤズィト2世)として即位しましたが、ジェムはこれを認めず、アナトリアで反旗を翻しました。この兄弟間の内戦は、ジェムが敗れてロドス島へ亡命し、その後ヨーロッパ各地を転々とさせられるという形で、長年にわたってオスマン帝国の外交を揺るがす問題となりました。この内乱のため、メフメトが計画していたイタリア遠征は完全に中止され、占領していたオトラントも放棄されることになりました。
メフメト2世が後世に残した遺産は、計り知れないほど大きく、多岐にわたります。
第一に、彼はオスマン帝国を地方的な君侯国から、ヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸にまたがる世界帝国へと変貌させました。彼の30年間の治世中に、オスマン帝国の領土は2倍以上に拡大しました。コンスタンティノープルの征服は、帝国の地理的・戦略的な中心を確立し、バルカン半島とアナトリアの統一は、帝国の強固な基盤を築きました。
第二に、彼は帝国の統治機構を根本的に改革し、中央集権的な絶対君主制を確立しました。彼が編纂した法典(カーヌーン・ナーメ)と、デヴシルメ出身者を重用した官僚制度は、その後のオスマン帝国の統治の根幹をなし、帝国の長期的な安定に貢献しました。彼は、トルコ系の古い貴族勢力を抑え、スルタンの権威を絶対的なものとしました。
第三に、彼はコンスタンティノープルを、オスマン帝国の首都として、また世界的な大都市として再興させました。彼の人口政策と寛容な宗教政策は、多様な人々が共存する国際都市イスタンブールの基礎を築きました。彼が建設したファーティフ・モスクやトプカプ宮殿は、今日に至るまでイスタンブールの象徴的なランドマークとして残っています。
第四に、彼は文化と学問の偉大なパトロンであり、彼の宮廷はイスラムと西洋の文化が融合する活気ある中心地となりました。彼の知的好奇心と芸術への支援は、オスマン・ルネサンスとも呼べる文化的な興隆をもたらし、その後のオスマン文化に深い影響を与えました。
メフメト2世は、その目的のためには冷酷で非情な手段も厭わない独裁的な君主であった一方、広範な知識と鋭い知性を持ち、異なる文化に対しても開かれた姿勢を示す複雑な人物でした。彼の野心、軍事的才能、そして統治者としてのビジョンは、彼が生きた時代を定義し、その後の世界の歴史の進路を大きく変えました。「征服者」という彼の称号は、単に軍事的な勝利だけでなく、帝国を築き、法を定め、文化を育んだ彼の多面的な業績を象徴しています。